第1750話 教育番組~善の考察~
一万文字超えました。
関連回 第1736話 霊性研究所52~内輪話3~
「聖王陛下、本日のテーマは何でしょうか?」
「本日のテーマは“善の考察“についてだ」
ここは連邦放送局のスタジオ、これから教育番組の収録が始まる。
司会兼聞き手はいつもの相方、ギロン王子だ。
彼は僕とミアの娘、メルーシャの夫であり、義理の息子にあたる。「王子」というのはかつて「ハンカチ王子」のごとき芸名だったが、現在はバナン国王の息子であることが認知され、正式な称号となっている。同じ王族の僕だから、「ギロン王子」と呼んでいるが、一般人は下に「殿下」か「様」を付けないと不敬罪になる。
まぁ、不敬罪になるといっても、そう言ってるだけで、2人、3人ぐらいの仲間内で、うっかり付けないで言ったぐらいで捕まることはない。たくさん人がいる場で意図的に言わない限りはね。これは侮辱罪も一緒だ。極端な言葉狩りはしない。
先日、ミローネと話した際、「善について深く考えている」と言われ、気をよくしたのが切っ掛けだが、善の基本的な話はこれまで関係各所でしてきたので、この機にもう一段、踏み込んだ話をしようと思い至った。質問会などでも、そういう問い合わせがよく来てるしね。
理論より実践で、最初は単に「善いことをしよう」で始めても、次第にその行為について、いろいろ深く考えるようになるものだ。自分がそうだったようにね。僕は自分が得た知見や境地を独り占めにすることはしない。皆と共有し、皆と一緒に成長したい。千里の道も一歩からだが、一人で歩くより、みんなで歩く方がいい。
山の頂上に登って、お弁当を食べると、地上で食べるより美味しく感じるものだが、それを山登りという過程を経たからと、一緒に連れ添った仲間がいるからだ。一人だけなら、そこまで美味しく感じないだろう。
「善の考察ですか、これは楽しみです」
相変わらず、ギロン王子は口がうまい。
そう言ってくれると、こちらも気分が乗ってくる。
それでは、早速、始めるとしよう。パネルを提示する。
□------
大きな善
小さな善
□------
今回は善の比較事例を挙げながら、論を進めていく。先ずはこれだ。
「大きな善と小さな善、どちらがいいいかと言えば、普通、大きな善となるよね。これ自体はその通り。小さいより大きいがいい。だが、実際に行うと、そう簡単に言い切れない部分があるんだ」
「それはどういうことでしょうか?」
「例えば、ボランティア活動をするとしよう。この理屈に従えば、週一回より、週二回、週二回より週三回、週三回より毎日の方がいい、ということになるよね?」
「まぁ、そうですね」
「だが、実際どうだろう。週一回なら無理なく続くボランティア活動が、週二回、三回、毎日となると、無理が大きくあり、続かなくなる可能性が高くなる。止めればそれっきりだ。だが、週一回でも続けば、ずっと徳積みになるよね。何が言いたいかというと、いくら大きな善でも、それが継続しなければ、総量として大したことがないということだ。一度に大きなことをして、それで満足して、それっきりではね。それなら、小さな善をコツコツ積み重ねた方がいい」
人は一発ドカンの大きな善に目が向きがちだが、それは好ましくない。
パネルを提示する。
□----------
善は持続してこそ
□----------
「一回、二回、大きな善をして、やった気になっても、それで終われば、あまり意味がない。大きな善は、大きなことをした感があるから、そのリスクがあるんだ。逆に小さな善は、大したことをしてない感があるから、善をしたという意識が少ない。で、実はこれがいい。『自分は大きなことをしたんだ』という意識は慢心につながりやすいからね」
細かく言えば、「自分は善いことをした」という意識自体はいい。問題はそれにより、「だから、もう善はしなくていい」になることだ。この二つはつながりやすい。日常生活で言えば、「もう〇〇の面倒は十分みた。もう、これ以上はしない」というような感じ。「やった感」は「もうやらなくていい感」と直結する。善においてそれは致命的なぐらい問題だ。
「自分は大きなことを成し遂げた。だから、もういい。
という意識は徳積みの障害になる」
