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蓬団子と生者の巡礼 4

 さわさわと穏やかな風が吹き、花橘の暖簾に木漏れ日が落ちる。この一年ですっかり見慣れた店先だ。けれどもうこの景色を見るのも最後になるかもしれないと思うと感慨深かった。けれど私のその思いなど知らぬように橘はあっさりと中へと入っていく。なかなか入ろうとしない私に訝し気な目を向けたところで私は玄関に駆け寄った。


 「お帰り二人ともー。荷物届いてるよ」

 「荷物? 荷物って」


 今まで何度か見たことのある木箱。側面には「烏天狗急便」と書かれている。以前これを配達してきた烏天狗に、随分と俗っぽい、と言ったら黒猫には負けていられないと返された。曰く、烏天狗なら黒猫より大きな荷物も運べるし、大きな朧車より小回りが利く、と。黒猫の宅急便は黒猫が配達しているわけではないとは言わなかった。


 「花橘宛て。依頼人見てみて」

 「…………なんて書いてあります?」


 ひらりと渡された和紙に書かれたのは、また濃い墨で書かれたミミズののたくったような字。早々に諦めて橘の寄越す。


 「雪天、だ。5月6月あたりにお前たちが花橘に連れてきてたやつだろう」

 「雪天!」


 梅雨あたりに私と飛梅が見つけて花橘に連れてきた、蚕の妖。真っ白い着物や襟巻きが特徴的で、自分が何であったか思い出したあの子はどこかへ飛んで行ってしまった。

 木箱を開けると中には1枚の和便箋と白い布が入っていた。

 便箋は一目見ただけで読めないことが分かったためそのまま橘に押し付け、指先で布に触れた。サラリと滑る、柔らかな布だ。


 「雪天は元気にしてるんですね」

 「……ああ、そうらしい。それは天ぷらの礼らしい。あの時は何も持ってなかったし、食べてすぐどっか行ったからな」


 花橘のお代の払い方は自由だ。みんなそれぞれ払えるものを払っていく。植物や骨董品、伊地知も確か抜けた牙で支払いをしていた。雪天もそれを後でどこかで聞いたのかもしれない。そしてそのお礼がこの布らしい。天ぷらのお代にしては少し高すぎるようにも見えた。


 「綺麗な布ですね。真っ白で、キラキラしてるみたい」

 「それは生糸で織った布らしい」


 生糸、と聞いて三人で無言になる。

 雪天は蚕の妖だ。そして生前は養蚕家で飼育されていた。だから生糸とのつながりはおかしくない。けれど生糸を作る過程のことを思うと、溢れてあまりある疑問符が転がる。


 「……ま、まあ雪天って蚕の成虫の姿してたのに天ぷら食べてたし、それに長距離飛べるみたいだから、ね!」

 「まあ蚕そのものじゃなく、あくまで妖だからな。……どうにかしたんだろう」


 余計なことは考えない、で満場一致。これ以上の言及はお互い避けた。

 妖はどんなものも不思議なのだ。浮世の理にあてはめてはいけない。


 「今あの子はどんなところにいるんでしょうね?」

 「さあ、でもきっと幸せに暮らしてるんだろうね。寂しくなくて、温かくて、桑がいっぱいあるところ」


 飛梅の言葉に、そうであると良いと心から願った。

 孤独に彷徨い続けたあの子が、平穏に暮らしている場所がきっとあるのだと。






 「座れ」

 「いや、でも」

 「座れ」


 有無を言わせない声色で橘は私を食卓に着かせた。

 テーブルの上には湯気を上げる鰆とアサリのアクアパッツァ。橘にしては珍しい、宵満月がおしゃれと喜びそうなイタリアンだ。バジルとニンニクの匂いが食欲をそそるだろう。

 きっと前までなら、一日花橘で働いた後は夕方あたりからお腹が空いて仕方がなくなるのに、自分が生身の人間ではないと自覚してからは空腹自体感じなくなり、物を食べる気力もわかなくなった。


 「……私、食べられませんよ」

 「知ってる。だが席に着くことにも意味がある」


 これがおいしいだろう、ということはわかる。橘の作る料理はいつもおいしい。けれどどうしても口に運ぶ気になれない。


 「匂いだけでいい。死人の食事はそういうものだ。それだけで意味がある」

 「はあ」


 死人の食事、とは聞きなれない。とりあえず私は匂いを嗅ぐことにした。ニンニクとオリーブオイルの匂い。微かに残る香りは白ワインだろう。食べられないのがもったいなく思える。

 それにしても、シュールだと橘を盗み見る。ただただ匂いを嗅ぐ私に対して橘は大口を開けてバクバクと食べていく。今までじっくり橘の食事風景など見たことがなかったが、まるでブラックホールのように彼の口の中に料理が消えていく。


