第1792話 聖王料理4
続きです。
モグモグ
料理を食べ終わり、皆でデザートのぶどうを食べている。モグモグしてるのは、実だけでなく皮もしっかり食べるため。昔はワインだったが、それが、ぶどうジュースになり、今はぶどうになっている。健康には人が手を加えない状態で食べるのが一番だ。ぶどうは皮も種も栄養があるため、ジュースにする際はこれもミキサーにかけていたが、そのまま食べる際は大きい種は食べない。小さい種なら嚙み砕いて食べるけどね。割といける。
「かぼちゃのスープが美味しかったです」
「ああ、コクと甘味があったよな」
イレーネとテネシアが料理の寸評をする。
料理を作った後はこれを聞くのが楽しみだ。
「里芋の煮っころがしが、とろっとして旨かったです」
「私はこんにゃくのステーキだわ」
負けじと、ミアとメリッサも寸評する。
言葉少なげだが、これで十分伝わってくる。
ああだこうだ長々と食レポされるよりいい。
料理長にも聞いてみよう。
「料理長はどうだったかな?」
「はい、どれも美味しかったです」
無難な返答だが、これで終わらせない。
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、君ならもっと
美味しくできるだろう?」
「えっ、いやぁ……」
答えづらい質問をされて、答えを濁すことが既に答えになっている。
それを無理に言語化させるほど僕は野暮じゃない。
「いや、気にしなくていい。君は料理のプロだから、改良してもっと美味しくできるだろう。だが、僕の料理は美味しさを一番に目指してないから、これでいいんだ」
パネルを提示する。
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美食(美味しい食) 粗食(質素な食)
肉食(肉の多い食) 菜食(野菜の多い食)
大食(量の多い食) 小食(量の少ない食)
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仮に僕の作る料理を聖王料理と呼ぶなら、粗食、菜食、小食が特徴となる。
「知っての通り、僕は、粗食、菜食、小食を志向しているが、この機会に少し、美食と粗食について話をしよう。美食は美味しい料理であり、多くの料理人がこれを志向するだろうが、美味しい料理とは何だろう? それは舌が喜ぶ料理、舌が求める料理になるが、とどのつまり、味が濃い料理であり、それには、肉・油・糖・塩・調味料を使うことが多くなるはずだ。一方、粗食は栄養のバランスを一番に考え、それらをなるべく使わない。何が言いたいかというと、美食にこだわると、粗食つまり健康食から離れるということだ。煮干しで出汁を取る際、美食の観点では頭とはらわたは除くが、健康の観点では除かない。美食の観点ではアクをしっかりよく取るが、健康の観点ではアクを取り過ぎると、栄養が抜けるのでそんなに取らない。とかね。但し、極端な健康食にこだわると、味付けを一切できなくなってしまうので、食がまったく楽しめなくなり、それはそれで問題だ。だから、美味しさと栄養の双方を大切にしてもらいたい。但し、どちらがより大切かと問われたら栄養だ」
前世のフランス料理や中国料理は美味かったが、あの味の正体は肉・油・糖・塩・調味料で、特に油が多かった。人の舌は油が触れると、美味しいと感じるようにできているからな。かつて人類は原始時代(主に氷河期)に獲物(肉)を追い求める生活をしていたが、その際、カロリーの高い油(肉の脂身)は貴重だったから、それを食すとハッピーになるよう脳ができている。今はあの頃と違うが、その仕組みが脳に残っているため、油を取るとハッピーになり、美味しさを感じる。空腹で何日も食べず、餓死と隣り合わせて生活する者にとって肉の脂身は命綱だった。それが手に入り、食べた時の喜びがDNAに刻み込まれているのだ。
さらに当時は食にありつけると、一気に大食いモードになり、お腹がパンパンになるまで食べた。食べられる時に食べておかないと、次の食まで持たなかったからだ。この大食いモードも脳に残っているので、今でも人は過食する傾向がある。
