宵の狸とパンケーキ 4
「あの、明日の午後お休みもらってもいいですか?」
菱の実が山盛りになった籠を前に橘が手を止める。先日河童が大量に持ってきたものだ。
「休み? 体調が悪いなら今日はもう寝てていいぞ」
「あ、いえそういう訳ではなくて。その、街へ降りて何か月祭りのメニューのヒントを探しに行こうかと思っていて」
月祭りまであと10日に迫っている。主な料理は決まっていて、花橘にある薬膳の本の中からいくつか選んだ。橘監修のもと試作もいくつかすでに作っている。
「宵満月が言っていたようなメニューなら今の流行りのものとかが良いと思ったか?」
「はい、せっかくなので彼女が喜ぶようなものを作ってみたいんです」
花橘に置いてある薬膳の本は多岐にわたり、様々な料理が乗っていたが、どれも宵満月が期待するような現代風のものではない。目を丸くする橘に居心地が悪く目を逸らす。私らしからぬ、と思っているんじゃないだろうか。ここに来てから私は自分から動くことがほとんどなかった。いつも橘に言われるまま飛梅に教わるまま過ごしてきた。橘からは自分の意志がない子だと思われていたのかもしれない。
「わかった。お前が抜けても回せないわけじゃない。街まで降りるのはここに来てから初めてだろ。気をつけて行ってこい。暗くなる前には帰ってきなさい」
「ありがとうございます! 何か良いもの見つけてきますから」
「で、宵満月の方もちゃんと信楽さんから許可取ってくるんだろうな?」
「えっ」
ぎくりと動きを止める私に橘が胡乱気な視線を投げる。まだ私は誰と行くとは言っていないのにあっさりと看破されてしまった。
「お前が流石に一人で行くとは思えん。大方宵満月に街を案内しろだの、街へ連れて行けだのと言われたんだろう」
「そ、そのとおりです」
さっきとは別種の居心地の悪さに身を縮こまらせた。
「私、あなたが羨ましいわ」
スコップを持って一緒に虎杖根を掘ってくれていた宵満月がポツリとこぼした。
「……私が?」
思わず怪訝な声が出る。人から羨まれる覚えというものが私にはなかった。見た目が殊にいいわけではない。ありふれた垢抜けない女子高生だ。そのうえ今は記憶喪失で自分の家族も帰る場所もわからない。橘の温情でここに置いてもらっているだけだ。むしろどちらかと言えば客観的に不幸なタイプではないだろうか。傍にいた川獺のナガレメとネジレメも根を掘り出す手を止めて宵満月を見上げた。
「私ね、人間になりたいの。すらっとした手足、可愛らしい洋服、きれいな光の中で生きたいの。なのにどうして私は狸なのかしら。どんなに上手に化けたって、結局私は狸にしかなれないの」
宵満月の手が止まるのに合わせて、私もスコップの手を止めた。
そんなことを言っても仕方のないこと、とは言わない。それは彼女自身が誰よりもわかっている。
「私はね、ベニちゃんになりたいの」
「宵の嬢、めったなこと言わんでくだせぇ。嬢は嬢のままでいいんでさぁ」
ナガレメが短く宵満月を叱る。
「自分と違う者はよく見えましょう。ええ、ええ、けれど人でありながら苦しむ者も、多くいるのですよぉ宵の嬢。あっしは去年かつて人であった者と神の婚礼の儀を見たこともありました。人は、人でなくなったことを喜んでおりましたよぉ」
「他人は他人、私は私! 私は人になりたいの!」
「化けるだけで我慢してくだせぇ……!」
まるで聞き分けない宵満月にナガレメが悲痛な声を上げる。ネジレメは言い合う宵満月と兄の間をあたふたと視線を彷徨わせていた。
「宵の嬢ぉ、あっしは嬢と山におるのが好きちゃ。嬢はあっしや兄さンとここにおるんは嫌かえ?」
「そういう問題じゃないのネジレメ! あんた可愛ければいいと思ってるでしょ!」
「ひぃえ……」
理不尽が過ぎる。ネジレメは泣きそうな顔で私の足にしがみついた。小さな泥だらけの両手だが、なるほど可愛いから許せる。
「宵満月、ナガレメとネジレメを困らせないの。それを聞く仲間たちの身にもなってよ」
宵満月はナガレメとネジレメを見て罰の悪そうな顔をした。人の社会に憧れるのは結構だが、相対的に山に生きる仲間たちが貶すのは彼女も本意ではないだろう。山の生活に倦んでいるだけで、家族や仲間のことが嫌いなわけではないはずだ。
「……ねえお願いベニちゃん! 一度街を案内して! 私は人間の女の子に化けるから、ね! 一度でいいわ。遠くからしか街を見たことがないの。パパはダメだって言うけど、あんなにきれいに輝いているのよ?きっと人の世界は素晴らしいものに違いないわ!」
両手を合わせて私に頼む宵満月は一見、普通の女の子だ。尻尾と耳さえ隠してしまえば、きっと人間の中に紛れてしまうだろう。それでも彼女は山に生きる狸の娘だ。
来る月祭りまでもうあまり時間がない。ナガレメとネジレメは宵満月が舞いに集中できていないと愚痴っていた。狸たちの長である信楽の一人娘である宵満月は月明りの中踊る役目があるのだと彼らは言っていた。それが一番のトリだと。妙にストレスを溜めさせないほうが良いかもしれない。ただ人間社会は彼女が思っているような理想郷ではないと思うのだ。
