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第1880話 道徳的優位性3

 続きです。

 城の執務室に戻り、ひとりロッキングチェアに揺られながら、

 先程まで話した内容を振り返る。


 善いことをしても、「これで自分は道徳的に他人より優れることになった」思えば、残念な人になってしまうが、実際のところ、それは特定の誰かに限った話ではなく、ほとんどの人にそのケがあるのではないだろうか。もちろん僕にだって、そのケがあり、むっくり顔を出す時がある。だから、そうならないよう常に気を付けている。出たら「いかん、いかん」と自戒しながら打ち消すことは度々だ。


 アンガーマネジメントの6秒ルールは怒りだけではない。

 どんな悪想念も、出てすぐなら簡単に抑え込むことができる。


 道徳的であろう、善であろう、と思うことは良い。

 だが、自分が道徳的であり、善だ、と思うことは良くない。


 こうして分けると解かりやすいが、この二つはほぼ同時に起こるため、知らぬ間に混同してる人は多いと推察する。善いことをした。よって自分は偉い、とね。中には、偉いと思われたい、だから善いことをしよう、と順番が逆の人もいることだろう。


 純粋に善いことをしようという思いで行動することは意外に難しい。ほとんどの人は大なり小なり、そこに偉くありたいという思いがセットで付いてくる。だが、このセットメニューを注文してはいけない。


 思考ナルドで、

「『善いことをしたい』をひとつ」と注文し、

 店員から「『偉くなりたい』もセットでお付けしますか?」と問われたら、

 きっぱり「いりません」と答えよう。


 前世のハンバーガーチェーン店はハンバーガーを売りにしてるが、実はハンバーガーの利益率は低く、それだけ注文されたら、あまり儲からない。だから利益率の高いジュース類をセットで付けさせようとしたんだよ。


 過去世において、僕らは「自分を偉くしたい」という見返りとセットで

 善行してきたため、習慣という名の店員がセットメニューを出そうとする。


 人は善いことをしたら、自分は善い人だ、と思うものだが、それで他人より道徳的に優位な立場に立ったと思うなら、危ういと言わざるを得ない。中には、この立場を得るために善いことをする人もいるだろう。人から敬われる善人という立場をね。であれば、その邪心により、善行は色あせることになる。


 善いことをして「善いことをした」と思うのはいい。事実だし、そう思うのが普通。だが、「自分は善人だ。他人より善い人だ」と思うのはいかん。微妙な違いに見えて、決定的に大きな違いだ。


 例えるなら、馬鹿なことをする人に対して「馬鹿なことをするな」と言うのと「お前は馬鹿だ」と言うのと同じぐらいの違いがある。前者は相手の更生を願う善なる行為だが、後者は相手を蔑む悪なる行為となり、まったく意味が異なる。


 よって、人に注意する際は、「馬鹿」「愚か者」と直情的に言うのではなく、「馬鹿なをことをするな」「愚かなことをするな」と思慮深く言うべきだ。同じ趣旨から発した言葉でも、前者は人格攻撃となり、後者は行為に対しての戒めとなる。


 善いことをして、善いことをしたという思いに浸るのは善だが、

 それで自分は他人より偉くなったと思うなら悪となる。


 とと、少し堂々巡りっぽくなってきたかな。

 ここからは道徳的優位性について、さらに深掘りするとしよう。

 マイ図書館の情報にアクセスしながらね。


 道徳的優位性とは、自分や自分が属する集団が他よりも道徳的に優越しているという信念であり、この信念は「優越の錯覚」と呼ばれる認知バイアスや、被害者意識、歪んだ特権意識によってもたらされる独善的思考であり、共感の欠如や道徳的排除などの人道上の問題を引き起こすリスクがある。


 実際、他者に対し道徳的優位に立とうとする人物は攻撃性の塊だったりするからな。その悪辣な本性を隠すために道徳という綺麗な衣を被る。聖戦を主張し正義の為に人殺しをするのと本質的には一緒。本来、道徳は内面のものだが、それを外面に出して、「自分は道徳的に優れている」と自画自賛するんだよな。本当に道徳的に優れているなら、そんなことはしない。内面のことを外面に出すこと自体がおかしな話だが、よほど隠したいものがあるのだろう。


 強く振る舞うのは、本当は弱いことを隠すため。

 豪快に振る舞うのは、本当は臆病なことを隠すため。

 

 道徳的に優れているように振舞うのは、

 本当は道徳的に劣っていることを隠すため。


 これを意識して行っている人もいれば、意識せずに行っている人もいる。

 詐欺師は前者だが、息をするように嘘を吐く人は後者となる。


 どちらも罪深いがより罪深いのは後者だ。後者は自分がしてることが悪だと認識してないので、罪悪感を持たず、いつまでも、その行為を続ける傾向が強い。悪いことをして悪いことをしてると思ってない人は本当に度し難い。


