表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
44/58

反魂香と鶏生姜の粥 4

 花橘に戻ると日が傾き始めていた。風が止んでいるせいで橙色の西日が体温を上げていく。我慢できずあくびを漏らした。


 花橘の玄関には準備中の看板が立てかけられ、その店の前では橘が縛兎を手伝わせつつ反魂香の準備をしていた。何もわからない私と遠野は邪魔にならないところでそれを見ている。店の前に大きな金属の香炉が置かれる。こんなものどこに、と思うが花橘には不思議なものたくさん置いてあるのだ。私には把握しきれない。きっと倉庫の奥の方に入っていたのだろう。この一年で一度も見ていないし、そもそも花橘の店で焚く香はもっと小さなものだ。こんな大きな金炉で焚いたらたちまち店の中は燻製室のようになってしまうだろう。誰かからもらって使わずにしまわれていたものかもしれない。ここには変わったものが集まりやすい。


 「良いのか」

 「何がだ」

 「これからの話だ。手放してもいいのか」

 「……もとからこのつもりだ。あの世へ行くまで放置する予定だったのが、別の方法をとるだけだ」

 「お優しいなあ橘よ」


 橘と縛兎がよくわからない話をしながら香炉の中に何かを入れた。

 ふとこの二人が話していると、見鬼でない人間にはどう見えるのだろうか、と遠野の顔を伺うと怪訝そうな顔をしていた。おそらく、橘の独り言に見えるのだろう。一人でぶつぶつ言いながら怪しげな器具を持ち出す、会って間もない中年男性。これほど怪しいシチュエーションもなかなか他にない。

 金炉の蓋を閉めた橘が立ち上がる。


 「さて、遠野奈子。これがお前さんの望んだ反魂香だ」

 「は、反魂香はないんじゃ」

 「おいそれと出せるもんじゃないってだけだ。今日話を聞いたうえで使ってもいいと判断した」


 恐る恐る、遠野がひざ下まで高さのある香炉に近寄った。長らく火の焚かれていない香炉からは何の匂いも煙も立ち上らない。


 「この反魂香は、魂を戻す反魂香ですか?」

 「いや、この反魂香は煙の中に死者の姿を見せる。お前さんには煙の中に幼馴染の姿が見えるはずだ」

 「……」

 「昔から伝わるこの反魂香は、煙の中に死者の姿を見せているのか、煙の中に死者の魂を呼び出しているのかわからん。ただ見る者の前に姿を現すことは確かだ」


 死者の姿を見ることができる。私はちらりと縛兎の顔を伺った。ひょいと短い眉を上げる。


 「普通に考えれば、死者の魂を地獄から呼び戻し現世に連れてくる、というのは考えにくい。が、実際のところは俺にもわからない。俺も初めて見るし、何より反魂なんていうのは外法も外法。常識外れのことが起こってもおかしくは、ない」


 何が起こるかわからない、パンドラの箱が私たちの前に置かれている。


 「遠野奈子、お前さんが話したこと、昼ので全部じゃあねえだろ」

 「っ、え……」

 「トラックに幼馴染が撥ねられたときの話、あれは不自然だ。幼馴染は突然倒れた、と言っていたが、歩いてるとき車道に飛び出すほど横に倒れるか? 突然気を失うとき倒れるのは前か後ろ、そうじゃなきゃ膝からその場に崩れ落ちるかだ。しかも事故に遭った場所は歩道と車道がはっきり分かれてる。それなのにどうして、気を失ったないし、ふらついた奴が勢いよく車道に飛び出すことになったのか」


 息を飲んだ。遠野は俯いて肩を震わせている。

 交差点で遠野の見せた動揺や憔悴は本物だ。そこであった事故を思い出し、悲嘆に暮れていた。幼馴染のことを想い、眉唾のようなこの花橘を探していた。


 ではこの子はいったい、何を隠しているんだ。


 「違、違う……あの子は、突然倒れて交差点に、」

 「さあ? 俺たちに本当のことを話したくないのか、それとも1年かけて自分の記憶が書き換えられたか。どうだろうな」

 「そんなことっ」

 「俺たちに言いたくないなら、言わなくていい。お前さんの目的はもう達成される」


 香に火がつけられた。


 「俺たちに言いたくないなら、煙の中の幼馴染に言うがいい」


 バニラにも似た甘い香りが立ち上る。濛々と煙るでもなく、静かに静かに立ち上る。ほの白い煙が、西日に照らされて橙に染まる。


 甘い香りが、夕日の暖かさが、ずっと深くから眠りを誘いだす。貴重な反魂香を見る機会だと言うのに、私は耐えがたい眠気に襲われていた。


 身体が重くなり、呼吸は深くなる。


 どうしてだろうか、なんだかひどく懐かしくなる。

 暖かい夕陽。

 橙の空と端から現れる藍色。

 まだ冷たさの残る強い風。

 私は、これを知っている気がする。

 鳩尾の奥にしまわれた何かが、解けるように、溶けるように。



 山ではない匂いがした。

 耳の奥で車の走る音が聞こえる。

 帰り道の高校生たちの声が聞こえる。

 アスファルトを叩くローファーの音が。

 風に乱れた長い髪が。


 暖かな橙に染められる中、煙越しに目を見開いた遠野奈子と視線が合った。


 『お前には時間がない。いつまでも花橘にはいられない』


 「……ああ、そうだ」


 あの神獣の言葉は正鵠を射ていたのだ。


 「紅於っ……!」


 私はもう、戻らなければならない。

 一粒の涙が転げ落ちた。




  遠野奈子は昔から体の弱い子だった。小学生のときからクラスの誰より身体は小さく、走るのも給食を食べるのも遅い。学校は休みがちで体育は見学が多い。そういう悪目立ちをする子だった。



 「紅於」



 嫋やかで可愛らしい、そんな子だった。

 だから困っていたら手を差し伸べ、虐められていたら割って入った。たとえそれで自分がいじめられたとしても、何の不満も私にはなかった。


 私は、桜良紅於は善き人であろうとした。よく体調を崩す彼女に肩を貸すのは、至極自然なこととなっていたし、足元のおぼつかない彼女を支えることも、当然のことだった。それは小学生の時から高校生になるまで続き、私たちの関係もまた変わらなかった。

 か弱いあの子を支える、善良な私。


 だからあの日、道路に倒れこみそうになる彼女のことを、私が庇うのも当然のことだった。

 舞い上がる桜、閉じかけた瞼、もつれた足、目を潰すような眩い夕陽、走るトラック。奈子の身体は車道に大きく傾いた。



 「あ、」



 小さな声が、いっそ驚いてすらいないような短い声が聞こえた。私は力いっぱい奈子の腕を引っ張った。決して彼女が、車道に飛び込んでしまうことのないよう。奈子を、守るために、あるいは自分を守るために。

 奈子の身体は歩道に勢いよく戻ってくる。そうして代わりに、私の目の前には車道のアスファルトが迫っていた。辛うじて首を傾けるとトラックのライトが目を焼いた。


 私はその瞬間安堵していた。


 美しい橙の中、雨のような桜の中、私の存在自体を焼き消すようなトラックのライトに包まれて、私は意識を手放した。ただ微かに、彼女がどんな顔をして私を見送ったのか。それだけがほんの少し気がかりだった。


 私は、桜良紅於は事故に遭って死にかけたのだ。

 幽体離脱したまま帰ってこない幼馴染は、私だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