宵の狸とパンケーキ 8
広小路に赤い夕陽が差し、ビルが深い影をアスファルトに落とす。日の光に熱を帯びていたアスファルトが夜の冷たさに塗りつぶされる。
「……ああ、」
あの日と同じだ。
帰る場所も行く場所もわからず、私は一人立ち尽くしていた。ただ、日が暮れていくのを、呆然と見ていた。
「ベニちゃん、どうしたの?」
でも今は一人じゃない。宵満月がいる。
一時とはいえ、帰る場所がある。私の帰りを待っている人がいる。それだけで、どうしてこんなに安心できるのだろう。
「……日が沈んできた。そろそろ帰ろうか。ほどほどにしないと信楽さんが心配のあまりに倒れてしまうかもしれない」
「パパは倒れたりなんかしないけど、あんまり遅いと怒鳴り声で二つ先の山まで吹き飛ばされちゃうかもしれないわ」
くすくすとおかしそうに笑う彼女の足元を、ランドセルを背負った子供が駆けていった。
長く伸びた影を踏みながら駅に背を向け山へと向かう。山の端はすでに夜の帳がおりかけているようだった。広小路から少し離れると、人通りが少し減る。
「ねえお姉さん一人?」
突然声を掛けられる。その声は私たちに向けられたものであり、そしてこんなところで声をかけてくる知人はいないはずだ。もっとも、私が記憶を失う前の知人であれば話は別だが。
「なあにお兄さん?」
「よ、宵満月、こういうのは無視していいんだよ! 対応してもろくなことがないって、私の身体が言ってる」
しれっと振り向いた彼女に慌てる。こういう手合いは誰にでも声をかけているのだ。それは私たちじゃなくていいし、私たちに無視されれば次を探すだけのことだ。二人組の男は軽薄な笑みを浮かべ親し気に話しかける。
「やっぱり! お姉さん美人ってよく言われるでしょ? 後ろ姿から他とは違うね」
「本当? そう言ってもらえると嬉しいわ」
「俺たちも可愛い子と話ができて嬉しいよ。それ、東光高校の制服だよね? 頭良いんだねー?」
宵満月は私の方を見て「そうなの?」という顔をする。それに対して私は何の覚えもないので首をかしげておく。
「お姉さんこれから暇? よかったら俺たちとご飯行かない? 奢るよ」
「あら、でもごめんなさい。もうパパが家で待ってるから」
「少しくらいいいでしょ。大丈夫、日をまたぐ前には帰すから。俺たち紳士ですし?」
どこが紳士だと睨み上げるが二人ともどこ吹く風。そして警戒する私に対して宵満月は余裕綽々といった風に対応している。私だけ警戒心がおかしいのかと疑わしくなってくる。
「うーんでもなぁ」
「困った顔も可愛いねー。お姉さんあれに似てるって言われない? この前朝ドラの主人公やってた女優」
「ああわかる! 名前なんて言ったっけ」
「そんな似ている女優さんがいるんですね。それって、」
おもむろに宵満月が俯く。下を向くと影で顔が全く見えない。突然俯いた彼女の顔を二人の男の不思議そうにのぞき込んだ。
「それって……こんな顔でしたか?」
そう言いながら彼らを見上げた宵満月の顔には目も鼻も眉も何もなく、つるりとしていた。
「ぎゃあああ!?」
言葉を失う私に対して二人組は情けない悲鳴を道中に響かせ走り去って行った。
道行く人が何事かと私たちの方を向くがその時にはいつも通りのすました顔がくっついていた。
「こ、古典的なおどかしだね」
「そうよー、これで流れ的にはこの話をした直後『その化け物って、こんな顔?』って続くところだけど、あいにく今日は他の狸も貉も待機してないから一段しかないわ。せっかくいい反応してくれる子たちだったけど、勿体ないわね」
なるほど狸貉の類らしい。彼らにとっては遊びかもしれないが、彼らにとっては災難だったろう。古典的過ぎて人に話したところで冗談としか思ってもらえない。ただその古典的な遊びに付き合わせてもらうのはなかなか貴重な経験だ。心の中でそっと手を合わせる。
「本当に、人間の世界は面白いわ。だからご先祖様たちも今の私みたいに人間の中に交じったり驚かせたりするのよ」
遠のいていく駅ビルを振り返る。ビルの窓は一面に夕日を映していた。
「今日半日、人の街に出てきた感想は?」
