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第1874話 教育番組~仕事論9~

 続きです。

 多くの人は心の奥で更生を望んでおり、人から改善点や改善方法を教えられることを求めている。だから、問題行動する人がいたら、遠慮なく注意してあげよう。表面上は頑なな態度で嫌な顔をしたり、憎まれ口を叩くかもしれないが、その実、心の奥で喜んでいる。


 自分を見てくれる人がいる。

 自分を気にかけてくれる人がいる。

 自分を助けようとしてくれる人がいる。

 それがどれだけ人を勇気づけることだろう。 


 多くの人は「自分に気安く声をかけるな」というそぶりを見せながら、心の奥で「声をかけて欲しい」「自分を見て欲しい」「気にかけて欲しい」「救って欲しい」と思っている。だから、表面だけ見て「言っても無駄」と決めつけてはいけない。


 自分が好意を抱いている人ですら、何度も声をかけて、ようやく相手は振り向いてくれる。ましてや、自分が好意を抱いてなければ、相手もそれを見透かし、簡単に振り向いてくれないのが普通だ。


 迷える子羊は救済者に邪心がなくても、最初は警戒するものだ。その警戒を救いの拒否と早計に判断しないこと。そんなことをしたら、救える子羊を救えなくなってしまう。見知らぬ者を警戒するのは当たり前。であれば、それを解くための努力をすべき。その先に救済がある。そう、救済とは一足飛びにいかないのだ。辛抱強さ、粘り強さがいる。


 一人でも多くの人を助け、一緒に上を目指して修行したい。修行は言うまでもなく精神性(霊性)を高めるためにある。耐えて耐えて我慢して精神を歪めるなら、その修行は間違っている。そんなドツボにはまっている人に手を差し伸べたい。頑張っているのに中々前に進めない人はたくさんいる。


 まわりが敵だらけだと思うと、人生は苦しくなり、

 まわりが味方だらけだと思うと、人生は楽になる。


 心境次第で、

 どんなにハードな環境であっても、イージーモードになり、

 どんなにイージーな環境であっても、ハードモードになる。


 そのあたりのことがよくわからず、沼にはまったり、袋小路におちいる人がいるが、見つけたら放置せず、積極的に助けたいし、助けよう。それは双方にとって、皆にとって為になる。


 さて、苦行について触れたから、これも言っておこう。


「仕事には苦行の面があるが、苦行について補足しよう。苦行は苦しむ修行だと思われがちだが、実は違う。苦は確かにあるが、それに対し、苦しい、苦しい、嫌だ、嫌だ、と思うと本当の行にならない。苦に対し、苦しい、苦しい、嫌だ、嫌だ、と()()()()ようにするのが本当の行だ」


 パネルを提示する。


□----------------


 苦行とは、苦の体験を通し、

 悪想念(苦しい)を抑える修行


□----------------


 修行は悪想念を出すためにあるのではない。それは苦行も一緒。これを勘違いしてる人が前世に多かった。ならぬ堪忍しない堪忍だ。ならぬ堪忍するが堪忍をしようとするから、堪忍そのものが嫌になる。すべき堪忍までもね。


「だから苦しがるのは本当の意味で修行ではない。それにより、苦の経験を通じて業を解消できるが、苦しみの悪想念を出せば、逆に業を積むので、プラマイで効果が薄くなってしまう」


 質問者が手を挙げる。


「あの、苦しい時に、苦しく思うのは普通ではないでしょうか? 

