5話
その日の学校は静かだった。
いつも、教室の皆を巻き込んで大騒ぎするトラブルメーカーが存在しないからだ。
その日、皆勤賞だった朝星ニカは初めて高校を「病欠」した。
「朝星も風邪をひくんだな。実際体調はどんなもんなんだ、テル」
「俺に聞くな、知らん」
級友たちは、こぞってニカの心配をした。
奴等はどうやら俺が一番ニカの事情に詳しいと思っているようで、その容態を迷わず俺に問い詰めた。
「ちょっと事情があって、ニカと俺は距離を置くことにした。もう、俺はアイツの事を何も知らん」
「うーわ、まだ喧嘩中かよ。風邪ひいた時くらい、仲直りして見舞いに行ってやれよ」
「そんなんじゃない」
俺の言葉を聞いた級友たちの反応は、呆れ声だった。
彼らはまだ知らないのだ。俺とニカの関係が、完璧に終わってしまったことを。
「でも今日の分のプリント、届けてあげないと可哀そうよ」
「確か、朝星と家が隣の奴が居たよな。プリント持ってく役はソイツが良いよな」
「はー、意地も張りすぎると悪行だよテルっち」
俺が何も返答しない間に、朝星の分のプリントが俺の前に積まれる。
まぁ確かに、自宅の立地的に俺がそのプリントを届ける役になるのは妥当と言えるだろう。
ただなぁ。俺が見舞いに行っちゃうと、間違いなく手癖でいろいろ世話を焼いてしまう気がする。
それじゃ、ニカと距離をとった意味がない。郵便受けにプリントだけ突っ込んでしまうとするか。
「……テル君。そんなにニカちゃんに会いたくないなら、私が届けてあげようか?」
「良いのか、シノ」
「ん。ニカちゃんも男の子に見舞いに行かれるより、同性の方が気楽だろうし」
そんなこんなで悩んでいると、俺とニカの複雑な事情を知ってくれているシノがそう提案してくれた。
それは良い。憧れのシノが行ってくれた方が、ニカの奴も嬉しいだろう。
「そしたら、帰り道もずっと一緒になるしね」
「そうだな」
シノの優しさに感謝して手を合わせていると、エロ脇様がその俺の手首を固めた。
「まー確かに? マジしんどい時に男子に来られると、身支度整えるのダルいし。その方がいいんじゃない?」
「あの朝星が、そこまでテルの来訪に気を遣うかはわからんが」
そのままエロ脇様は小手返しで俺の関節を極め動けなくし、周囲の男子と共に俺の身体を完全に拘束した。
それは、お手本のような犯罪者拘束の実践だった。
「涼加瀬さんも風邪を移されないように、マスク付けて行きなよ~」
「ありがと。注意するわ」
美しく連携された流れ作業で体の自由を奪われた俺は、そのままエロ脇様にのしかかられギリギリと腕を捻られた。
やばい、折れる。
「ところでテル、お前いつの間に涼加瀬さんを下の名前で呼び捨て始めた?」
────しまった、感付かれたか。
「テル君、どうする? 私としては隠すつもりも、とぼける理由もないのだけれど」
愛しの恋人涼加瀬シノは、男子どもに腕を極められている俺を見て可笑しそうに目を細めていた。
「そうだな、俺も隠したりする気はないが────」
「このクソテル調子乗ってるな。シメるか」
「二度と学校に出てこれないような陰湿なイジメを見せてやるか」
「────やっぱり、隠しておいた方が良い気がするから黙秘を貫くぜ」
ちくしょう。俺の彼女の人気が凄い。
無理もないか、涼加瀬シノはその辺の芸能人なんかよりよっぽど美形だ。しかも気立ても頭も良い、完璧超人。
そんな娘の彼氏にぽっと出の俺が居座ったら、嫉妬の嵐に晒されるに決まっている。
「黙秘は何より雄弁な返答」
「腕がぁぁぁぁ!!」
しまった、肘関節を外された。
コイツら、本気だ。
「関節外すのはやり過ぎたろ! い、痛ったぁ!!」
「落ち着けテル。人体には68もの関節が存在するらしい」
「つまり、あと67回まではへし折ってもセーフだ」
コイツら、俺を軟体動物にでもするつもりか。
「骨をへし折れば、さらに関節を増やすことも可能だ」
「流石はエロ脇様。頭が良いな」
これはまずい。
普段は冷静で、おとなしく仲裁役に徹する筈のエロ脇様まで激昂している。
このままでは、男子のストッパーが居ない。
「エロ脇様。何故お前まで、そんなに怒っている?」
