紫苑とハーブのクラムチャウダー 1
窓を開けると目に痛いほどの朝日とともに凍り付くような冷気が店の中へと滑り込んでくる。桟にかけた指先に息を吹きかけた。
すっかり冬の盛りといった具合で毎朝起きることも店の準備するのも苦痛になってきた。最近は寝ても寝ても寝足りない。温かな毛布から出るのはもはや苦行だ。けれど仕事をほっぽりだすなんてことが私にできるはずもなく、私よりも早く起きて作業をしている橘に泣き言の一つも言えるはずもなかった。
半纏を着こみ店中の窓を開けて換気をしていく。たとえ寒かろうとも空気が淀んでいるということがあってはいけない。
如雨露に水を溜め、店の裏の畑に水やりをする。つっかけで地面を踏むと降りていた霜がさくりと音を立てる。うんざりするほどに寒いが、この感覚は嫌いじゃない。毎朝の数少ない楽しみだ。
数日前から花を咲かせている黄色の花に水をかける。地面に直接生えているかのような黄色の大ぶりな花弁に独特な形をした葉。
福寿草、というらしい。橘からはくれぐれも食用にするなと言われている。
「嘔吐、痙攣、呼吸麻痺、血圧低下……」
花橘で読んだ内容を反芻する。毒性の強い植物の多くはこの症状があるという。本に書かれたメモの文字は随分とかわいらしい丸文字だが書きつけられていることの半分ほどは不穏だ。どんな薬も毒になりえるし、毒も使いようによっては薬になりえる。
「萩の花,尾花葛花,なでしこの花,女郎花,また藤袴,あさがおの花」
歌に乗せると覚えやすいのだと、メモに書いてあった秋の七草だ。今日は山へ入って葛の採集を手伝うことになっている。葛は頭痛や肩こり、解熱剤にもなり使い道が多い。そのうえ葛根としてではなく、くず粉にできればくず餅も作ることができる。まだ作ると決まったわけでもないがなんだかお腹が空いてきた。
畑の奥の鬱蒼としている山道に目をやった。薬草の大半はこの山に自生しているものを使っている。けれど私にはまだ初見で何が何の薬草なのか毒草なのかわからない。橘からも一人で採集にいくなと言われている。葛も秋のころには花が咲いていて見つけることができるが、今はもう花や葉は枯れていて、ほかの雑草と見分けがつかない。根を薬に使うならなおさら違いがわからない。
花橘に置いてある本を読みつつ勉強する。もっと野草について勉強すれば、この山は生薬の宝庫だろうから。
「ベニ」
窓越しに橘に呼ばれ、空の如雨露を持ってその声の元へと向かった。
「ロゼン、ロゼン! 来たよ、お客さんよ」
昼過ぎごろ、信楽狸の元へ薬酒を届けに行ったはずの飛梅が泡を喰って飛び込んできた。客が来る、ということだがそれはいつものことであり、わざわざ駆け込んで来て知らせることでもない。疑問符を浮かべる私と同じように橘が怪訝そうな顔をして薬の在庫整理の手を止めた。
「急にどうした。いったい誰だ?」
「バクトだよ、バクトが来るよ! 早くしないとまずい!」
「ばくと?」
名前も聞いたことがないが古い馴染みの客か何かかと問おうとして橘を見ると血相を変えていた。持っていた薬も台帳もそのままに、いきなり腕を掴まれ店の奥へと連れ込まれる。
半ば走るように廊下を突き進み書斎の戸を開けると、来客用の座布団がしまわれていた押し入れに放り込まれた。
「いった……ちょ、橘さんいきなりなんです、」
「べニ、良いか、今から来る客が帰るまで絶対に喋るな。気配を殺して隠れてろ」
今までにない橘の剣幕に抗議の言葉を飲み込んだ。焦りながら飛梅を残してきた店先の方を気にしている。
「……良いな、ここでおとなしくしてろ。もし見つかったら何が起きるかわからんからな」
「怖い人なんですか?」
「お前にとっちゃな」
それだけ言うと襖を閉めて店の方へと足音が遠のくのを聞いていた。真っ暗になった押し入れの中、耳を聳てていると玄関の戸が開けられる音と人の声が聞こえた。
「よお橘、変わりはないか」
「ああ、相変わらずだ。久しぶりだな、今日はどうした。また大王のお使いか」
「おうさ。最近は亡者が多くてね。ストレスが溜まってるんだと。ただでさえ煮えた銅飲んでるせいで食道が荒れてるから優しいもん食いたいってさ」
橘は普通に対応している。客らしい男の声も、とくに恐ろし気ではない。なんなら橘に対してかなり友好的だ。
「じゃあ香砂平胃散と竜胆を出しておく。竜胆は食前、香砂平胃散は食後に服用しろ。あと苦艾と胡麻子、甘草と搾菜も持っていけ。搾菜の春雨スープのレシピをやるからそれを」
「橘」
「なんだ」
「何か隠してはいないか」
ぞっと背筋が凍った。私のことだ。思わず口元を両手で抑える。こちらから店先まではそれなりに距離があるうえ私は押し入れに隠されている。呼吸音も衣擦れの音も聞こえはしない。私の存在がわかるはずがない。
「なんのことだ」
「匂う、匂うぞ。人の子の匂いだ。しかもただの人の子ではない。ここにいては、来てはいけないものの匂いだ」
「知らんな。いつか来た客の匂い、それかこの辺を彷徨ってる亡者の匂いじゃないのか」
「違う。今、ここにだ。ここにいる。どこだ」
「バクト、止まって! 店の奥は関係者以外立ち入り禁止だよ」
どたどたと足音が聞こえてきた。橘の足音ではない。バクトと呼ばれる客の足音だ。確実にこちらへ近づいてきている。隠れていて見えるはずがないのに、まるで私がここにいるのをわかっているかのように、足音は明確にこちらへ近づいてきている。
息を止め、身を縮こまらせた。けれど足音も声も止まらない。
「やめろ縛兎。いくらお前でもいきなり他人の家に侵入する奴があるか」
「それはこちらのセリフだ橘。いくらお前でも、俺は見過ごさない。俺の仕事の邪魔をしないでくれ」
仕事、仕事で私を探している。橘の言葉が蘇った。「もし見つかったら何が起きるかわからん」何をされるのだろう。いつかの夜に出会った妖を思い出した。見つかれば、食われるのかもしれない。本来橘は危険なもの店に入れようとはしない。けれどその橘が制止しきれないなら、それは彼の手にも負えないほどの何かなのではないか。
ばくばくと心臓が音を立てる。どうか来ないでくれ、そのまま通り過ぎてくれ、願い虚しく、足音は襖を挟んだ目の前で止まった。
「ここか」
目の前で声が聞こえた。
「やめろ縛兎!」
息が止まった。
がらりとふすまが開けられる。赤髪の青年が私のことを見下ろしていた。
「ひっ、」
「……なんだ、ただの生きた人の子ではないか」
身構えた私に対し、ばくとは気の抜けた声を出した。襟首をつかまれ押し入れから引きずり出される。わけもわからず目を白黒させ橘を見ると橘もまたわけがわからないという顔をしていた。
「お前が隠しているから、彷徨い地獄へ行かない人の子でも隠しているのかと思ったではないか」
「……お前、散々匂うだとか言ってたじゃねえか」
「いやはや間違えた。まさかまだ生きている人の子とはな」
すまんな!と良い笑顔で謝られ、安心から涙腺が決壊した。
 