一応、人には大食いを防ぐため、満腹を知らせる満腹中枢というのがあるが、満腹中枢が刺激されて満腹感を得るまでには、食事開始から約15分〜20分かかると言われており、早食いをするとこの時間内に食べ過ぎてしまうため、肥満や糖尿病のリスクを高める。そのため、1食あたり15分以上かけ、一口30回を目安によく噛んでゆっくり食べるのが、食べ過ぎを防ぎ健康的な食事をするためのポイントとなる。30回も噛めば、固形状がゲル状になり、さらに液状に近くなる。もし毎食、ゴクリと固形状で飲み込んいるなら咀嚼不足だ。
少し考えてから、料理長が答える。
「塩や油を控えめにした方がいい、ということですね」
「そうだね。塩分、糖分、油を控えめにして味は薄味がいい。薄味でも十分美味しい。濃い味付けでないと味を感じないとしたら、それは味覚の感度が衰えている」
俗にいう美食家にこれが多い。贅沢なものばかり食べて、質素な食事を軽んじるが、結局、食のこだわりが強すぎて偏食のきらいがある。で、だいたい好むのは味が濃く、カロリーの高い料理だ。彼らは一般的な食事で満足する人を貧乏舌と言って蔑んだりするが、健康にはグルメ舌より貧乏舌の方がずっといい。薄味、簡素な味で満足できる方がずっと幸せだ。美食を追及すればするほど健康から遠ざかる。これは外見の美も同じ。必要以上に美を追求すると健康を害する。
現世の執着を解くなら、美食は追い求めない方がいい。美味しい料理を食べると、味覚を通して脳に焼き付き、また食べたくなるが、それが現世の執着となり、その料理を食べたいがため、また現世に生まれたいと思うようになる。マグロの大トロ、和牛のステーキ、豚骨ラーメン、お好み焼き、ああ、美味い、あの味をまた堪能したいってね。
修行僧が質素な食事にこだわるのは、まさにこれがあるからだ。美食は現世の執着となる。また生を繋ぐための食は必要悪となるが、度を超えた美食は普通に悪となる。僕らが命を頂くのは、そうしないと僕らの命を維持できないからであり、やむにやまれぬ行為だということを認識した方がいい。
食べて弔う。ということを言う人がいるが、的外れもいいところ。食べられる側の立場を想像しよう。食べられて喜ぶと思うか? 僕なら体を食べられるのは屈辱以外の何物でもなく、それなら土葬か火葬で弔ってもらいたい。食べられる側にとって食べられることは決して弔いになることはない。知能の高い哺乳動物なら特にそう。
そして、それは当然だ。元々、彼らは食べられたくなかった。食べられるということは彼らのもっとも嫌がる行為だ。その事実から目を逸らしてはいけない。いや別に、食うな、と言ってるわけではない。食うことを美化するなと言いたいのだ。
例えば、現在、日本では熊が出没し、その駆除が目下の課題となっているが、駆除した熊の利用法として、熊肉の提供が注目を集めている。これ自体はいい。反対する者ではない。問題は食べることによって熊が浮かばれる。熊が喜んでいるように考えることだ。そういう人は一部だろうが、死んだ熊からすれば「はぁ?」となるだろう。人間に食べられて熊も幸せだ。なんて考えるなら、お門違いも甚だしい。
食べて弔う。食べて供養する。という言葉にその傲慢さが透けて見える。はっきり言って、食べる行為そのものは、弔いにも供養にもならない。もしそうしたいなら、僕のようにきちんと命に向き合い、心を込めて祈る必要がある。でも、そうしてる人はほとんどいないだろう。
熊を例に出したが、これはすべての生き物について言える話。動物だけでなく植物も含まれる。彼らは決して人に食べられるために生まれてきたわけではない。彼らの意に反して、彼らの命を奪ったわけでから、そこに謝罪が必要だし、供養も、感謝も必要だ。
食に感謝する人は多い。だが、供養する人は少なく、謝罪する人はほとんどいないだろう。そこには、食べて当然、命を奪うことは悪くない。という傲慢な気持ちが根底にあるからだ。これが食べられる側にとって、もっとも堪える。だから、それを慰めるため、最初に謝罪は欠かせない。彼らがもっとも欲しい気持ちは供養でも感謝でもなく謝罪だ。悪いことをされたのだから謝ってもらいたい。
