蓬団子と生者の巡礼 1
寝起きだというのに、ここ数日身体がとても軽かった。春の風に飛ばされてしまいそうなくらいに。今突風が吹いたら、私の身体も存在も霧散してしまうんじゃないか、と外に出て手のひらを太陽にかざす。時折透明になる私の手のひらは、今は血管だけを透かしていた。
感傷的な気分を振り払って、使い慣れた如雨露を手に取った。
この生活も、あと二日だ。
あと二日で、何もかもが終わる。
覚悟は決めていたはずだ、といまだ寒さの残る早朝の庭に出た。
水やりが終わると橘に呼ばれ厨房へと入る。手際よく準備をしていく橘が口頭で献立を伝え私も仕事に取り掛かる。食材の下処理も、店の準備も手慣れたもので、軽くなった身体でも何の問題もない。
厨房の格子窓から入り込む風が心地いい。春は風の季節だ。五悪に数えられ、頭痛やのぼせ、花粉症を呼び込む。
昨日作って冷蔵庫にしまったシロップの瓶を取り出す。たんぽぽと菊花で作った甘くて少し苦いシロップはトロリとしていて、問題なくお店に出せそうな出来だった。菊花やタンポポは春の風にのぼせた身体から余計な熱を放出させる。吹き出物や腫れにも効果があり、疲れ目や充血にも良い。春に食べるには向いている食材だ。シロップにすれば保存がきくうえ汎用性も高い。どんなデザートに合わせてもいいし、飲み物に入れてもいいと使いやすい。
今日のデザートは菊花の杏仁豆腐だ。冷蔵庫で冷やされている巨大なバッドに入った杏仁豆腐を思い浮かべる。一人分にスプーンで取り分けて、シロップと飾り用の花弁を散らせば目にも楽しい春のデザートだ。身体の冷えがちな組み合わせだから温かい飲みものを合わせよう。
よくもまあ、私も覚えたものだ。ほんの一年前まで、タンポポは食べものじゃなくて道端の雑草で、菊花は飾りだろうと刺身から取り除いていたのに。弁証施膳だなんて言葉、聞いたこともなかっただろう。
「橘さん、デザートの準備は終わりましたよ。タンポポ良いですね。見た目も綺麗だし、少し苦みが気になっても焼き菓子とかに混ぜ込めば食べやすいかもしれません」
つい、と目線を私にやって、橘がなぜか看板を下ろした。朝は確かに客が少ないが、昼少し前にはちらほら客も入りだすというのに。
「飛梅、留守番してろ。薬を取りに来た客がいればそれだけ渡してくれ。食事の客は俺が戻るまで待たせておけばいい」
「はぁいごゆっくりー」
「ベニ、今から梓乃のところへ行くぞ」
突然の言葉に目を瞬かせる。
梓乃、子殺しの罪を背負った鬼女だ。あの夏祭りの日から、私は一度も彼女とは会っていない。いや、会うなと橘から言われていたのだ。ずかずかと人の事情に口出しし、無遠慮に彼女を傷つけた私があってもいいのか、という思いが私にもあった。
「いいんですか?」
「……最後の挨拶だ。始末くらいはつけて行け」
苦虫をかみつぶしたような顔をした橘は藤色の風呂敷に包まれた荷物を私に押し付けた。
「これは?」
「蓬団子、手土産だ。俺が作った。帰ったらお前も作れ。作り方は教えただろう」
蓬団子。橘はよく挨拶や礼にこういったものを作る。蓬団子、大福、おはぎ、桜餅、そしてそれらはとてもおいしい。常連は彼の手土産を楽しみにしているのだ。
それからは振り向くことなく足早に突き進んでいく橘を小走りで追いかけた。実体がないと言っても過言でもない私は、息切れを起こすこともない。
複雑そうな橘の顔を思い出して、彼が振り向かないことをありがたく思った。
今見たら、きっと私は笑ってしまうだろうから。橘は、優しすぎる。
「いらっしゃい、炉善くん、それにベニちゃん」
梓乃が待っていたのは以前彼女と別れた自宅ではなく、そこの近くの開けた森だった。切り株のテーブルに丸太の椅子。まるで絵本の中に出てきそうな場所だった。午前の柔らかな日差しが降り注ぐ中に立つ彼女は、とても鬼のようには見えない。初めて会った時のような、嫋やかで品の良い女性のように思えた。
「梓乃さん、」
「ベニちゃん、来てくれてありがとう、嬉しいわぁ」
穏やかに笑う彼女は丸太の一つを指さす。必然的に場所が決まったと言わんばかりに橘が黙って腰をおろす。私の席は梓乃から少し離れた丸太だった。