 苦しくても苦しく思わないのは可能なのでしょうか?」


「それは苦の度合いによる。一定ラインまでの苦なら、これが可能だ。例えば、ちょっと太ももをつまむ程度なら、ほとんど痛くなく、苦という程でもない。針で指すのは我慢できなくても、軽くつまむぐらいなら平気だろ。それと、痛い思いをして純粋に痛いと思うのはいい。それは生理現象だ。そうではなく、それに端を発して、何で自分がこんな目に遭うんだ、ふざけるな、ムシャクシャする、〇〇のせいだ、と悪想念を出すのが良くないんだ」


「苦の経験をして、苦しまないというのは、

 あくまで小さな苦に対して、ということですか?」


「そうそう、苦を苦で済ませる。苦苦苦苦苦にしない。苦でもストレスでもハラスメントでも、少しぐらいなら何てことはない。本当に避けるべきは、それに自分で火を着けて燃え上がらせることだ。日常的な苦、ストレス、ハラスメントは大したことがない。ほっとけば雲散霧消するレベルだ。それに燃料を投下して大きくするから、耐えがたいものになる」


 他人から馬鹿と言われ、感情を乱さず、「ふ~ん」で終わる人と、「腹立つ! 畜生! ふざけるな!」と感情を燃え上がらせる人とでは、苦の受け止め方がまるで違う。双方とも小苦だが、後者はそれを大苦にしてしまっている。


「毒は一般的に体に悪いとされているが、実は弱い毒なら体に良く作用することが分かっている。この原理を利用した療法をホメオパシー療法というが、苦、ストレス、ハラスメントなども同じ、一般的に心に悪いものだが、弱いものなら、かえって心を強くする。むしろ、それがまったくないと心が弱くなりかねない。だから、小苦を肯定的に捉えよう」


 修行に適した小苦は善であり、修行にならない無苦は悪だ。

 但し、修行の度を越えた大苦も悪だから、加減が大事。


「苦しさを我慢することが修行ではなく、我慢しなくていい状態に自分を高めるのが本当の意味での修行だ。そのためには相手やまわりの悪想念に波長を合わせず、自ら悪想念を発しないようにする」


 苦の一種に恐怖があるが、ホラー映画では、正体不明の状態がもっとも怖く、いざ正体が判るとそうでもないということがある。つまり現実の怪異はそれほど怖くなく、空想の中で膨らませた怪異が怖いのだ。膨らませたのは誰か? それは他ならぬ自分だ。他の苦もそういう面がある。実際に経験すればそうでもないが、経験せず不安がると、自分の中で大きな苦となる。案ずるより産むが易し、とはよく言ったもの。


 小学生の頃、予防医療の一環で注射されることがあったが、あれも、される前に、怖い、怖い、と思っている間が一番怖く、いざ、されれば大したことはなかった。短距離走も水泳の時も自分の番が来るまでの間が一番緊張し、嫌な時間だった。これも自分が勝手に苦をふくらませていたんだよな。


 人生は苦の連続だが、実体としての苦はそこまで大きくない。それを人が何倍にもふくらませて大きくし、ハードモード化させる。嫌味を言われた時間は数秒なのに、その念に引きずられれば、何時間でも何日でも嫌な時間は続く。下手したら何か月も何年も。その方が修行効果が高くなる面はあるにせよ、どう考えても不健全だ。それに、平穏に過ごせるラインを越えて修行して悪想念を発したら、肝心の修行効果が薄れてしまう。人生は既にそこそこハードモードであり、わざわざ無理にハードモードを強化する必要はない。それで途中でエネルギー切れになったり、ボキッと折れたら、元も子もなくなってしまう。


 自分を苦しめているのは自分。それから解放できるのも自分。


 僕らは苦を経験するために、この世に生まれてきたが、苦しむために生まれてきたわけではない。苦を経験しつつ、苦しまないようになることが僕らに課せられたミッションだ。


 修行するうちに修行が楽しくなるのはいいが、修行そのものを目的にしてはいけない。修行はあくまで手段・方法であり、目的ではないからね。サドゥーと呼ばれるインドの修行者で、針を体に指したり、剣を飲み込んだり、何年も片腕を上げ続ける等、とんでもない修行をする人がいたりするが、それは本道から外れる行為。死の寸前まで追い詰める過度の断食もそう。そんなことをしても精神性はそこまで上がらない。