「お前は許されない事をした。あの宴は彼女持ちが参加して良い様な、低俗な集会ではないのだ」
「あれほど低俗な集会を俺は知らないが」
どうやら、エロ脇様は彼女持ちが『女子写真即売会』に参加したのにキレている様子だ。
そんなルール有ったのか。
「涼加瀬さん、マジ? よくテルちん行ったね……」
「もっと他に良い物件あったでしょうに」
「ふふ、アレで結構な優良物件よ。大事にしてくれそうじゃない?」
「それは間違いない」
俺が絶体絶命の窮地の陥っている裏で、シノは楽し気に女子同士で恋話を始めていた。
その和気藹々さを男にも分けて欲しい。
「聞けテルよ。俺があの集会を企画したのは、手が届かないまでも『憧れの娘の写真くらい入手したい』という可哀そうな男の願望を成就するためだ」
「……」
「あの場に居た男子は、皆が童貞でモテない。……あの会はそんな『恵まれぬ』男たちの慰みなのだ」
脇田は俺の手首を固めたまま、悲し気にそう俺を諭した。
「女に満たされている人間が、物見遊山に顔を出していい祭りではない。アレは神聖な祭事だ」
そんなエロ脇様の口ぶりからは、深い悲しみと失望が見て取れた。
彼は、俺に随分と切ない目を向けていた。
「エロ脇様、お前は」
「無自覚かもしれぬ、しかしお前は多くの男を傷つけた。俺には、それが許せぬのだ」
それは、きっと脇田の信念なのだろう。
彼はモテない。エロの宿命を背負い、教室でエロ本を広げ職員室に連行された悲しい過去を持つ『エロ脇様』の譲れない部分。
だからこそ、彼は誰よりも『モテぬ男』に優しい────
「違うんだエロ脇様。俺はあの時、確かに振られていて────」
「聞く耳持たぬ!」
正直、俺にはエロ脇様の言ってることの意味は半分も理解できていないが、彼の怒りは正当なものな気がする。
彼は全てのモテない系男子の味方だ。ここは素直に非を認め、謝っておかなければ。
「因みにエロ脇様は、去年涼加瀬さんにフラれてるんだ」
「うおおおおおおっ!! クソテルぶっ殺す!!」
「私怨じゃねーか!」
その後、脇田とめちゃくちゃ喧嘩した。
「ウチのクラスは、騒がしいわね」
帰り道。クラスの男子から暴行を受けて満身創痍な俺は、恋人に手を引かれ帰路に就いた。
「誰かが人気者なせいで、酷い目に遭ったぜ」
「ふふ。誰かの為に、私人気者になっちゃった」
カップル誕生祝いにしては、クラスの連中は少し手荒すぎる。
割と本気の殺意を向けてくる奴も多かった。それこそが何より、涼加瀬シノの努力の軌跡を示しているのだろう。
「明日以降、男子に総スカン食らったら私が傍にいてあげる。幼稚園の頃みたいに、ね」
「それも良いかもしれんが、益々殺意は高まりそうだな」
涼加瀬シノは、俺の左腕に絡んでご機嫌に歩いていた。
他人の、女子の柔らかな体温が俺を動悸させる。わずかに、彼女の胸が触れているのを感じる。
この時俺は、幸せと羞恥と、少しばかり下世話な感情でいっぱいいっぱいだった。
「可哀想、テル君はこうして男子にハブられて、ボッチ生徒として寂しい学園生活を送るのね」
「勝手に俺の学園生活を憐れむな」
「大丈夫、貴方の隣にはとても可愛らしい幼馴染が付いてるから。だから私によく従って行動してね」
「畜生、既にカップル間に上下関係が形成されつつある」
流石に今のは冗談にしても、俺はシノと付き合うにあたって尻に敷かれそうな気がする。幼稚園時代にその片鱗は見当たらなかったが、今の涼加瀬シノは気が強いのだ。
自信が付いたからこその、変化なのかもしれない。
「ところで、学校でも言った通り。ニカちゃんにプリントを届けるのは、私で良いのよね?」
「ん、お願いしていいなら」
「……本当に、テル君が行かなくて良いのね?」
「ああ。……俺はニカの為に、手出しせず見守ると決めたんだ」
「ふふ、意地っ張り」
涼加瀬シノは、あきれ顔で俺から紙プリントの入った袋を受け取った。
付き合って早々、彼女に負担をかけて申し訳ない。
「じゃ、私が代わりにお見舞いしてくるね」
そして俺は、涼加瀬シノと楽しく雑談して下校した。
幸せな時間だった。学校では何だかんだあったが、シノと共に過ごすのは楽しかった。
