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反魂香と鶏生姜の粥 5

 「紅於、紅於? そこにいるの? まだそこにいる?」



 私の肩のあたりに視線を彷徨わせる奈子に、はっきりと私が見えているわけではないとわかった。けれどさっきは確かに、私と彼女の目はあった。



 「奈子、私はここにいるよ」



 私の返事は揺蕩う香煙を揺らすこともない。吐いた息も音も、そんな当たり前の事実に自嘲した。声は聞こえていないだろう。けれど奈子ははじかれたように私を見た。



 「紅於、そこにいるなら聞いて。私、ずっと紅於に謝らないといけなかった。紅於に言わなきゃいけなかったことがあるの」



 記憶の中にある彼女の姿よりずっとやつれていた。目の下には濃い隈が、明るい色の艶のない髪が、彼女の憔悴しきった心をうつす。けれど私を見据える両目だけは赤々と燃えていた。



 「私、ずっと紅於のことを縛り続けてた。紅於が傍にいてくれるから、私を助けてくれるからって甘えすぎてた」



 はっきりと見ることもできない私に対して、彼女は懺悔のように胸の内を吐き出した。



 「いつも一人だった私に、紅於はいつもそばにいてくれた。体調が悪くなったら誰よりも先に気づいてくれて、困ってたらすぐに手を貸してくれる。……紅於は、いつも私のヒーローだった。……いつからかわからない、でも気が付いたら私は紅於に依存してた」



 一瞬言葉を止めて、血を吐くような声で、呟いた。



 「私はあなたの心に付け込んだ。付け込んで、あなたを縛り付けた」



 大粒の涙がいくつもその目からあふれ出す。



 「本当は知ってた、子供のころから。自分のことが嫌いな紅於は、善いことをすることにこだわってた。私を助けることが、紅於の助けになることに気づいてた。だから私は、紅於を頼り続けた。ずっとそんな関係を続けていくなんて、無理ってわかってたのに、私は何も変えようとしなかった。私は、不健康な自分が好きだったんだよ。紅於が一緒に居てくれるから」

 「奈子、それは」

 「気づいてたの。きっと私たちは卒業したら離れ離れになる。紅於がいたから東光高校を選んだの。でも大学までは一緒に行けない。そうしたら、紅於は私の代わりを探す。私にとって紅於の代わりはいないけど、私の代わり、困ってる人はいくらでもいるから」

 「違う、違うよ奈子」

 「馬鹿だよね。それでも私は変えられなかった。子供の浅知恵みたいな気の引き方しか、私は選べなかった。鏡も写真も子供のころ以上に嫌悪する紅於を知ってたから。少なくともこの関係を続ければ変わらず私の傍にいてくれるって。……でも私の勘違いだったんだよね」



 疲れ切ったような顔にさらに影が差す。断罪を待つように、私に見限られるのを待つように。



 「本当はうんざりしてたんだよね。だから、紅於は戻ってこない」

 「待って、違う! 奈子のことじゃ」

 「ねえ、私変わったよ。紅於がいなくてもこの一年、生きて行けた。一人でやっていけた」



 言葉を失った。奈子は、何もできない子だった。私が手を貸してやらなきゃ何もできないし、私が傍で見てないとどこで倒れていてもおかしくない子だった。けれどハッとして改めて奈子を見る。確かに、目の下に隈はあるし、唇も荒れている。けれど私の記憶の中にある頼りない奈子ではなかった。何より私の知る奈子なら山中の花橘まで一人で来る体力はないはずだった。



 「不健康であろうとするのをやめた。しっかり食べて運動もした。紅於としか喋らないんじゃなくて、いろんな人と積極的に話すようにした。紅於がいないと何もできない私は、もうやめたの。私はもう、紅於に迷惑をかけない」



 奈子の瞳は涙に濡れてる。幼い頃から幾度となく見てきた泣き顔だ。けれど目の前にいる奈子はいつもの奈子じゃない。涙を浮かべているけれど、その瞳は強いものだった。



 「あの日、私が眩暈を起こさなければ、紅於は撥ねられずに済んだ。私がもっとしっかりしていれば、紅於は身を挺して庇うようなこときっとしなかった。私が紅於に依存してなかったら、私たちはもっと健全な友達でいられたはずだった。もっと対等で、自立した友達に。……私はもう、あなたにぶら下がるのはやめる。どこに行くにもあなたの姿を探すのはやめる」



 西日を映し、赤く燃える奈子の目は、もう私の知らないものだった。私が一年、ここで過ごしてきたのと同じように、奈子もまた、一年というときを過ごしてきたのだ。



 「謝らせてほしい。紅於と過ごしてきたすべての時間を。あなたも誰かに依存していないと生きていけないと思い込んでいたことを」

 「……奈子、どうして」

 「戻りたくないほど、うんざりしてるかもしれない、私の顔なんて見たくなくて、恨んでるかもしれない。許さなくていいよ。私を嫌悪して軽蔑するなら、それでもいいよ。会いたくないなら、私は二度と紅於の前に現れないって約束する。だから」



 力強かった奈子の声が揺らぐ。顔は歪み、雄弁だった口が戦慄く。



 「だから戻ってきてほしい。嫌いでいいから、どうか生きていて。あなたが戻ってくるのを待ってる人がいるの」



 反魂香が揺らぐ。ただでさえ細かった煙は風にかき消されかろうじて細い線を引くだけだ。真っ赤な夕日の中、練色の煙は私と奈子の間に立ち上る。私は無意識に彼女に駆け寄った。大粒の涙を流しながら、嗚咽交じりに懇願する彼女に。私がなんとかしなくては、そう思ったのだ。薄く小さな手を取ろうとして、私の半透明な手は宙を掻いた。



 「ああ、そっか」



 今の私じゃ彼女の涙を拭うこともできないんだ。いや、それすらもう彼女は必要としてない。



 「奈子」



 消え行く反魂香の霞の中、もう一度、目が合った。



 「あなたが嫌っても私は紅於のことが大好きだよ。だから私はいつまでも待つ。あなたが戻ってくることを。直接あなたに、謝りたいから」

 「奈子!」



 そう力なく笑った奈子は、私の記憶と同じ奈子だった。

風が止むとともに、反魂香は燃え尽き、甘い香りは掻き消えた。糸が切れたように膝から崩れ落ちた奈子を、私はただ真正面から見ていた。もう彼女に私の姿は見えていない。



 「……桜良紅於は、見えたか」

 「いや、いました……紅於が、そこに……もういないけど、確かにいました」


 静かに問う橘は私のことなど見えないように奈子を抱き起した。涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げる彼女は痛々しいが、どこか晴れやかだった。


 「紅於と、話ができた気がします。……きっと戻ってきてくれます」

 「……そうか。もう直に暗くなる。麓まで送る」

 「ねえ橘さん。今日は本当ありがとうございました」


 愛想なく見下ろす橘に怯むことなく、彼女は笑った。


 「私、いつまでだって待てる気がします。今日のことがあったから、あの子がまだ近くにいてくれるって、わかりました。私の目には見えなくても、あの子はいるって。いつか戻ってきてくれるって」

 「…………」

 「その日まで私、生きていける気がするんです」


 麓へと向かう二人の背中を見送る。その背も木々も橙に染め上げる夕日は、目を焼くよう鋭さはなく、ただ温かく包み込むように花橘を照らしていた。


 どうしてあの子のことを忘れてしまったのか、何もかも忘れてしまったのか。今更になって静かに涙が溢れだす。頬を伝う涙は温かいのに、滴り落ちる粒は地面に染みを作る前に霧散していった。


 私は、私の身体は今も眠ったままなのだ。


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