紫苑とハーブのクラムチャウダー 10
一際大きく風が吹いて、雨が店先へと降り込んできた。ハッとして視線を向けるが、戸の前には何もいない。雨と闇が広がるだけだった。
項垂れるように俯いた橘は浅い呼吸を繰り返す。机の上の指は落ち着きなく何度も組みなおされていた。
私がここにいることは、きっと彼にとって負担だろう。ただ静かな夜を迎えようとしていたのに、突然私が居座った。ただでさえ疲弊している精神を私はあえてかき乱しているのだ。ただ沈んでいくことを許さず、話をしろと強請る。それをわかったうえで、私はここを立ち去らない。迷惑なのも、負担なのも知っている。それでも私は知りたかった。知って、彼の悲しみに、彼女の悲壮に立ち会いたかった。
「馬鹿な、奴だったよ」
震える声で、橘はつぶやいた。馬鹿な奴、反芻するように責め立てるようにそう繰り返した。罵倒であるのにその声色には親愛と慈しみが混じっていた。
「目が見え過ぎたせいで、人の社会でうまく生きられなかった。俺や飽海のように隠すこともできないで、馴染めてなかった。その代わり、妖たちによく好かれていた。人の街では一人でも、この山にいるときはいつも必ず何かが紫苑の傍にいた」
大切に鍵を閉めてしまっていた宝物を、一つ一つ選別して私に見せるように、橘は何度も黙り込みながら私に話した。
「色素が薄くて、明るい目の色をしてた」
「誰から教わったのか知らないが、とにかく物知りだった。妖のことも、薬草のことも」
「誰に対しても優しすぎる。誰かが困ってると聞いたら真っ先に手を貸す奴だった」
「辛い料理はあまり好きじゃなかった。唐辛子は料理に使うが自分じゃ食べたくないと言っていた」
「高校を卒業してからすぐ、この花橘を始めたらしい。建物も設備も古い知人からもらったと言っていたが……人ではなかったんだろうな」
つい、息を潜めてしまった。
苦し気に一つ一つ話していたのに、言葉を重ねるほど、記憶を語るほどにその声は解けるように和らいでいった。
今、手元にある感情は悲しみだけだっただろう。けれど彼女と過ごした時間は、決してそれだけじゃない。
彼女と話した時が、彼女と食べた時が、彼女と笑った時が、今の橘を作り上げている。大切にしまい込んでいた記憶は決して過ぎ去った残骸や断片ではない。今も橘の中で生き続けている記憶で、橘を作り上げているものなのだ。
春には好奇心旺盛な桜の精に桜餅を食べさせた。
夏には煙々羅を台風から匿った。
秋には狐たちと薬膳と薬草を交換した。
冬には雪女にかき氷を作った。
私の中の橘紫苑という人が少しずつ、生きた人に代わっていく。死体でも、怪物でもない。橘と暮らしながら、妖たちと関り親しむ。人間社会とかかわらず山で生きていく彼女は、人から何を言われようとも、幸せに暮らしていた。
その時が来るまでは。
「客に、襲われた」
「…………」
突如として、幸せな日々は終わりを迎えた。
「詳しいことはわからない。俺が花橘へ帰ってきたら、紫苑はいなかった。店の中に人一人分くらいの血だまりができていた」
「それ、は」
「他の妖たちとあたりを探したら、花橘の近くで、狒々が死んでいた。何か棒のようなもので串刺しにされたらしいが、あたりに棒もなければ殺したと申し出る妖もいなかった。雨が降りしきっても、流れ落ちないほどに狒々の手は血まみれだった」
「…………」
「紫苑の血だった」
誰かが見たわけでもない。けれど状況証拠として十分だっただろう。どういう経緯があって狒々が花橘へ至ったのか、どうして紫苑を襲ったのか。狒々が死んでいては、何もわからない。
「狒々に食われた。遺体も何もなかったが、あの出血量じゃ、助からない」
狒々の腹を裂いて確かめることもできたが、しなかったという。狒々の死骸を裂いても、紫苑は帰ってこないし、狒々が謝するわけでもない、と。
「何があったのか、わからん。遺体はないが葬儀もした。……だが翌年、紫苑は帰ってきた」
ぐっと唇を噛み締めた。
帰ってきた。それがどういう状況なのか、言わずとも知れた。
「身体はもうぼろぼろだった。話すこともできない。それでも、一目であいつだとわかったよ」
「…………橘さん」
「衝撃だった。俺の中で紫苑はもうあの世で平穏に暮らしてると思ってた。死んでもそれで終わりじゃない。地獄や極楽があって、紫苑はそこにいると思ってた。でも紫苑は行けてなかった。……紫苑は死んだ後もずっとこの山にいた」
葬儀をして切り替えたつもりだった。彼女はあの世へ行ったのだと、もうここにはいないのだと、言い聞かせた。そうして新しい生活を歩み始めていたはずだった。悲しみから怒りから立ち直って、彼女のいない生活を始めていたはずだった。
けれどまだ終わってなどいなかった。紫苑はあの世へ行くことなく、この山で停滞していた。
「もう、どうすればいいかわからない」
再び、橘は項垂れた。
きっと何とかしようとしたのだろう。それで地獄の獄卒である縛兎に相談した。縛兎なら彼女をあの世へ連れて行ってくれると信じて。
その頼みの綱であった縛兎は、今日この花橘に来ていたのにすでに帰ってしまった。
橘は、縛兎では彼女をどうすることもできないことを知らない。
「冬の雨の日になると、来るんだ。それ以外じゃどれだけこの山を探しても見つからない。……殺された日と同じ、冬の冷たい雨が降ると、現れる。雨の中、闇の中で、紫苑は花橘にやってくる」
「……紫苑さんは、ここへきて何を?」
「何もしない。ただここへ来る。雨に濡れながら、ただ花橘の周りを歩き続ける。そうして夜明け前にはいなくなる」
ガタガタと風に窓が揺れる。その先には、誰もいない。
「俺はただ、あいつが来るのをここで待ってる」
「……来そうな日は、こうして?」
「紫苑はクラムチャウダーが好きだった。クリーム系の料理が好きで、よく作ってた。……何かわからないかと、期待してたんだ」
「……期待?」
「何も話さない、反応しない。でも何か記憶に残ってるんじゃないか、ってな。俺の声を覚えてないか、好きだったものを覚えてないか、ハーブの匂いを覚えてないかって」
クラムチャウダーにしては、ハーブの香りが強い。きっと、戸を開けていれば外まで香りは届いているはずだ。
「何も、変わらなかったがな。……俺が何をしても変わらない。それでも、冬の雨が降れば、あいつはここへ帰ってこようとする」
「ここが帰る場所だっていうことは、今も覚えてるんですね」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。記憶があるかどうかすら定かじゃない。……ここが家だから帰ってきてるのか、自分を殺した奴を探して戻ってきたのか、それとも花橘になにか未練があるのか。死者があの世へ行けないのは大方、後悔があるからだと、縛兎は言っていた」
幽霊は、そうかもしれない。けれど橘紫苑は違う。本人の意思に関係なく、ただ身体を引きずり、死にながら生きている。
憂うその顔に、私はまだ何も言えない。真実を告げるべきか否か、判断がつかなかった。
「タイムは、棺に入れられるハーブだ。強い香りが死者を導く。あの世への道を間違えてしまわないように。……だがどれもこれも」
静かな、力ない声が吐き捨てるように机の上に落ちた。
「意味なんてない。ただの自己満足だ」
 