「家まで送っていくから、見舞いが終わったら連絡くれよ」
「あら、そう? じゃあお願いしようかな」
シノは俺の代わりに、かつての親友……朝星ニカの家に出向いて。
「……」
もうニカの家の玄関をくぐれない寂しさを誤魔化すように、俺は自分の家に帰ってベッドに突っ伏した。
────一方で、涼加瀬シノは嫌な予感がしていた。朝星ニカが『休んだ』という事実に対して。
朝星ニカは、自らの恋人の半身とも言うべき存在だった。そして、その想い人でもあった。
以前に涼加瀬シノは、ニカから親友との歪な関係を聞かされた。
彼女の話を信じるなら、朝星ニカはテルによって救われて────テルに価値観を貰って動いていた。
そうする事によって、彼女は忌み嫌われることがなくなり、心の安寧を取り戻した。
────もし、再び彼女が壊れそうなほどに追い詰められたら……、自らの恋人はどう動くだろうか。
「ただの風邪であってくれれば良いのだけれど」
朝星ニカは、自分の本当の感情を隠蔽して生きていた。
ニカは自らの価値観と感情のズレを許容し、補正して生きてきた。
その価値観と感情のずれが、修正出来ない程に大きくなった時。彼女は一体、どうなってしまうのだろう。
「……私の彼氏、ぶっちゃけ学校一かっこいいからな。ニカちゃんが内心で惚れてても不思議じゃないし」
涼加瀬シノは、結構目が曇っていた。
「ま、ここは牽制もかねて私が出向くのが正解でしょ」
口では色々と言いながらも、涼加瀬シノは独占欲が強かった。
女友達と一緒に遊ぶことを許容すると言いながら、テルが本当にクラスの女子と遊びに行ったら3日は不機嫌になるだろう。
万が一、彼がニカとデート染みたお出かけをした日には、血の雨が降る。
「ニカちゃんの真意を確かめないとね」
だからこそ、涼加瀬シノは見舞いを買って出た。
彼女は出来れば、朝星ニカと二人きりで話す機会が欲しかったのだ。
「やあ、涼加瀬さんが見舞いに来てくれるとは光栄だなぁ! ……ゲッホ、ゴッホ」
「……だ、大丈夫?」
見舞いに行くと、朝星ニカは一人で部屋に籠り療養していた。
顔は火照り、湿った咳を繰り返すその様は、本当に風邪をひいている様子だった。
「ああ宿題のプリントか、届けてもらって済まないね。あのバカに言って、ボクの家の郵便受けにでも突っ込ませとけばいいのに」
「……」
「あ、いや失敬。もう涼加瀬さんの彼氏だったな、アイツは。あまり気軽に侮蔑できないか」
ニカはベッドの上に座り、ダルそうに愛想笑いを浮かべた。
同時にズルリと、白い鼻汁が垂れてきた。
「はいニカちゃん、ちーん」
「ズビー」
病中にこそ幸有り。
愛しの涼加瀬さんに鼻を噛んでもらい、ニカはご満悦であった。
「汗も凄いわね。同性だし、拭いてあげようか?」
「い、良いのかい? そんな、じゃあボクはいくら払えばいいのかな?」
「……何というか、普段通りねぇ」
気構えて見舞いに来た涼加瀬は、毒気を抜かれた。
ちょっと元カノと対決するか、みたいなノリでこの家に乗り込んだのがバカみたいだった。
「ああ、そうだ。ニカちゃん、私テル君と付き合い始めたから」
「ああ、本人から聞いたよ。おめでとう、涼加瀬さん」
涼加瀬シノの報告に、顔色も変えず笑顔で祝福するニカ。
どうやら、シノの不安は杞憂に終わった様だ。
朝星ニカが休んだ理由は本当に風邪で、テルと自分が付き合ったことに関係はなさそうだ。
「ニカちゃんから奪っちゃったみたいだけど、ごめんね」
「ああ、そんな事を……」
これ以上、彼女に警戒する意味もない。
せっかく見舞いに来たのだから、後はしっかりニカの世話でも焼いて彼のもとに戻ろう。
涼加瀬シノは心穏やかに、服を脱がせたニカの身体をレンジで蒸したタオルを使い拭きはじめ、
「あら、びっしょり。お熱は何度くらいなの、ニカちゃん」
「……」
「39度くらいは出てそうね。お薬はあるかしら?」
黙りこくった朝星ニカの汗を拭きとってやりながら、再びパジャマを着せてやった後。
「……を、気にする必要はないよ。あんなの、好きに持っていけば良いさ」
「え?」
何の脈絡もなく、朝星ニカは台詞を再開した。
「あの、ニカちゃん?」