「なるほど、それで一日一善なんですね」
「そういうこと。無理なく、というのは、意識せず、という意味でもある。意識して善をやるのはもちろんいいが、もっといいのは無意識に近い形で善をやることだ。それには大善より小善の方が向いている」
善いことをしてるという意識をせず、無意識に近い形でそれができれば、善性(陰徳)が高くなる。それには大善より小善の方が向いている。大善はどうしたって、「やった感」が出ちゃうからね。自分は、やったんだ。だから、もういいいや、とね。完了感は衰退の始まり。
一部の人は小善より大善を目指そうとするが、それは心の奥に「大きな善をすれば、もう善をしなくて済む」という邪心があるからかもしれない。燃え尽き症候群とは、それまで熱心に打ち込んでいた人が、慢性的なストレスなどから心身のエネルギーを消耗し、意欲や活力を失ってしまう状態を指すが、大きな善にこだわると同様の状態に陥るリスクが高くなる。
大善やら究極の善やら至高の善やらを掲げ、
それにこだわると、一気にきな臭くなる。
別に全世界や全人類を救おうとまで考えなくていい。目の前の困っている人を助け、手の届く範囲のことを愚直に行えばいい。いくら世界平和をご大層に唱えても、近隣の一人すら助けられなければ意味がない。
「まとめると、何も大善を狙う必要はないということだ。身近なこと、小善をコツコツ積み重ねればいい。それと、善は量だけでなく質も大事だ。それには相手を選ぶこと。同じことをする場合でも、助けを必要とする人とそうでない人、きちんと役立ててくれる人とそうでない人、食べ物なら、美味しく味わってくれる人とそうでない人、という風にね。小善でも質を高めて継続すれば、単発の質の低い大善より価値が高くなる。一回の大善より継続的な小善を志そう」
貧者の一灯、という教えがあるが、これは貧しい人が心のこもったわずかな寄進をすることは、お金持ちが形式的に行う大量の寄進よりも尊い、という意味だ。どちらも善行であることに変わりないが、善の量と質について的確に表した言葉であろう。小善でも質を高め、無理なく継続的に行う。現実世界で徳を積むにはこの方法が効果的だ。
さて、次にいこう。パネルを提示する。
□----------
見返りを求めない善
見返りを求める善
□----------
「見返りを求めない善が優れているのは間違いないが、これも先ほど同様、難易度が高く、続かないという欠点がある。それぞれの善を一回ずつやるなら、見返りを求めない善の方が優れているが、人生は長く、総量でみるから単純にはいかない。そういう意味では、見返りを求める善の方が無理なく長続きする。長続きすれば、総量が大きくなるから、結果的に見返りを求める善が好ましいということになる。見返りを求めない善は余裕がある時にすればいい」
見返りを求めない善は崇高ではあるが、
こればかりでは長続きせず、身が持たない。
身が持たないということは護身に反し、現世では避けるべき事案だ。
「一切の見返りを求めない善を陰徳というが、これは現世において過剰善のきらいがある。やるなら程々にした方がいい。そして、これをするなら、感謝、賞賛、喜び、尊敬などの精神的見返りを求める善、陽徳をお勧めする。これなら続きやすい」
人は行動する際、目的を必要とするが、それは善も同じ。善そのものが目的化すれば、それに越したことはないが、その域に達する前は方便(現実的判断)として見返りを目的としていい。それを続けるうちに、善そのものが目的となっていく。
その昔、とある不良が喧嘩に強くなりたい目的でボクシングを始めたが、厳しい練習の過程で自制心を養い、ボクシングそのものが楽しくなり、当初の目的など、どうでもよくなったという話があったが、善もこれと同じ性質がある。最初はどんな切っ掛けであっても、続けるうちに善そのものが楽しくなってくる。利他行が楽行になるのはこの構造があるからだ。
善は苦ではなく、楽しいもの。これに目覚めれば生き方が根本的に変わる。これは一種の悟りと言っていいだろう。天動説から地動説に価値観が根底からひっくり返るようなものであり、人によっては雷に打たれたように衝撃が走るかもしれない。
なぜ善行し、徳を積むことが大切なのか?