 道徳的優位性は、社会的なルールや人間関係において、

 自分の方が上であると主張する際によく見られるが、

 それをよくやる人物ほど小物感が強く、人としての器の小ささから、

 転生回数の少なさを察してしまう。「まだ、この段階か……」とね。


 お陰様で、この世界では少ないが、前の世界では道徳的優位性を振りかざす人が多く、あちこちで「自分が正しい」「いや、自分の方が正しい」と、バチバチぶつかり合うケースが散見される。パワハラ、モラハラ、いじめ、いやがらせ、なども、これが深く関係してるんじゃないかな。


 自分が正しく、相手が間違っている。

 よって、自分の方が相手より優れており、

 優れている自分は相手に対して何をしてもいい。


 そんな得手勝手な理屈が道徳的優位性によって正当化されるのだ。ただ、道徳と言っても本来の意味の正しい道徳ではなく、各人の中の歪んだ道徳であり正義だ。欲望まみれで生きたい人は欲望を肯定することが正義になるし、他人を攻撃したい人は攻撃を肯定することが正義になる。 


 要は単なる主観だが、

 自分は正義であり、道徳的に優れていると思い込むことにより、

 実際は正義でも道徳でもないことをする。


「道徳バトル」という言葉がある。これは主にSNSなどで、誰がより正しい道徳的基準を持っているかを競うもので、最初知った時はディベートのようなものかと思ったが、どうもそれとは違う。理論で争うのではなく、道徳で争うのだ。いやいや、道徳で争うって、なんじゃそりゃ? って思うよね。「道徳」と「バトル」が結びつかない。結びつかないが、無理やり結びつけてるのが、現代風にアレンジされた歪んだ道徳なのだろう。


 SNSのバトルは最終的に、いかに道徳的に優れているか? という点に収束するという論がある。その理由は、道徳バトルは、金銭や美醜や地位権力や体力や知性や過去実績に関係なく、誰もが平等に参加でき、誰もが平等に上位プレイヤーに勝つチャンスがあるからだそうな。


 たとえ一般人や自宅警備員であっても、道徳的に反する行為をする人に対し、たとえ、その人が社会的に成功を収めていても、それとは関係なく道徳的な価値基準を拠り所に攻撃することができる。道徳という土俵に立てば、物質的環境の差は関係ない。会社ではうだつの上がらない万年平社員であっても、ネット上では、不倫した会社経営者を威勢よく厳しく責め立て、道徳的優位に立つことができる。


 かように現代日本社会において、

 道徳はバトルの道具として使われることが多々あるが、

 この状況に強烈な違和感を持つ。


 正しくあろうとするのがいいが、それは自分に対してであり、

 他人に対して強いるものではない。ベクトルが間違っている。


 自分ができず、他人ができず、の状況なら、先ず、自分ができるようにならないと。それができ、他人に指摘する余裕ができたなら指摘してもいいが、それをするにしても、相手への思いやりとマナーが必要だ。上から目線で攻撃的に物申すなど言語道断。


 特にネット上では優位なポジションから「馬鹿なの?」「死ねば」などと書き込む輩がいるが、これを普通の感覚でやっているとすれば、精神性を疑わざるを得ない。


 ひょっとしたら相手に抜き差しならぬ事情があったのかもしれない。だから断片的な情報だけで相手をジャッジするのは止めた方がいい。ほとんどの人は他人のことをよく解かっていない。見えてる部分はその人の外面のほんの一部だ。それですべてを知った気になって断罪するなら傲慢そのもの。


 自分が絶対に正しいと思うのは悪心(傲慢)である。

 自分が絶対に正しいと思う人同士が相まみえれば争いとなるだろう。

 正しい×正しい=争い、だ。今もどこかで争いが起きている。


 道徳的優位性をよくふりかざす存在の例として、マスコミがもてはやすリベラルがある。リベラルと言っても、本当の意味でのリベラルではなく、日本でよく見かける自称リベラルだ。実態が伴わず、似非や詐称と言っても差し支えないレベルだが、ここでは自称としておこう。その自称リベラルの多くは、次のような気質がある。


• 自分たちは正しい

• その正しさは何を聞いても変わらない

• 相手を本気で説得するつもりはない


 にもかかわらず、その気質を隠そうとする。なぜ隠すのか?


 その理由は、それを認めた瞬間に「対話」「民主主義」「説得」という看板が崩れ去るからだ。彼らは何かと言うと、議論すべきだと主張するが、彼らの言う議論とは、彼らの正しさの表明、お気持ち表明であり、他者への説得や他者との合意形成は目的としていない。


 話はできるが、話し合いはできない。

 こんな体たらくだから、次のようなことが起きる。


• 説得してないのに相手の無理解を責め立てる

• 合意形成を放棄しているのに民意を語る

• 批判しかしないのに建設的と言い張る


 はっきり言って、これは議論ではなく、「自分は正しい側に立っている」という確認作業、つまり道徳的優位のポジション取りだ。これはリベラルを自称する野党がまさにそうであり、政策論争ではなく、週刊誌ネタのどうでもいいようなことを大袈裟にあげつらう姿に顕著に表れている。彼らの狙いは与党の道徳的落ち度を責めることにより、自らの道徳的優位性を確保することにあるのだ。