 もっとも大切なのは、

 今、自分が自分として意識してる心、心の健康(平穏)だ。

 それを壊してまで行をすべきではない。


 本来、行とは少々苦があっても、

 その先に楽しみがあり、ポジティブに行うもの。

 苦しみながら嫌々やっても、悪想念が増幅するだけだ。

 それはまっとうな行ではない。


 苦というと、四苦八苦を説く仏教が参考になる。

 お釈迦様の最後の場面からも、それを学ぶことができ、

 この様子は『大般涅槃経』に記されている。

 

 80歳のお釈迦様は、クシナガラへ向かう途中、鍛冶屋のチュンダからスーカラマッダヴァという料理を供養(食事の提供)として受け、この食事の直後、激しい腹痛と下痢(血便とも言われる)に見舞われ、食中毒にかかったとされている。


 料理を出したチュンダは皆から責められることを恐れたが、お釈迦様は「この食事は最上の供養である」とチュンダを称え、彼に責めがないことを説いた。これは最後の慈悲の行いとして知られている。そして、体調を崩しながらも、お釈迦様はクシナガラの沙羅双樹の木の下で、頭を北、顔を西に向けて横たわり、静かに亡くなったのだ。


 人智を越えた能力を持つお釈迦様のこと。チュンダから食事を受ける際、あるいはその後に起こる結果を予知していた可能性が指摘される。つまり、お釈迦様は、料理に何らかの異常(傷んでいる、または不適切な食材など)を悟っていた可能性があったとね。


 しかし、チュンダの真心からの供養を受け入れることが、結果はどうあれ重要であると判断したのだろう。お釈迦様は事前に自らの寿命を知り、この食あたりが人生最後の因縁であることを認識した上で、最後の説法を行ったのだ。


 食中毒は肉体的に苦痛を伴うものだが、逃げることなく真正面から体験し、

 それを超越した境地である涅槃へ旅立たれた。


 スーカラマッダヴァがどんな料理だったかは学者の間で様々な解釈があるが、「黒っぽい」「弾力のある食べ物」という記述から、きのこ料理、または豚肉料理だったのではないかと推測され、その説が正しければ、おそらく、きのこ料理であろう。不殺生戒により、お釈迦様は肉を食べないからね。


 料理を召し上がった後、お釈迦様は激しい腹痛に襲われて倒れ、

 チュンダは強い自責の念にかられたが、苦しむチュンダを前に、

 お釈迦様はこう言われたのだ。


「チュンダよ。何も嘆くことはない。私は生まれたから死ぬのである。あなたの供養の食事は私の死の縁ではない。私の死の因は私が生まれたことだ。生まれた者は必ず死ぬ。これが因縁の法だ。あなたの食事をいただかなくても私は死ぬ。これは決まっていたこと。だから、あなたに責任はない。あなたの料理は大変美味であった。あなたは尊い功徳を積んだのだ。心から感謝している」


 さらに、集まっていた弟子たちや人々に向かってこう語られた。


「よく聞きなさい。私はチュンダの食事で死ぬのではない。これは寿命である。私はよく生きた。決してチュンダを責めてはならない。彼は善き布施をしてくれた。私の恩人である」


 お釈迦様は、自らの死を前にしても、

 チュンダを救う言葉を選び、皆の前で慈悲を説いたのだ。


 自分を苦しめたものさえ、感謝に変える。

 どんな苦しみの中にも、人を責めず、不平不満を言わず、

 感謝を見いだす道がある。


 そう、感謝とは、上から降ってくるものではなく、見つけ見いだし、自ら広げていくものだ。例えるなら黒いキャンパスノートの紙を白く塗るようなもの。何もせずに黒が白になることはなく、空虚な状態から感謝にあふれた幸せな状態になることはない。その状態を目指し、自分で塗りあげていく。


 誰かからお金をもらおうが、名誉や肩書をもらおうが、権力を手に入れて世界の支配者になろうが、その状態になることはできない。むしろ遠のくだけ。その作業は自分にしかできないからね。何万人部下がいて、「代わりにやれ」と命じても詮無きこと。

 最後までお読み頂きまして、誠にありがとうございました。もし拙作を気にいって頂けましたら、いいね、ブックマーク、評価をして頂けると大変有難いです。

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