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紫苑とハーブのクラムチャウダー  7

 橘たちが花橘へ帰ってきたのは丁度雨が降り始めたころだった。湿気を帯びた髪が額に張り付く。


 「ベニ、ヒイラギと南天を玄関と勝手口に置いてくれ」

 「わかりました。橘さんもシャワー浴びてきてください。あまり濡れてないとはいえ、気温も下がっていきますから」

 「……ああ、飛梅。お前は」

 「家中の窓を閉める。でも雨戸はあけたまま、でしょ?」


 橘は何も言わず風呂場へと向かっていった。心得たような飛梅の言葉その通りだったのだろう。この季節の花橘にとってそれは当然のことでいつものこと。


 「ベニちゃん私はー? 私も濡れちゃったんだけど。自慢の毛並みがしっとり……」

 「伊地知さんもあとでシャワーを浴びてください。それに橘さんは人間ですから、さすがにそこは優先させてあげてください」

 「それだけ?」


 ずうずうしくけれど可愛らしく耳を下げて見せる伊地知はその可愛さと、あざとさをよく理解しているのだろう。


 「ヒイラギと南天置いてきたらお茶入れてあげますから、もうちょっと待っててください」

 「さすがベニちゃん! 大人しく待ってるわー」


 二人が山からとってきたヒイラギと南天の束を持って店の玄関や勝手口、居住スペースの裏口に置いていく。そして指示はされていないけれど大きな窓傍や縁側にも置いておいた。ヒイラギは通常食べないし、南天も乾燥させて咳止めに使うが今日の今日採ってきて使うことはない。


 窓越しに本降りとなった雨をじっと見た。生垣の先には山が広がり、木々の間から見える山の奥は暗く、白く煙っている。黒い雲が空を覆い、針のように降り注ぐ雨が葉や地面を硬く叩く。

 暗く冷たい窓の傍、ヒイラギと南天はいっそ滑稽なほど華やかに見えた。


 店の席で待っているだろう伊地知の元へ向かう途中、廊下の本棚の前でふと足を止めた。

 大量の漢方や植物に関する本で溢れかえっている。新しいものから古いものまで、専門書から初心者用まで。私が勉強に使った本。あれに書かれていたメモはどれも丸っこい女性的な字だった。


 「あれはきっと、」


 彼女の字だったんだろう。

 あちこちにちりばめられた小さくて丸い、丁寧な字。縛兎は彼女を初代店主だと言っていた。きっと一から勉強したのだろう。このお店を開くために、努力して、材料を集めて、客を増やして。そうして彼女は、この花橘で暮らしていたんだろう。


 花橘には、唯一掃除に入らなくていいと言われている部屋がある。そこは書斎で、壁際の本棚は薬や植物、民俗学に関することで埋めつかされていた。橘から入ってはいけない、とは言われていない。事実、そこから本を借りたことは片手では足りないほどある。でもきっと、その部屋は彼女が使っていた部屋なのだろう。誰かが使ったままの文机、本、ノート。今も生活感が漂っている。


 今も片づけられないままなのはどうしてなのか。

 橘は何を思って、この部屋をそのままにしているんだろう。

 どんな気持ちで、伊地知と山へ入りヒイラギと南天を採ってきたのだろう。


 「橘、紫苑」


 顔も声も知らない彼女の名前は、私の下の上でざらついて、冷たい雨の音にかき消された。





 「お待たせしました、火傷しないようにしてください」

 「待ってましたー! いい香りー!」


 宣言した通り店でいい子に待っていた伊地知のためにハーブティを入れた。庭で採れたローズマリーと紅茶をブレンドしたハーブティーだ。紅茶が入っている分飲みやすく、渋みがない。はちみつを入れればほんのり甘くなり身体が温まる。


 「ローズマリーティーは冷え性にいいそうです。あとは鎮静だとか、集中力だとか」

 「ふうんとりあえず私は冷え性とは程遠い狼体温だけどね。ローズマリーは結構匂い強めね。でも飲みやすいかも」

 「はちみつを入れてるので、その分飲みやすいと思いますよ」


 普通の嗅覚しかない私にはローズマリーは本当に香る程度だが、嗅覚の優れた伊地知にとってはやや強いのかもしれない。両手でカップを持って意外にも上品に飲む伊地知を眺める。橘はまだ、風呂場から戻ってこない。


 「ねえ伊地知さん」

 「んーなあに、ベニちゃん」

 「……伊地知さんは元人間ですよね。送り狼にされたことを、恨んだりしてますか?」


 伊地知は灰色の目を見開いた。静かにティーカップを置いて、一瞬迷うように視線を手元に落とした。


 「私は送り狼になったことを、彼のことを憎んだり恨んだりしてないわ。確かに同意のもとで私は送り狼になったわけじゃない。気が付いたら私は人間じゃなくて、送り狼の一部になってた」