「どうしたんだい、涼加瀬さん」
今のは一体何だったのだろう。
それは突然に、朝星ニカがフリーズして。やがてゆっくり、再起動したかの様な。
彼女自身、今さっき自分が一時停止していたのに気づいていないような素振りであった。
「……ニカちゃん。さっき私が体を拭いていた時の記憶、ある?」
「え? ……あれ、いつの間に拭いてくれたんだい? なんか体がすっきりして気持ち良い」
やはり、ニカに意識はなかったらしい。その症状を見て、涼加瀬シノは少し慌てた。
重症なウイルス感染症は脳に移行して脳炎となり、意識を飛ばすという。もしかして彼女はただの風邪ではなく、重症なんじゃないか。
「ん、駄目ね。病院に行きましょう」
「今朝に親に連れて行ってもらったよ。お薬も、もう貰ってるんだ」
「もう一回、見てもらった方が良いわ」
「いや、そんな大げさな」
これは、もうテルがどうこう言おうと関係ない。
彼の家を頼り、車を出して貰った方がいいだろう。
「今からテル君呼んでくるから、そのままジッとしてなさい」
「だからボクは────」
涼加瀬がそう声を掛けた直後。
「……ニカちゃん?」
「────」
再び、朝星ニカがフリーズした。
「いけないわ」
すぐさまシノがニカに駆け寄ると、彼女はグルグルと目を回していた。
息も激しく、目を見開いて、朝星ニカは固まっていた。
「ニカちゃん、大丈夫? ねぇってば」
これはもう、救急車を呼んだ方が良いのではないか。
涼加瀬シノは覚悟を決め、自らのスマホを取り出して、
「────やだ」
「へ」
「奪っちゃ、やだ……」
その、微かな『ニカの』声を聴いた。
彼女の価値観では、それは喜ばしい事だった。
親友と言える人物が、学校で一番の美少女と付き合った事は。
彼女の価値観では、妥当な判断と言えた。
恋人が出来た親友に、『女の体を持つ自分』が距離を置かれてしまうことは。
そして彼女の価値観では、最近のテルが嫌いだった。
暴力的で、世話焼きで、独善的で。ボクの事は良いから自分の幸せのために行動しろと、何度も何度も考えた。
「テルと涼加瀬さんが付き合うのは、嬉しい」
それは、かなり彼女の望んだ展開に近かった。
恋焦がれた『涼加瀬シノ』が取られるなら、親友である彼が一番ましだ。
仲良しの親友が、自分の幸せのために行動をし始めた。
「嬉しい、ハズなんだ」
ならば何故、自分は泣いているのかと。
朝星ニカは考え、悩み、そして思考が停止した。
「……それが、ニカちゃんが調子崩した理由な訳?」
「ボクは、間違ってない。だって、これは、喜ばしいことだもん」
「ああ。精神と感情が一致してないじゃない、悪い予感ばっかり的中するんだから」
涼加瀬シノはスマホを仕舞い、泣き出しそうになっているニカの頭を撫でた。
そんな予感はしていた。
今まで皆勤賞だった彼女が、テルに恋人が出来た瞬間に休み始めたのだ。それが何も、関係していない筈がない。
「おめでとう、涼加瀬さん。おめでとう、テル」
その少女は泣きながら譫言のようにそう呟いていた。
その様は目が虚ろで、声は震え、見ていて痛々しかった。
「……貴女、テル君が好きだったの?」
「そんなハズ無いだろう。ボクとテルは、ただの親友で」
「価値観に聞いてるんじゃない。……ニカちゃんに聞いてるの」
その聞くまでもない質問に、
「分からない」
「ふーん」
「でも、アイツから距離を置かれるのは……背筋が凍るほどに、辛かった」
もう殆ど、ニカは全てを告白していた。
「やれやれ、テル君を見舞いに来させなくて正解だったわ」
そんな気がしたからこそ、彼女が此処に来たのだ。
朝星ニカの本心、それは彼女の言動とは解離している。彼女の本心は、どこまでも歪んでいた。
「……ボクは。ボクはただ、もう虐められたくなくて」
「ニカちゃん」
「本心で行動して、心の赴くまま生きて、独りぼっちになるのは嫌で」
それはニカなりの努力だった。
人間の気持ちを理解しようとした、奇人の必死の抵抗であった。
「それで、今までうまくいっていた」
朝星ニカは賢かった。テルの思考を知り、価値観を理解し、それを模範とした。