便宜的に方便として、高級霊界に行くことを目的と説明したりするが、実のところ少し違う。見返りなく善そのものを求める心境はそれ自体が高級霊界の心境であり、イコールと言っていいからだ。善なる想念で満たされたから、見返り、ご褒美として高級霊界へ行けるわけではない。その心境こそ即ち、高級霊界だ。
善想念に満たされた状態、即ち、高級霊界の心境は死後なるものではなく、生きている間になるものである。裏を返せば、生きている間にその状態にならなければ、高級霊界に行くことはできない。高級霊界は生きている間に心の中でその状態を実現できた者だけが行ける。それは善そのものが楽しいと思える境地だ。人の喜びが自分の喜びとイコールとなる。上滑りの知識ではダメ。心の底から、そう確信できること。
魂は人から喜ばれる存在になることを目指す。それが自分の喜びでもあるからだ。最終的に喜びにおいて自他の区別はなくなるだろう。線引きのない皆の喜びとなるのだ。その状況に至れば、見返りという概念は存在しなくなる。他者の喜びがストレートに自分の喜びとなるからね。現世ではその感覚を高めていくことが修行となる。
出来た親は子供が大成功を収めれば、その状況だけで満足し、それ以上何も求めない。だが、不出来の親は子供にたかり、おこぼれにあずかろうとする。対比のため、あえて不出来な親と表現したが、世間一般の多くの親がこのレベルだろう。出来た親の方がレアである。
本当に出来た親は子供が成功すれば、それだけで嬉しい。別に子供から何かもらう必要はない。親子の例で話したが、これは他のあらゆる人間関係について言える話だ。おこぼれがもらえるという理由で他人の成功を喜ぶのでは、まだまだ修行が足りない。
パネルを提示する。
□-----------
自分の身を斬る善
自分の身を斬らない善
□-----------
「これも上の、自分の身を斬る善が優れているように見えるだろうが、自分の身を斬る善はまったくお勧めしない。自分の身を斬るとは、自分が必要とする分まで他人に与えること。余裕があるならいいが、そうでないなら好ましくない。自滅することになるからね。利他の精神が強い人はこれをしがちだが、それで自分が潰れてしまったら元も子もない。よって、自分の身を保全した上で、他者に善を成すことを勧める。自分の身を斬ってはダメだ」
低級霊界出身者はこういうことをしないだろうが、高級霊界出身者がしばしばこれをする。高級霊界なら「身」の制約がないので、いくらでも善を成せるが、現世はそうはいかない。だが、高級霊界にいた時の感覚で、どんどん他人に与えてしまうんだよな。自分の分まで平気でね。それを一部の低級霊界出身者は目ざとく利用する。現世で悪人が善人を食い物にする構造がここにあるが、僕はこれを良しとしない。その状態はどちら側の人にとっても望ましくないからだ。高級霊界出身者は善をしてるつもりで善になっておらず、低級霊界出身者は悪を重ねる。
お人よしな日本人は外国人にまで生活保護を支給しているが、生活保護支給の根拠となる憲法第25条(生存権の保障)で記載する「国民」は日本国籍を持つ日本人であり、外国人を含まないことが最高裁判所の判決で明らかになっている。だが、人道的見地で今なお支給し続けているのだ。
善意を否定するものではないが、それは自分たちの身を護った上での話だ。日本人ですら支給されない人が多いのに、外国人に支給する道理はない。そもそも外国人に対しては、永住条件として、独立の生計を営むに足りる資産・技能を有していることがあるので、生活保護の状態に至ることはそれに違反する。支給どころか、永住許可を取り消して、国外退去処分の案件だ。
※補足※
日本の永住条件は、原則として、
①10年以上の在留
②うち5年以上の就労・居住資格での在留
③素行が善良
④独立の生計を営むに足りる資産・技能
⑤日本の利益になることの
5つです。ただし、日本人配偶者など、
状況によってはこれらの条件が緩和されます。
③④⑤は怪しい外国人が多そうですので、
取り締まりを強化してほしいものです。
