宵の狸とパンケーキ 10
「ねえ宵満月、さっき私にずっと人の街にいたいと思わないのかって聞いたよね」
ゆるゆると宵満月が黙って顔を上げる。
「思わないよ。あそこがきっと私の本当の帰る場所なんだと思う。でも私はあの街に残りたいとは思えなかった」
「どうして? 今日一緒に街を見て、楽しいと思わなかったの? あんなに素敵なものがあって、綺麗なのに」
「楽しかったよ。でもそれは宵満月といたから」
微かに彼女が目を見開いた。
「私はまだ、伊地知さんたちに拾われた夜から何も変わってない。今あそこに帰ったとしても私はやっぱり一人で立ち尽くすしかないの。あの街が私の帰る場所だとしても、あの街に私の居場所はない」
何も変わってない。何の記憶も戻っていなければ、あの街に戻ってどうすればいいのかもわからない。あの場所に、一人でいたいとは思えなかった。
「だから私はこの山に帰って来たい。花橘に帰ってきたい。橘さんがいて、飛梅がいて、伊地知さんや宵満月がいるようなこの山に帰ってきたいの。ここにいれば一人じゃないから」
「ベニちゃん、」
「あなたが街に行くも、これが最後じゃないよ。今度は信楽さんも説得して、納得させて街へ行こう。……一人じゃ行きたくなくても、宵満月がいれば、私も街へ行けるから」
宵満月は笑った。暗い森の中で彼女の月のような両目が輝いていた。
「そうね、二人ならきっと、怖くなんてないから……!」
「おかえり、ベニ」
「ただいま戻りました」
「随分と感動的な会話をしてたな」
店の中で私たちの話を聞いていたらしい橘が怪訝そうな顔をしていた。すでに客が来ていたようで皿を片付けているところであった。いざ店の中に戻ってきてしまうと私もつい先ほどの会話がなんとなく恥ずかしくなってくる。なんだかとても危険な場所に言ってきた風な口ぶりだったが、人である私や橘からすれば危険でも何でもない。むしろ化ける能力を持っている化狸なんて人の世界で怖いものなんてないだろう。何が起きたってきっと逃げおおせるはずだ。
「狸や狐ってのは人間に交じっていくタイプと忌避していくタイプといる。信楽は典型的な人間アレルギーだ。だから愛娘が街に興味を持っているのが心配で心配でならない」
宵満月が帰ったら大目玉なんてもんじゃすまない、と呟いた。皿を洗う橘の隣で手を洗い、自分にできる仕事を探す。
「ベニちゃんお帰り! お土産はある!?」
「あっ……!」
素で短く声を上げた。一日街へいてあれこれと見ていたのに、お土産のことをすっかり忘れていた。店の手伝いも休ませてもらっていたのだから何かお土産を持ってくるのが礼儀だろう。
「ご、ごめん飛梅……何にも持ってないや」
「……街では何も買わなかったのか?」
あからさまにがっかりする飛梅の頭を撫でて何とか機嫌を取ろうとする。
「はい、結局何も……食べ物とかもいろいろあったんですけど、何も買いませんでした」
ポケットの中の財布は店を出たときと重さは変わっていない。もらった小遣いも使わずじまい。手を付けたくなかったが、お土産になら使ってもよかっただろう。気遣いのできない自分にうんざりする。
「月祭りでデザート出すなら何か食べてきた方がよかったんじゃないか?」
「ヒントをもらいに行っただけで、それそのものを作るわけじゃないので、別にいいかなって……。あ、でもちゃんと考えてきましたよ! 実際出せるかどうか相談したいんですけど」
思いついたものを忘れる前に相談しておきたい、と橘を捕まえておく。幸い今は丁度客がいない。
「ベニちゃんお腹空いてない? 何も街で買ってこなかったならお昼ごはん食べた後から何も食べてないでしょ?」
はたと飛梅に指摘され動きを止める。そういえば今日は昼から宵満月と街に出て、そのあと何も口にしていない。言われるまでは何も気にならなかったが、気が付くと途端にお腹が空いてくる。
「話はあとで聞く、先に飯食っちまえ」
飛梅に手を引かれながらテーブルに連れていかれると、橘が私の前に鶏肉とレンコンの混ぜご飯、みそ汁、サバと葱のみそ和えを置いていった。いつもなら夕飯を食べ損ねることがあれば店を閉めた後に出してくれるのだが、珍しい。違和感を覚えるが目の前に秋の味覚の定食が出されたらもう食べることしか考えられない。お腹が空いていたことに気が付かなったのに現金なことだと思いながら箸を手に取った。
満月の夜、その日はまるで雲など取り払ったかのようによく晴れていて、月明りは余すことなく山に降り注いでいた。
夜の山と言えば平時静まり返り誰のものともわからぬ囁き声や鳴き声が聞こえる程度であったが、今日に限っては笑い声や祭囃子、上機嫌な歌声が飛び交っている。
そして私たち花橘はいまだかつてないほどの忙しさに見舞われていた。
「ベニ! それ持ってけ!」
「了解です! 橘さん、東のテーブルの大皿なくなりそうでした!」
「何が乗ってた!?」
