熱湯風呂と師匠の顔
男はその様子をぽかんと口を開けて眺めた。
師匠が白い煙を吐いた。
「スタジオじゃねえんだって。わかんねえ奴だなお前も」
師匠が男に言った。
男は立て続けに起こる現実感のない出来事に困惑した。
しかし芸達者な師匠のことだから、羽も煙も手品かもしれない。
そう思いたい。
男は聞いた。
「師匠、今のどうやったんすか?」
「手品じゃねえぞ。いいかよく聞け。ここはな、何かがあるようで何にもないんだ。だから慣れたらいろいろできるんだよ」
と師匠は言った。
「すごいじゃないっすか!よくわかんないけど」
「おう。そうだよ。すごいだろ?これ飲み屋でやったらお姉ちゃんにモテるんだけどなあ」
師匠は目を細め斜め上に煙を吐いた。
「てか師匠、なんでもできるなら、ここにお姉ちゃん出せないんですか?」
いい考えを思いついたものだと男は得意げに言った。
「試したよそんなのはとっくに。だめなんだよ。できるのは限られてんだ」
師匠は男に右手を差し向けた。
そこにまた裸のタバコが一本現れてた。
男はそれを受け取り会釈すると、師匠はそのタバコの先に左手の人差し指で火を灯した。
二人は煙を吸い込み、しばし沈黙した。
師匠が指を鳴らした。
すると、切子ガラスのコップに入った酒がふたつ現れて、宙に浮いた。
「まあ飲め」
そう言って師匠はひとつ取り、男もひとつ取った。
男はそのコップに見覚えがあった。
慕ってくれた後輩がプレゼントしてくれたコップだった。
ふたりはしばらく黙って飲んだ。
「師匠、いも焼酎好きっすね」
酒を飲んで落ち着いた師匠の機嫌が見るからに悪くなった。
「それよりお前だよお前。全く。お前こそ勝手に死んじまいやがって、何やってんだ全くおめえはよう」
と師匠は男を叱った。
師匠はコロナで死に、男は生きる選択を間違えて生から転げ落ちた。
師匠は怒っていた。
もちろん時代が男にとって辛いものだったのは師匠も十分承知していた。
多様性が一人歩きした時代、いじめられてキレる男の芸は出る幕を失っていき、そうこうしているうちにコロナが来て客の笑いを体で浴びる機会まで奪われていった。
芝居も笑いも客の熱を浴びてこそ生きる。
客の熱は芸人の命そのものだ。
男が生きる意味を見失ったとしても、わからないではない。
しかし、と師匠は思った。
例えどんな逆境にあろうとも、いや、そんな逆境だからこそ前を向き、酒を飲み、大声を出し、笑い、笑わせていくのが芸人だろう。
師匠は心底可愛がった男がふらりとこちらにやってきたのが悔しかった。
「いや、あんまり覚えてないんですけど、魔が差したっていうか。へへ。あの、すいません…」
「俺は病気だからしょうがないけど、お前はダメだよ。お前よお、お前の事想ってくれてる人たくさんいんだよ、わかってんのかお前それ」
「すいません」
「すいませんじゃないよ全く。で、お前どうすんだよこれから」
「どうするって、わからないんですけど、どうなるんです?」
「そりゃお前、地獄だよ。勝手に死んだんだから」
「ええっ!?やですよ地獄なんて!」
「いいじゃねえかお前。熱い風呂得意だろ?」
「そういう問題じゃないでしょ!熱いったって限度がありますよ!」
「地獄じゃお前、鬼が熱い風呂に押し込んでくれるらしいぞ。よかったな、ウケるぞ」
「やですよ!鬼にウケたってしょうがないでしょ!」
「俺に怒るんじゃないよお前。お前が勝手に死んだんだから」
「やですよ!お願いしますよ師匠!天使なんでしょ?俺を助けてくださいよー!」
と男は師匠に泣きついた。
「たくしょうがねえなお前は。まあいいや。どのみちそのために待ってたんだから」
と師匠が言った。
「え?待ってたんですか?俺を?」
師匠はカップの酒を飲み干し、タバコを吸った。
大きく吸い込んだ煙を吐き出し、
「そうだよ馬鹿野郎。天使になるとな、次に誰がこっちに来るとか、ピンと来んだよそういうのは。で、天使にはこっち来た人間の弁護をする力ってのがあるの」
と言った。
「弁護?師匠、天使なのに弁護士なんですか?」
「そうだよお前。これから閻魔様のとこ一緒に行ってやるから。ほら行くぞ」
「閻魔様ってあの?」
「そうだよ。他にどの閻魔様がいるんだよ」
まさか閻魔大王がいるなど考えていなかった男は、よく聞く死後の話、三途の川の事の思い出した。
「そういえば俺、三途の川渡りました?」
「あそこは死にかけの奴が渡るの。普通は行かないからあそこは。金ばっか取られるから行かなくて正解だよ。おれはわんさか取られちまったよ」
師匠の説明はなんだかわかったようなわからなかったような感じだったが、男はこれから会いに行くという閻魔大王の事を思い憂鬱になった。
「閻魔様かあ。やだなあ。怖いんでしょ?」
「そりゃ怖いよお前。閻魔様なんだから怖いに決まってんじゃん。怖くなかったら示しがつかないよ」
「怒られます?」
「そりゃ行ってみないとわかんないよ。まあ俺は怒られなかったけど、お前は怒られるだろな。酒癖悪りいしなお前」
「酒癖関係ないでしょ?そんな事言ったら師匠だって別に良かあないですよ」
「俺はいいんだよ独り身なんだから。お前カミさんいるじゃねえか。まったく。かわいそうに」
言われて男は落ち込んだ。
「俺、なんでこっち来ちゃったんでしょう」
「知らねえよ。俺が知るわけないだろ。まあもう来たもんはしょうがねえだろ。ほら行くぞ」
と言って師匠は男の背中をぽんと叩いた。
男は師匠の顔を見た。
怒っているような、悲しんでいるような、でも笑顔のような、そんな顔だった。
男は心の中で師匠に感謝し、謝った。
「お前、もし閻魔様に無事に許してもらえたら、酒飲みながら延々説教だかんな」
師匠は軽く男の頭を叩いてそう言った。