「……一度だけだよ。その代わり舞の練習はしっかりして」
「もちろんよ! ありがとうベニちゃん、大好きよ!」
このように見事断ることができず、彼女の願いを聞くことになってしまった。もちろん、記憶喪失であるのは宵満月にも説明していて、最初案内はできないとも伝えている。だがそれでも「一人で人の街に行くよりかはベニちゃんと一緒がいい」と駄々をこねられ、不承不承、一緒に街へ降りることになったのだ。
不承不承、というのは宵満月に振り回されるだろうその日を予期してのことだ。街へ行くこと自体を、私は忌避していなかった。街へ行けば花橘での薬膳のヒントになるかもしれない。街のものを見れば何か思いつくかもしれないと思ったのだ。
「信楽さんの許可はきっと宵満月がとってくる、はずです」
そっと視線を外す。橘もため息を吐いた。彼女が信楽から人の街へ行く許可を捥ぎ取ってくるはずがない。適当に誤魔化すか、相談だけして許可を得られず喧嘩して飛び出してくるかの2択だろう。
「怒られても知らんぞ」
「その辺は宵満月に押し付けます。もし私が怒られるときは橘さんも監督不行き届きで一緒に怒られてください」
「おい」
「ベニちゃーん! ちょっと手伝ってー!」
橘の鋭い声を遮るように裏庭から飛梅の声が聞こえる。
「私、ちょっと飛梅のところ行ってきますね!」
これ幸いと便乗して橘と菱たちを置いて裏庭へと走る。信楽に怒られるとしてもその時は花橘として怒られてほしい。
早く早くと、遠くから急かす飛梅に何事かと裏庭に出ると倒れそうな干し台を何とか支えている飛梅がいた。
「飛梅どうしたの!?」
「さっきイタチが通りかかって、干し台にぶつかったの……! 倒れちゃうから助けて……!」
慌てて駆け寄り倒れかけていた干し台を庭の石と紐で固定しなおす。干し台の上で天日干しにされていた菱の実たちはいくつか地面に落ちてしまっていたが洗ってしまえば特に問題はない。落ちてしまったのも数個にとどまったのはその小さな体で干し台を支えてくれた飛梅のおかげだ。
「イタチが通りかかるって……さすが山って感じだよね。それにしてもイタチがぶつかって倒れちゃう干し台も問題だね。しっかり固定しておかなきゃ」
菱の実のほかにも漢方は往々にして乾燥させて保存、使用するものが多いため、裏庭の干し台はよく使うのだ。イタチがぶつかっただけで倒れ掛かるのは問題だろう。いつも私や飛梅がその場面に居合わせるとも限らない。
「え、ああ、ただのイタチじゃないよ。鎌鼬」
「かまいたちって……風が吹いて、気が付いたら切り傷ができてる、あれのこと?」
名前こそ有名だが、実際のところどういう現象なのか私もよく知らない。
「鎌鼬は3匹で行動してる妖だよ。一匹目が風と体当たりで相手を転ばせて、二匹目が鎌で切り裂く。それで三匹目が薬をつけていなくなるの。だから見鬼じゃない人にはただ風が吹いて切り傷ができたって認識しかないんだ」
今日は先頭の子が干し台にぶつかったみたい、と言う。風と共に素早く切り裂いていくのに、干し台にぶつかるとはどことなくどんくさい。干し台の上の菱の実を見ながら今後のことを考える。
「それにしても今までこんなことなかったよね」
「寒くなってきたからね。鎌鼬は寒いところにしかいないの。夏の間はいなかったから。でもまあ冬になっても大丈夫じゃないかな。普通妖が静物にぶつかるなんてことないよ! 私も花橘に来てからこんなこと初めてだし!」
キャラキャラと笑う飛梅に自分の印象は間違ってないことを知る。普通動いていないものにぶつからないだろう。
ふとそういえば飛梅はいつから花橘にいるのだろう、と思う。見た目に反して私なんかよりずっと長く生きている彼女。きっといろんな場所を転々としてきたのだろうが、花橘に来てどれくらいたつのか。
「花橘はどうだろ、もう10年くらいかな。初めてここに来たときは本当にできたばかりでまだまだ小さなお店だったよ」
懐かしむように飛梅は店を見上げた。
「お客さんも全然いなくてね、近くにいる妖たちも訝しんでたなあ。でもちょっと面白そうだったから覗きに行ったの、それで……」
ふいに飛梅が言葉を止めた。何かに気づいたような思い出した表情。それから逡巡するように視線を彷徨わせた。
「言いたくないなら言わなくていいよ。ちょっとした興味だから」
この顔は、初めて私と飛梅とで芦原神社に行った時の顔だ。思いつめたように、考え抜いて鬼女、梓乃や送り狼の伊地知の性質について語った時の顔だ。
なんでもない、ただの興味で、昔話を聞いてみたくなっただけの話。悩ませてまで、困らせてまで聞きたい話でも聞かなくてはいけない話ではない。
「……うん、そうだね。じゃあ今言うのはやめておく。私から言う話じゃないかもしれないし。それに」
地面に落ちて拾い損ねていた菱の実を一つ、飛梅が拾い上げた。
「もし冬までベニちゃんの記憶が戻らなくて花橘に住んでたら、きっと知ることになる。その時が来れば、きっとロゼンは説明するから」
そうしたら、全部わかるから。
一際冷えた風が裏庭を、ただ立ち尽くす私たちを勢いよく撫でていった。