「ええと、秋鮭とニラのナツメグ炒めです」
「鮭のクリーム煮追加するからその大皿回収してこい! 戻ってくるときそれとなくほかのテーブルも空の皿がないか見てきてくれ!」
「はあい!」
常日頃怒鳴ることなんてない橘が今日ばかりは鬼気迫る表情と怒声を上げている。だがしかし今日は朝からずっとこんな感じでもう既に慣れてしまっている。なにより忙殺されてしまっていて、顔が怖いだとか言葉が強いだとか言っていられる状況ではない。
「そこのお嬢ちゃあん! この酒美味かったから追加でー!」
「はあい少々お待ちください!」
皿回収中に声を掛けられまた空になった大瓶を受け取る。これ、と言われても大瓶はすでに空だし、貼られていた橘の書いたラベルはすでに滲んでしまっていて読めない。試しに鼻を近づけるも酒であることしかわからなかった。
「ベニちゃん大丈夫!? 瓶の方持つね!」
「飛梅こそ大丈夫? もみくちゃにされてない?」
「毎年のことだからね! ……あとこれ紅花酒。これまだいっぱい在庫合ったと思うから私が持っていくね!」
空の大瓶を軽々持ち上げ走る飛梅になんとも言えない気持ちになる。とても頼りになる先輩なのだがいかんせん見た目は女児だ。年端もいかない子供が空瓶の匂いから酒の種類をあてるというのはなかなかに不道徳だ。幼いのは見た目だけなのだろうが。
人混み、いや狸狐混みの中、普通の人間より身長は低いがひしめき合っていて通り道を見つけるだけで精いっぱいだ。この中のどこかにきっと知った顔の者もいるだろうが、全く探す余裕もない。今わかるのは宴の中心にいる巨大な古狸、信楽といくつもの尻尾を震わせる巨大な白狐、五社くらいだ。まるで地震のような笑い声を上機嫌にあげている。
なんとも不思議な心地で空を見上げると藍色の夜に貼り付けたような月が煌々と照っていた。
「不思議だ……」
私は夜が怖かった。
得体のしれないものが出歩き囁き合う木々の中が。目視することすらできない闇の中のモノが。自分の常識から外れた者たちが跋扈している夜が。けれど今では怖くない。暗闇を走る何かは、山を駆け回る栗鼠や鹿と同じようで。闇とともに訪れる客は、ただの人と同じようで。泣き笑うモノもあれば、フラットなモノもある。私の感情と関係なく、ただあるだけのモノなのだ。私が彼らにとって、ただある者であるのと同じように。
狸たちは歌い踊り、腹鼓を打つ。狐は何匹も集まり扇子を持って踊る。そして両者ややんややんやと囃し立てながら化け合いを始めた。なにかわからない小さな者たちも、どこか楽し気に身体を揺らし、仄かな光を明滅させる。
誰もかれも楽し気で、山全体が笑っているように感じられた。初めての夜の恐ろしいざわめきは、陽気な談笑にかき消されていた。
数時間にわたるどんちゃん騒ぎもひと段落したころ、一通り皿を回収し、ミントと薄荷の入ったフレーバーウォーターの水瓶を配置していく。いちいち配っていてはきりがないため、飲み物は原則セルフだ。紅茶や薬膳茶のみ頼まれた場合随時作っていく。
「橘さん、私のデザートの様子どうでしたか?」
「ああ、悪くない。物珍しい形式だからな。人気がある」
だいぶ片付いたテーブルの上にはいくつもの皿が並べられている。イチゴ、バナナをはじめに炒った栗に蒸したサツマイモ、チョコレートソースにジャムや餡子が所狭しと並ぶ中、その中心の大皿に薄く焼いたクレープの生地が重ねられている。
「クレープは考えたな。一つ一つ作るのには限界があるが、好き勝手に具材を入れて自分で巻けるようにすれば手間もかからんし、好きなものだけ食える」
「よかった! クレープなら焼き立てじゃなくてもいいから作り置きできますし、何よりみんなでそれぞれ作って食べるのってパーティーらしくて楽しいですよね!」
「しいて言うなら完成系がわかってないから太巻きみたいになってるやつらが一定数いる。見本とか置いておいた方が良かったな」
「作ったんですよ。でも気づいたらなくなってて……多分誰かが勝手に食べたんでしょう」
自由度が高く華やかな見た目なだけあってかはけはよかったようだ。残りの皿を見たところ栗とサツマイモが人気のようであった。以外にもクレープの定番であるバナナは多く残っている。山で暮らす狸狐にはあまり馴染みがなかったのかもしれない。
「あんみつもかなり好評だった。こっちはどちらかと言えば古参連中にだが。若い奴らや普段街で暮らしてる奴はクレープの方が良いって言ってたが、古参や食いすぎた連中にはあんみつの方が食べやすかったようだ」
「じゃあ両方用意しておいてよかったですね。材料残ってたら後で食べましょう」
月の祭りが始まってから何も食べていないからか、腹の虫が悲鳴を上げた。おいしそうな料理たちだったら作って運ぶばかりで食べている余裕も時間もなかった。今の今までは忙殺され空腹も気にならなかったが、今になって急に何か腹に入れたくてしようがなくなる。
 