悪いことをしておいて、
いきなり「来世で幸せに」「ありがとう」はない。
その前に「ごめんなさい」がいる。
悪いことをしたら、四の五の言わず、先ず謝罪から。これが道徳の基本だ。
食べることを悪い(申し訳ない)と感じないことが悪い。
程度の差はあるものの、現世の多くの人は「謝ったら負け」という思いに取り憑かれている。なぜそうなるのだろう? それは謝ることによって落ち度を認めたことになり、それを相手に追及されることを恐れてだろう。
でも本当に落ち度があるなら、真っ先に謝るべきだ。それによりカルマが解消される。謝ることは相手の為であると同時に自分の為でもある。謝らなければ、ずっとカルマが残ったままだ。これは立場や肩書や身分の差はまったく関係ない。悪いことをしたら謝る。ただそれだけの話だ。立場や肩書や身分が上だから謝る必要がない、なんてことはまったくない。シンプルな話なのに人が勝手に複雑な話にしている。
謝ったら責められるじゃないか。謝らなければ責められることはない。
と思う人がいるかもしれないが、謝ろうが、謝るまいが、責める人は責めてくる。それに落ち度の分さえ謝れば、それ以上、謝る必要はない。例えば、ある行為に対し、真摯に誠実に謝罪したにもかかわらず、何度も何度もむしかえして謝罪を求めてくるなら、それは相手に非があり、それ以上、謝罪する必要はない。
謝罪を受け入れるかどうかは被害者が決める。という論がある。
確かにその面はあるだろう。だが、100万円の被害に対し、100万円と心づけ(多少の上乗せ)の賠償をすれば、物理的にはチャラになる。問題は精神的なものだが、物理的に賠償できているのであれば、一度、頭を下げて、謝罪の言葉を言えば、それで十分だろう。
100万円のツボを壊してしまったら、100万円弁償するだけでは済まないのは確か。壊れたツボを処分したり、新しいツボを探す手間がかかるので、多少の上乗せがいる。車に傷を付けられて、修理費用が5万円だとしても、見積もりを取ったり、修理に出す手間がかかるから、やはり上乗せはいる。だが、物理的な償いができれば、精神的な償いはそこまで要求するべきではない。ましてや、それを根拠に再度、物理的な要求をするのは度を越えている。それではチンピラと同じだ。
何度も、誠意を示せ、気持ちがこもってない。もっと謝れ、と言うのはやり過ぎであろう。これは「謝罪を受け入れるかどうかは被害者が決める」の悪用だ。
一度謝ったら、それをネタに骨の髄までしゃぶり尽くそうとする悪人は確かにいる。だから、そのリスクを恐れ、謝ることを躊躇する。だが、そういう人は正真正銘の悪人でり、一部であろう。特に日本人同士なら、多くの場合、謝罪が通じ、解決に向かう。どちらかと言えば、謝らないのは傲慢な気持ちがあるからであり、そこは改善するべきだ。
一方、謝罪は善想念であり、善意は誰にでも通じるものではない、というのがある。だから、一度謝ったら、それをネタに骨の髄までしゃぶり尽くそうとする悪人には要注意だ。こういうケースでは、謝罪が相手の養分となるので、しない方がいい。こういう人物は、たとえ悪いことをしていなくても、悪いことをしたと難癖をつけ、謝罪を求めてくる。
善人は他人へ善を成すことを好むから、善の一種である謝罪も抵抗感なく行うが、それが悪人の付け入る隙を与える。まわりが善人だらけの世界なら、それで構わないが、ここは生憎、悪人もいる現世、その見極めが必要だ。
悪いことをしたら謝る。だが、何度も何度も謝る必要はない。それを相手が要求してくるなら、ゆすり、たかりと同じであり、相手にしないことだ。いつまでも憎しみの想念を抱く者に合わせる必要はこれっぽっちもない。
謝ったら負けの世界は周波数が低く、謝ったら勝ちの世界は周波数が高い。この二つは相いれることは決してなく、同じ現世にいても住む世界が違うのだ。こういう根本的な価値観が違う人は、表面上、同じ人の皮を被っていても、同じ人と思わないことだ。人の本質は中身にこそある。それは心であり、精神であり、魂だ。
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