これは現行の法令でも厳しく運用可能です。
『孟子』の中に『捨身取義』という言葉があるが、これは、正義や真理のために生命を犠牲にすることを意味する。物語の美談になりやすい言葉であるが、僕はこれに賛同しない。どんな状況であっても、自分の身は自分で護らねばならない。肉体は神様から貸し与えられたものであり、生涯、大切に大切に扱わねばならないのだ。身を捨てることは決して美化してはならない。
そうそう、昔、前世で会社員だった頃、とある証券会社の営業マンと話す機会があった。その人は常に売上上位に名を連ね、好成績をあげていたが、どうして、そんなに成績がいいのか聞いたところ、自分が大学の後輩ということもあり、本音で打ち明けてくれた。
あれはガード下の居酒屋だったな……。
焼き鳥屋で日本酒をあおり、先輩は上機嫌だった。
「成績をあげる方法? そんなの簡単だ。『絶対にこの株は上がる』
と言えばいい」
「えっ、それは上がる根拠があって言ってるんですよね?」
「はぁ? そんなのは適当に言えばいい。重要なのはデータがどうのこうのと細かく話すことじゃない。どうせ話したって客は理解できないんだ。それより、強い口調で『絶対に上がる』と言い切ることだ。これを繰り返せば、たいていの客は株を買ってくれる」
「でも、買わない人だっていますよね?」
そんな簡単に売れるはずがない。
「あのな。買わない人だって『絶対に買った方がいいです。買わないと損をしますよ』と強く言えば、『そうなの?』となるぞ。180℃反対を向いてる客だって、強く言えば、90℃ぐらいこっちに持ってこれる。そこまで来たら、後は一気に引っ張るだけだ」
「でも、もし下がったらどうするんですか?」
株は上げ下げするのが常識だ。証券会社の営業が知らないはずがない。
「そしたら、『もう少し待てば必ず上がる。信じて下さい』と言えばいい。
何なら、もっと上がる株を紹介してやるね。ははは」
あの頃、株は上がっていたが、その後、はじけたんだよな……。
お客さんが株を買ったのは、私利私欲があってのことだろうが、それに加え、営業の熱意をくんでのことだろう。つまり善意の部分があったはずだ。だが、あの人はその善意を食い物にしたと言える。成績を上げ、一時的にあぶく銭を掴んだのかもしれないが、短期間で相当な業を積んだはずだ。あの後、どうなったか知らないが、おそらく厳しい人生を歩んだことだろう。
パネルを提示する。
□---------
戦略的でない善
戦略的な善
□---------
「戦略的な善というのは、いろいろ考えた上で成す善であり、これを推奨する。戦略的でない善は純心から来るものだろうが、考えなし、思い付き、善かれと思って、の善の場合が多く、受け取る側からすると、的外れの場合があるからね」
「純心の方が良さそうな気はしますが」
「純心はいいんだが、周囲の状況やら相手の要望やら、何も考えない善はちょっとね。善は相手がある話だから、相手が必要とするもの、喜びそうなもの、をリサーチする必要がある。単に気持ちだけでは不十分なんだ」
「あなたの為を思って」「善かれと思って」という気持ち自体は悪くないが、それだけでは結果的に善にならず、悪になる場合さえある。これが善の難しいところ。純心(善意)が必ずしも善行になるとは限らないのだ。
僕は「善意のない(少ない)善行」、「善意のある不善行(善性の少ない行為)」を中途半端な善という意味で似善と呼んでいる。但し、これも善であることには変わらず、否定するものではない。これをしながら「善意のある善行」真善を目指せばいいのだ。
ちなみに偽善だが、これは「善意のない悪行」であり、善にみせかけた悪だ。善の要素はまったくない。善を装っている分、普通の悪より質が悪い。現世に蔓延る巨悪の類はほとんどこれだ。善を装って大衆を騙し、悪しき方向に導こうとする。政治家やマスコミに限らず、影響力のある人物が耳当たりのいい美辞麗句を唱えだしたら注意してかかった方がいい。
綺麗な花には棘がある。おいしい言葉に針がある。ってね。
さて、どんどんいこう。パネルを提示する。
□---------