「やっぱり人間の世界って素敵ね。どれもこれもきらきらしてて、泥臭い山の中と大違い」
「山の中だっていいでしょ。落ち着いてて、静かで。それは嫌い?」
「何もなくてつまらないの間違いでしょう。もう嫌いとかそういう問題じゃないの。閉塞的で、抑圧的。あーあ、人間として生きられたら幸せなんだろうに」
そうこぼす宵満月に苦笑いしか返せない。
「そんなにいいものかな、人間は」
「むしろベニちゃんは名残惜しくないの? 今まで暮らしてきた街に数か月ぶりに戻って、そのうえ今いる山なんかよりずっと華やかでキラキラしてるのに。記憶がないとしてもここにずっといられたらって思わない?」
むくれたような読満月の言葉にはたと言葉を失う。
この街に懐かしさに似た感情はある。山にいるときの初めて見るもの触れるものの感覚とは全く違う。記憶がなくとも、私は今までこの街で過ごしていたのだと、身体の感覚が覚えている。違和感もなく、ただここにいることが当然だというように。この街を歩く足取りは軽かった。けれど今、この街に背を向けて夜に覆われた山へと帰ることへ、後ろ髪惹かれることもまた、まったくなかった。
なんとなく、この街へ帰ってくることも、記憶が戻るのもまだ先のことのように思えた。
「私は……、」
「ベニちゃん大変、倒れてる人がいる!」
口を開きかけた私を遮るように彼女が声を上げた。視線を追うと薄暗い花壇にもたれかかるようにして倒れているスーツ姿の男性がいた。思わず眉を顰める。宵満月は躊躇なく男性の元へ駆け寄った。
「ちょ、宵満月、危ないから近づいちゃダメ」
「危ないって、倒れてる人がいるのよ?この人の方が危ないわ」
息はしてるけど、と呼吸を確かめる宵満月の後ろから眺める。顔を赤くしていて、眠っているようだ。
「酔っぱらって寝てるだけだよ。放っておこう」
「よかった……。でもここで寝てたら泥棒にあるかもしれないし、家まで送ってあげなきゃ」
「……酔って寝てるのは自己責任。自制できずに飲みすぎたこの人が悪い。」
「で、でも」
そもそも暗くなるのが早くなったとはいえ今の時刻は18時。酔いつぶれるには早すぎる時間だ。いったいいつから飲んでいたのか。スーツを着ているから会社員等なのであろうが、なんにしてもろくでなしだ。
「それにここの通りを抜けるまでに酔って寝こけてる人たちが何人落ちてると思う? いい大人なんだからいちいち世話をしてあげる必要はないよ。なによりこうして倒れてる人たちはたいてい何度も繰り返してる人たちだよ」
眉を下げる宵満月を見ると自分がひどく薄情な人間に思えて目を逸らした。けれど私の言っていることは間違ってはいないはずだ。事実倒れている男性には誰も目もくれない。一瞥したとしても酔っぱらいに眉をひそめて1秒後には存在すらも忘れているだろう。
私たちが好き勝手に飲んで好き勝手に寝こけている人間を助けてやる義理なんてない。そもそもここで倒れている人間が悪人であったなら私たちが犯罪の被害者になりかねないのだ。
ハイリスク、ローリターン。百害あって一利なし。
「……この街はこんなに明るいのに、冷たいのね」
「明るいのは電気があるからだよ。でもそれだけ。光る電気に、それ以上の意味はないよ」
非難がましい声は撥ねつける。暖色の光が温かく見えるのは色のイメージの問題でしかない。明るい電気が輝いて見えるのは普段明かりのない場所で暮らしているから。ただそう見えるだけだ。
「明るければ明るいほど、暗い場所もあるよ。人が多ければ多いほど妙な人や変な人も増える。見ず知らずの他人に構ったりしない。私たちは同じ街に住んでるけどそれだけの他人。私たちはみんな勝手に生きてるんだ」
ここには数多の人間が生きている。けれど知人でも仲間でもない。ただ私とは違う人生を送っている人間というだけだ。
交わる必要があるわけでも、心を通わせる必要もない。
あの夜一人立ち尽くした私に誰一人目を向けなかったのと同じように、私もきっと他人になんか目を向けたりしない。
どこで知らぬ誰が生きていても、どこで知らぬ誰が死んでいてもどうでもいい。
私の人生はきっと揺らがない。
 