「……ごめんなさいねえ、怖かったでしょう?」
何を、とは言わなかったが、何のことかは明白だった。
「いいえ、私の方こそごめんなさい。私はあなたのことを傷つけすぎてしまいました」
指示された丸太を何とか引き摺り、私は梓乃のちょうど隣に腰をおろした。
少しだけ眉を動かした橘は見ないようにする。
「知ったような口をきいて、すみませんでした」
ある限りの誠意を込めて、頭を下げた。
「え、ちょっとベニちゃんが謝ることないわぁ……! 私があなたを怖がらせて、あなたのことも、小さな子のことも傷つけてしまおうとしたのよぉ」
顔を上げなくても、声色で彼女がどんな顔をしているかは分かった。私は今彼女を困らせている。それでも私は顔を上げることができなかった。ただただ汚れることのないローファーのつま先を睨みつけた。
「……私は、何も知らないのにあなたのことを否定してしまいました」
母親として、間違っている、なんて、どの口から出たものだろうか。
「いいえ、悪いのは私よぉ。魔が差した、だなんて軽く聞こえてしまうかもしれないけど。私は“良い母親”であるために、自分を慰めるために子供欲していたんだと思うわぁ。……それはきっと間違ってる。私は間違った母親だった。そのうえ記憶喪失なのに私の在り方を思い出させてくれようとしたあなたにひどいことを言ったわぁ」
砂を踏む音がして、私のローファーの前に白い足袋と着物の裾が揺れた。大きな手が私の頬を包み込んだ。
「梓乃」
剣呑な声が鋭く飛ぶ。けれど梓乃は聞こえないように囁いた。
「ありがとう、ベニちゃん。私に私の在り方を思い出させてくれて。あなたのおかげで、私は一つ罪を犯さずに済んだ。愛した子を殺さずに済んだ。あなたのおかげよ」
ゆるゆると、優しく顔をあげさせられる。穏やかに微笑む梓乃がそこにはいた。初めて会った時と同じように、心から私のことを慈しんでいる顔だ。思わず顔が歪む。
傷つけられても、拒絶されるかもしれないと思いながらもそれでも歩み寄ることをやめないこの人はどこまでも底抜けに優しい。どうしてそんなにも人に、私に優しくできるのか、私にはわかなかった。
「梓乃さん、私は」
「炉善くんから簡単に聞いてるわぁ。記憶が戻ったそうねえ、おめでとうベニちゃん。もう、花橘からはいなくなるのね」
簡単に、その言葉がどこまでを指すのかと身体が硬直した。
「いなくなる」それが元の身体に戻ることではなく、そのまま死ぬことを指していると彼女が知っているなら、橘たちと同じように咎められるのではないかと。
「最後に会いに来てくれて、ありがとう。あなたとはもうあれきりになってしまうんじゃないかって怖くなったわぁ」
大きな手が私の髪を梳く。
「あなたのことを怖がらせたまま、私の一番醜い姿が、ベニちゃんの見た最後の私になってしまったんじゃないかって不安だった。でもこうして、私はあなたとまた会うことができた。お別れを言うことができる。それだけで、私はまた救われた気がするの。あなたが私を叱ってくれた時みたいにねぇ」
柔らかい言葉に、何一つとして偽りはないだろう。だからこそ、私はますます身を硬くした。じわじわとこぼしたコップの中身が広がるように、私の中に罪悪感が広がっていく。私はそんな立派な人間じゃなかったんだ、なんて叫びだしたくなる。
「あなたの道はこれからずっと続いていくわぁ。大人になることのなかった私の子供たちと違って。この1年の寄り道のあと、あなたはたくさんの時を重ねていくの。そうして子供から大人になっていく。……そしていつか、あなたも母親になるのかもしれないわぁ」
そこまで聞いて彼女は私の選択を知らないことが分かった。彼女は私が元の身体に戻って、生きるつもりだと思っているのだ。なぜそこを伝えていないのか、と橘の方を振り返るが彼は軽く私を睨むだけだった。
「……梓乃さん、」
「だからもしあなたが母親になったら、私のことを思い出して。決して私のようにはなってはいけないって。それで、あなたが私に向けた言葉をどうか忘れないで」
「梓乃さんっ、違うんです、私、」
言葉を止めてどこか不思議そうにする梓乃を見上げて、一瞬言葉に詰まった。