相手を選ばない善
相手を選ぶ善
□---------
これも親類縁者に頻繁に説いてきた内容だが、学校教育ではあえて教えていない。誤解されるとマズいからね。ある程度、善の勉強が進んだ段階で教えるようにしている。実社会、大人向けの善と言っていいだろう。
「善は次元の高い行為であり、通じる人と通じない人がいる。実は誰にでも通じるものではない。通じる人は、人の優しさをそのまま受け取るが、通じない人は、弱さと受け取り、威張ったりするからね。クレクレばかり言う人に与えると、感謝せず、もっとクレクレ言ってくる。また悪人を助けると、悪に加担したことになるから、まったく善いことでない。善は相手を選ぶべきだ」
人の優しさを弱さと取り、人の思いやりを愚かさと取り、
人のおもてなしを服従と取るタイプは避けないとね。
「善は誰に対してしてもいい、というものではないということですね」
「そういうこと。うっかり悪人に優しくすると、つけ狙われ、
犯罪に巻き込まれることさえある」
前世において、先進国に住む、子供のいない資産家夫婦が、善意により、途上国の子供を引き取り、我が子として大切に育てたが、成人した途端、殺害され、財産を奪われるということがあった。恩を仇で返すとはまさにこのことだが、同じ人の皮を被っていても、善意の通じない者は確かに存在する。
この夫婦は心清き夫婦で、高級霊界出身者かもしれないが、高級霊界では誰にでも善が通じるため、その感覚で子供に接したのだろう。善を成せば、誰にでも善は通じ、善で返ってくると。だが、現実はそうではなかった。ここは高級霊界ではないからね。現世で生き抜き、徳を積み上げるには、相手を選ばなければならない。間違った相手に善を与え続けると、欲望を増長させ、怪物(クレクレモンスター)を育てることになりかねない。こういう相手に与え続けてはダメ。
純心な人ほど、相手を選ばない善を志向しがちだが、それでうまくいく場合もあれば、うまくいかない場合もある。うかくいかないのは相手に善が通じないケースだ。これがあるから僕は現世で大乗(全救済)を志向しない。それは高級霊界に行ってから志向しよう。現世では過剰善となる。
過去の偉大な聖人たちが誰一人として、大乗(全救済)をしなかったのは、ちゃんと理由がある。今後も現れることはないだろう。お釈迦様も「縁なき衆生は度し難し」と言っている。この世には、助けようがない人、助けるべきでない人というのが存在する。
さて、次にいこう。パネルを提示する。
□---------
全部を助ける善
全部を助けない善
□---------
「全部を助けると相手の成長の機会を奪い、依存を強めることになる。
自分でできることは自分でやってもらわないとね」
1から10まで全部助けない。相手ができることは相手にやってもらう。そして、9,8,7,6と徐々に助けを減らし、相手の自立を促していく。丸々全部助け、いつまでもその状態にしたら、相手の成長の機会を奪い、相手をダメにしてしまう。それは善とは呼べない。何でも欲しいものを与え、甘やかして育てた子供がどうなるか、多くの人は体験的に知っているだろう。我がままで、自己中心的で、攻撃的で、他人への思いやりがない大人になる可能性が高くなる。両親は人間ができているのに、子供が残念な場合はだいたいこのパターンだ。
周波数の高い人は、助けたがりの人が多く、ついつい全部やってしまいがちだが、それはいいことではない。僕も他人事ではなく前々世において身を持って体験した。魔王軍を倒し、建国したまではいいが、その後、生産系スキルを使いまくり、一人でやりまくってしまった。皆が喜ぶので、嬉しくて、ついね。だが、僕がいなくなった後、国が乱れてしまった。
その償いのために、僕のこの世界に転生し、やり残したことをやったわけだが、それは、僕がいなくても国が回るようにすることだ。これについてはほぼほぼ出来ていると自負する。この件のカルマはだいたい解消されたとみていいだろう。