 自分は正しい、皆の者、拝聴せよ。とやりだいだけ。

 高所から見下ろすように。


 いやさ、道徳は確かに大事、それは否定しない。敵対政党に落ち度があれば責めるのもいいだろう。だが、それには条件がある。責めることができるは自分に落ち度がない人だけだ。


 不倫してる人物が不倫してる人を責めたり、裏金を受け取ってる人物が同じく裏金を受け取ってる人物を責めるのは道理が通らないだろう。だが、彼らの感覚は違う。自分がやればロマンス、他人がやれば不倫であり、自分に甘く、他人に厳しいのが特徴だ。


 普通に考えて、裏金議員が裏金議員を責めれば、責めた裏金議員の人間性が疑われるが、彼らは認知が大きく歪んでおり、むしろ、それで道徳的に優位に立てると考えるのだ。その価値観は伝統的な日本人のそれとは大きくかけ離れている。


 彼らの価値観はまるで某国の人たちのよう。

 そう感じている人は多いはずだ。


 その某国は日本と過去に約束したことがあったが、その約束は国のトップが変わり、簡単に反故にされてしまった。国と国との約束は国際条約であり、それを双方とも誠実に履行することが求められるが、某国はまるでなかったかのように破り捨ててしまった。


 これは普通に考えて有りえないことだが、そこは某国、日本と価値観が根本的に違う。かの国は「道徳的優位性」というワードが度々報道に使われており、そのウェイトが非常に大きい。国政を左右するぐらいに。


 日本と約束をしたが、某国から見れば、日本は加害者であり、被害者である某国の方が道徳的優位性があるんだと。そして、こうした考えにより、「道徳的に優れている我が国は、道徳的に劣っている日本に対し、半永久的に謝罪を要求することができる」「道徳的に劣っている日本との約束など破っても構わない」という行動に結びつくのだ。


 平たく言うと、日本は自分たちより道徳的に下であり、下の者には何をしてもいい。という思考だ。だから、日本がすること為すこと、一々、上から目線で横柄に物申してくる。日本と意見が合わないと自分たちのことは棚上げして、常に日本に謝罪を求め、道徳的に下であることを強要する。日本は既に過去のことに対し十分謝罪し、両国間の条約で解決済みであるにもかかわらずにだ。


 許すかどうかは加害者ではなく被害者が決めること。というのは倫理的に言われることではあるが、それを悪用しているの某国だ。かつて、この国の指導者は「加害者・被害害の立場は千年経っても変わらない」と宣わったが、まるで、その姿勢は、いつまでも難癖を付けて、お金をせびるチンピラのよう。とても普通の国とは思えない。距離を置いた方がいいだろう。その方が両国の為になる。


 日本は価値観を共有できる国と付き合えばいい。

 その価値観とは、お互いの立場を尊重し、約束を守り、

 蔑みや憎しみより、敬意や親しみを大切にできることだ。


 かの国は法よりも国民感情が優先される場面が多く、それゆえ法治国家ではなく情治国家と揶揄されることがあるが、実際その通りであり、特に対日本では、法や条約も、時には事実さえも捻じ曲げ、ひたすら日本を道徳的に劣った悪者に仕立て、喧伝してきた。それにより自らの道徳的優位性を保ち、満足げにホルホルするのだが、その様子はまるで反日ジャンキーのよう。日本人を貶めて気持ちよくて仕方ないのだ。だが、ジャンキーゆえ、反日成分が切れると情情緒不安定になり、その苦しさから逃れるため、また新たな反日ネタを探す。ずっとこの繰り返しだ。


 かの国はハンの国と言われるが、ハンとは、本来「ひとつ」のことを意味し、完全な結合体のことで、「ひとつ」であるとともに、究極的にはまた「すべて」を意味する概念だそうな。このハンが崩壊するとき、某国人の心は混乱し、挫折を味わう。という。 そのときの、言うにいわれぬ感情・情緒もハンと呼ぶようになり、今はそちらの意味が大きくなっている。


 恨はただの恨みではなく、某国人の理想を追求する感情、ものごとのあるべき姿を追い求めようとする意志であり、同時に、そうではない現実に対する嘆きや悲しみだ。 悲哀の恨もあれば、怨恨の恨もあり、嫉妬の恨もある。これらはネガティブな想念であり、悪想念だ。


 彼らからすれば、正当な思いなんだろうが、それならそれで、彼らの中でそうすればいい。それを他国に強いようとするから、おかしな話になる。人がどう思おうと人の勝手だが、であれば、こちらがどう思うかもこちらの勝手。価値観が合わなければ、無理に付き合う必要も道理もない。


 今はかなり下火になったが、かつて日本で流行った演歌を、マスコミは「日本人の心」とうそぶき、そのように洗脳された人も多いだろう。だが、あんな陰湿で暗く、恨み・辛み・妬み・嘆き・苦しみの情緒は日本人の心ではない。あれはどちらかというと某国の恨に近いものだ。


 もう、陰湿な恨を手放そう。それは本来の僕らの気質ではない。

 最後までお読み頂きまして、誠にありがとうございました。もし拙作を気にいって頂けましたら、いいね、ブックマーク、評価をして頂けると大変有難いです。

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