 ふと、ああこれが生きてるってことなんだ、と思った。

 ものを食べて、エネルギーを作って、活動する。食べるという行為が、生きるという行為そのものなのだ。それは生きた人間も、妖も同じ。魂だけになってただ死ぬのを待っているだけの私とは違う。私は、生きることを、食べることを放棄している。


 スン、と鼻を鳴らす。食欲を刺激する、いい匂いだ。匂いだけで何をベースに作っているのかわかるくらい、どんな味なのか想像ができるくらい。

 橘が彷徨う紫苑に作り続けている、ハーブのクラムチャウダーもそうだった。



 「……俺は、遺された者の話しかしない」


 橘はおもむろに話し始めた。脈絡はない。けれどそれは彼が話そうと決めていたことなのだと、言葉の重さからわかった。居住まいを正して、テーブルの向こう側の橘を見据える。


 「俺は死んだことはなく、もうこのまま死んでもいいと思えるような苦しみを味わったこともない。……お前の苦しさは、梓乃との話で聞いた。それでもお前の人生はこれから先ずっと長い。誰かの子だったお前は、そう遠くないうちにただ一人立つ大人になる。捕らわれることも縛られることもなく。それを待つことができないのか」

 「今ある苦しさから、逃げたいと思っては、いけませんか」

 「思うのは自由だ。だが行動が伴うなら話は別だ」


 ずるい言い方をしたとは思っている。苦しさなんて、当人以外の誰にも量れない。それでも橘が説得をやめないのは予期していた。


 「お前、わざとトラックに飛び込んだんだろう」


 私は返事もせず、ただ橘を見つめた。


 「遠野奈子から聞いたとおり、原因は彼女だ。お前の気を引こうとしていた。それでも、本当に死のうとしたわけでも、怪我をしようとしたわけでもない。ただふらついただけ、せいぜい膝をついたりすぐそばに倒れこむだけだ。少なくとも、車道に飛び出して倒れるつもりはなかったはずだ。にも拘わらずお前は彼女を庇って車道に飛び出した」


 まるでテレビドラマのようだ、とどこか他人事に思う。私が殺人犯で、橘が名探偵。真実を静かに明らかにしようと犯人を追い詰める橘はため息を吐くように、言葉の棘を抜くように言った。


 「お前、便乗したな?」


 犯人なら、真実を言い当てられたとき、どんな顔をすればいいのだろう。


 橘の言う通りだった。


 奈子の、私の気を引きたいという思いを知りながら、利用した。自分が死んでもいいようなシチュエーションに、便乗した。偶然だった。それでも今ならできると、私は判断した。


 「他の誰も、お前を責めたりはしない。誰も真相をしらない。加害者はトラックで、被害者はお前。客観的にはそれだけだ。だから俺が糾弾する」

 「……糾弾?」

 「お前はあの友人の心を粉々に砕いた。この上なく傷つけ、トラウマを植え付けて、そのうえでお前は一人で逃げようとしている。彼女に負い目だけをこれでもかというほど被せて、死んで逃げようとしている。それがどれだけ残酷なことか理解しているか?」


 私は答えなかった。けれどもう役者のように取り繕う気も起きなかった。

 知ってる。私は最低だ。彼女の可愛らしい思いを利用して、最悪の形で踏みにじった。彼女がどんな思いに苛まれるか、想像して、想像したうえで私は死のうとした。

可愛い友人の苦しみよりも、私は今すぐ逃げ出し、楽になる方を選んだのだ。


 「俺は生きる者として、遺された者として、赤の他人として糾弾しよう。お前には生きて、あの子に説明する義務がある」

 「義務ですか」

 「昨日会っただろうが、遠野奈子にはお前の声は届いていない。ただお前が吐露を聞いただけだ。あの子はまだ、なにも救われていない。ただ傷を抱えたまま待ち続けるだけだ。お前がこのまま死ねば、あの子はもうどこへも行けない。お前という理不尽で身勝手な自殺者に心を引き裂かれたまま生きていかなければならない」


 私は、奈子のおかげで救われる。逃げられる。

 奈子は、私のせいで苦しみを負わされる。良心に罪の意識に苛まれる。


 視界が揺らいだ。息を細く吐き出す。肺も腹も、空っぽにするように。良心の呵責など吐き出すように。そんなことわかってる。わかってた。そのうえで私は逃げ出すのだ。


 「俺はお前の苦しみを知らない。だから理不尽に、一方的に糾弾し、命令する」


 じろりと橘は私を睨みつける。まるでお寺の明王のように、私を見下ろす。


 「生きろ、桜良紅於。お前には生きて説明する義務がある。あの子がお前にとって大事な人間なら、大切な友人であるなら、お前は決してこのまま死んで逃げてはいけない」


 逃げてはいけない。

 ようやく逃げ出す未来を選べた私に、橘は言う。


 「こんな終わらせ方をしてやるな」


 私は答えられなかった。 


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