ただ、生きていると、日々、新たなことが起きるので、そこはうまく対処しないとな。過去世のカルマを解消しても、今世で新たなカルマを積んだらマズいからね。過去があるから今があり、今があるから未来がある。
パネルを提示する。これで最後だな。
ある意味、究極の善と言っていいだろう。
□-------
助ける善
助けない善
□-------
「前と関連するが、助けないことにより相手の成長と自立を促すことができる。助けられている状態は実は助かっていない。本当に助かっているのは、助けを必要としない状態となることだ。助ける善だけでなく、助けない善というのもある」
「助けない善ですか、深いですね……」
「うむ、深いね。欲望が強く、クレクレ言う人に与えたら、欲望を助長し、もっとクレクレと言うだろう。それは相手の霊性進化を妨げることになり、善にならない。飴が欲しいからと言って、飴をあげればいい、という話じゃないんだ。時には飴を欲しがっても、飴を与えない。神様はこの世に干渉されないが、それはつまるところ、助けない方が善になると達観してるからだろう。僕らは皆、助けられないから、キツイし、苦しいし、しんどいし、大変だが、だからこそ、それを乗り越えて成長することができる。もし大変だからといって、神様が困難をすべて取り去り、平坦な道のりにしてしまったら、堕落してしまうはずだ」
見方を変えれば、茨の道、試練の道も、神様の恩寵かもしれない。
魂が苦を求めるのはそれを知っているからだ。
「極論を言えば、僕らは既に助かってる。助けてもらう必要がないんだ。どういうことかと言うと、僕らの本性は魂であり、永久不滅の存在だ。霊界にあれば、想いはすべて叶う。もう助かっている状態なんだ。だが、僕らはそれに飽き足らず、霊性進化を求めて、ここに来た。ここは制約や困難が多く、霊性進化の糧になるからね。つまり僕は既に助かっているが、助かってないかのような状況を自ら演出することにより、自分で自分にはっぱをかけ、動いているような状況だ。自分と言う役を演じ、霊性進化を志す。だから、神様が助けるわけがない。その状況は自ら選択したものだからね」
例えるなら、自らボクシングの試合に出て、殴られているのが僕ら。殴られるのは痛いが、その試合に出ることも、殴られることを決めたのは自分だ。さらに言えば、自らいつでもゲームを離脱することができる。魂視点で見れば、現世の僕らはゲーム上のアバターのようなもの。仮想現実の制約や困難をクリアして、ポイントを積み重ねていく。展開が面白くなければ、途中離脱できるが、それをするとペナルティが発生するので、しない方がいい。自分で始めたゲームはどんな内容になろうが最後までする。
僕らは永久不滅の存在であり、万能であり、自由意志を認められている。
これ以上、神様に何を求めるというのだろうか。ただただ感謝するしかない。
自分の身の上に起きていることは、自分の選択と行動の結果によるものだ。
自分で何とかするしかない。神様のせいにするのは筋違いもいいところ。
自由意志には相応の自己責任が伴うのだ。
都合が悪くなると人は「神様、助けて下さい」と言い、それで何も起きないと「神はいない」と文句を言うが、神様から言えば、何をかいわんや、だろう。勝手に道を選び、勝手に道を歩き、勝手に石に転び、勝手に石に文句を言い、自分の判断や行動を棚に上げて、他者のせいにしようとするのが人の悪習だ。だが、その悪習も自らの判断と行動の積み重ねによるものであり、結局、すべて自分の責任。
どんなに今の状況が厳しかろうと、それは自ら蒔いた種が芽を出した結果に過ぎない。誰かのせいにできれば楽だろうが、そうはいかないし、それをする限り、足踏み状態で一歩も前に進めない。本当に前に進みたければ、自分の意思をはっきり持ち、判断を明確にして、すべての行動に対して自己責任を負うという自覚を持つことだ。それが僕らの存在理由を見つける処方箋となるかもしれない。
最後までお読み頂きまして、誠にありがとうございました。もし拙作を気にいって頂けましたら、いいね、ブックマーク、評価をして頂けると大変有難いです。
書籍化作品へのアクセスは下記のリンクをご利用下さい。