 「送り狼にならなかったら、ほかの人生もあったんですよね。それなのに……」


 初めて会ったとき、伊地知はあっけらかんとかつて人間だったと私に話した。その時はそんな人もいるのか、程度にしか思っていなかった。

 けれど彼らには複雑なバックグラウンドがある。鬼女である梓乃は、自らの子を殺した母の後悔の集合体。元現世を生きていた兎の縛兎は人間を恨むと公言し、人の姿で亡者を呵責する。かの神に殺された人間は神の元へ嫁いだ。花橘の初代店主は死後もあの世へ行くことなく、骨董屋槐の手によって彷徨い続ける。

 伊地知にも恨みや苦痛があるのだろうか。


 「ないよ」

 「……え?」

 「他の人生なんてなかったよ。私は送り狼に帰り道を守ってもらってた。それで私は彼の目の前で、人間に殺された。私の人生の選択肢は人間によって絶たれたの」


 人間に殺された。するりと彼女の口から出た言葉は私の胸に深々と突き刺さった。


 伊地知の年齢は知らない。けれど今私の前で形どる彼女の姿はまだ若い。妖であり、人食いである送り狼に守ってもらいながら、伊地知は同種である人間に殺されたのだ。


 「よくある話よ。私の住んでたところは田舎で、早朝と深夜は人通りも何もない山道を通って仕事へ行く。それで、人気のない道を歩いてるところをストーカーに殺された。警察にも相談はしてたけど、それでも朝突然現れたから、そのまま殺されちゃったの」


 一片の翳りもなく、伊地知は私を見つめた。


 たった十数年生きただけの私には、言葉が見つからなかった。殺されてしまったと、嘆くでもなく、咽ぶでもなくまっすぐと事実を話す彼女に、なんと返事をすればいいか、私にはわからなかった。

 可哀想だとか、無念だったろうとか、そんな月並みな言葉はふさわしくない。殺されてなお、人外として生きる彼女の数奇な人生に、薄っぺらい言葉などかけられない。


 唐突に、自分自身の生を断ち切られる。暴力的に、理不尽に。人はそれを知覚したりはしない。けれど今もここに生きて、自身に怒ったすべての顛末を知る伊地知は、どんな思いで自分の死を眺めるのか。


 「ベニちゃん、今なに考えてる?」

 「え……」

 「なんて声をかけたらいいかわからない、私になんて返事するのが一番いいか、なんて考えてるでしょ」

 「は、はい。……聞いたのは私ですし、すいません、軽率でした」

 「違うよ。あなたは最初からわかってた。元人間で今妖になってる私の事情がろくでもないことを。あなたはちゃんとそれを考えて、きつい話をされるってわかって私に聞いたの。だから私も正直に答えた。いくらでもはぐらかすことはできたけど、ベニちゃんに話したいと思ったの」


 少し長い黒い爪が私の頬に優しく触れた。


 「あなたが聞きたいと思って、私が話したいと思った、それだけでいいの。返事をできないならそれもあなたの答え。無理に言葉を取り繕う必要はないわ」

 「言葉が見つからないのも、答えですか……」

 「そう。あなたがそう感じた。それが答えよ。無理に言葉を探せば、あなたの感覚は言葉に縛られ型にはめられた別のものになる。見つからないなら作らなくていい。ないことを取り繕わなくていいわ。私はあなたの言葉が欲しくて話したわけじゃないんだから」


 伊地知の言葉はすっと私の中に入って来た。私は無意識に伊地知が望む言葉があると思い込んでいたのだ。何か言われたら返事をしなくてならない。そしてその返事は伊地知の望むものではないと、いけないと。途端に恥ずかしくなる。慰めや気の利いた言葉を彼女が欲しがるだろうと思い込んでいた自分自身が卑しくて仕方がない。話してくれたのは彼女の純然たる好意に違いないというのに。


 「私は人間も妖も恨んでないわ。私は人間に殺されたけど、私の人生で関わってきた人間たちは決してひどい人たちばかりではなかった。大切な人も、大好きな人もいた。妖は人を害することが多いけど、送り狼は昔から人間の私を守ってくれてた。私をその身体の一部にしたのも、私がいなくなってしまって悲しかったからみたい。決して悪意なんかじゃなかった」


 その言葉にはかけらの嘘も誤魔化しもなかった。とても真摯に伊地知は私に話していた。慰めるように、あるいは宥めるようにその手は私の頭を撫でまわす。


 「人間も妖も変わらないわ。優しいモノもいれば、そうじゃないモノもいる。好きなモノもいれば、嫌いなモノもいる。それだけ。恨むほどひどい人生がなかったし、嘆くほど今の生活は悪いものじゃないわ。恨んでもただお腹が空くだけよ。私は自由に野山を駆け回る。好きなように好きなモノと話をして、行きたい場所どこにだって自分の意志で行ける。好きなものを食べて、好きな景色を見る。私は人間だったころの私に、胸を張って幸せだって言えるわ」


 そう悪戯っぽく笑う伊地知はとてもきれいで、本当に心から幸せだと言えているのだとわかった。

 殺されたことも、死んでしまっても不幸なことだ。同意なく異形にされることも不幸なことだ。

けれどそれだけではない。


 悲劇的な幕引きでも、それまでに楽しいことも好きなこともあった。

 理不尽な幕開けでも、そこから楽しいことも好きなこともある。

 どんな事実があったとしても、今どう感じているか。それこそが大切なのだ。

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