学生が校則を守るように、ニカはテルの価値観を順守した。
「でも今は、辛いだけなんだ……」
しかし少年が奪われそうになり、彼女の本心とテルの価値観にあまりに大きな隔たりが生まれてしまった。
彼女の心を守るための『テルの価値観』が、彼女を苦しめ始めた。
「ニカちゃん。私って結構尽くす女でね」
「……ん?」
「テル君をとられないため、そして彼の親友の為と思えば、まぁやる気も出るか」
そんな、完全に精神が崩壊寸前な朝星ニカを前にして。
涼加瀬シノは、躊躇わず手を差しのべた。
「……助けてあげようか、ニカちゃん」
それはシノ自身、辛い時に助けられた記憶があったのも関係していたのかもしれない。
シノは目の前で苦しんでいる少女を相手に、テルを取られないよう牽制する気にはなれなかった。
「……たすけ、る?」
「男の子の価値観で生きてたら、そりゃしんどいでしょうよニカちゃん」
ちらり、と時計を見る。時刻は午後5時前、話し込む時間は十分だろう。
「私の価値観、使ってみなさい。多分、その方がずっとマシだと思うから」
……。
「し、シノ?」
「テル君、今夜泊めてくれるかしら」
夜10時。
俺の恋人は、随分とやつれた顔で俺の家にやってきた。
「えマジ? あのシノちゃんなの!?」
「お久しぶりです、お母さん」
「うっそー! また、こんな美人さんになって!!」
あれから連絡がなかったので心配していたが、どうやらシノはずっとニカの世話を焼いていたらしかった。
ニカのヤツ、どれだけシノをこき使ってんだ。
「親には連絡してます、明日朝一番に帰りますので」
「勿論、お部屋準備するわね! あのシノちゃんかぁ、懐かしいわ」
「いえ。テル君と相部屋でもいいですよ」
しれっとヤバい発言をしたシノに突っ込みを入れつつ、俺はお疲れモードのシノを客室に案内した。
「……何よ。今日は頑張ったんだから、相部屋のご褒美くらい良いじゃない」
「いや、一緒に寝るのは不味いって。俺が」
「ふわぁ……。どうせテル君、何もしないでしょうに」
詳しい事情とかを聞き出す暇もなく、シノは俺の家の客室に制服姿で寝転んで、
「……おや、すみ」
すぅすぅ、と寝息を立て始めた。
「涼加瀬さんがテルの家に泊まったという噂を聞いたんだ」
「成る程、つまり射殺だな?」
翌日、朝イチでシノを家に送ってから一緒に登校したら、学校が俺のデスゾーンになっていた。
情報の回りが早すぎる。奴等の伝達網はどうなってるんだ。
「エロテルは何処だ? 早く処さないと授業が始まってしまうぞ」
「手が早すぎて引くわ。涼加瀬さん可哀想」
「前向きに自殺を検討したくなるイジメを見せてあげよう」
俺はビクビクと彼女の背に隠れ、怯えながら教室へと向かっていった。
教室でシノが何もなかったことを説明してくれれば、事態は解決するはずだ。
「お前は本当に人気者だな、勘弁してくれ」
「私が人気者なのは、誰のせいかな?」
気のせいか、俺と共に朝食を食べ、並んで登校したシノは機嫌良さげだった。
その可愛すぎる笑顔が、今は男子を挑発するだけなので忌々しい。
「おっ?」
「あ」
廊下でふと、見知った顔と目があった。
それは昨日まで休んでいた、元親友の少女だった。
「もう風邪治ったのか、良かったな。シノの見舞いが効いたんだろうか」
「……」
久しぶりに元気そうなその顔を見て、俺は安堵の息を吐いた。
本心では、結構心配だったのだ。
「……」
「ニカ?」
しかし、そんな俺とは対照的に。
朝星ニカは、俺の顔を見たまま数秒間は停止して、
「────っ!!!」
茹で蛸みたいな不思議な表情になり、すぐさま顔を隠して俺の前から立ち去ったのであった。
……あんな顔のニカは、初めて見るな。
「どうしたんだろ、アイツ」
「あー。……そっか、私の価値観だもんね、そうなるわね」
「シノ、どした?」
そんなニカの顔を見た俺の恋人は、ゆっくり頭を抱えた後。
ちょっとだけ怖い顔になり、
「ねぇテル君、朝一番で公衆の面前だけどキスしましょう」
「……はい?」
人目の多い廊下でバカップル行為に踏み切ってしまった結果、俺は1日中男子どもから追い回されたのだった。
それが、俺の恋人とのファーストキスだった。