3話
「────ねえテル」
その女の子は、泣いていた。
誰からも見向きされなくなり、親からすら気味悪がられ。
「ボク、何が悪かったのかな?」
「……」
誰もいないひとりぼっちの教室で、園児服の裾を涙で濡らしながら、独りで泣いていた。
それは、俺がニカという存在を初めて認識した機会で。
「……ボクは、どうすれば良かったの?」
それまで憎たらしく、忌々しく、ウザったいことこの上なかったニカが……、軽く手折れそうな程に弱々しく見えた瞬間だった。
「……じゃあね、テル君。あんまり、女の子を待たせないでよ」
「お、おお。分かった、涼加瀬さん……。いやシノ、ちゃん?」
「うーんと。シノって呼んでくれた方が嬉しいかな? 昔に戻ったみたいだし」
彼女はそう言うと、照れたような笑みを浮かべた。その笑顔は成る程、以前の引っ込み思案な地味っ娘シノの面影をよく有していた。
「下の名前で呼び合うとか、もう付き合ってるみたいよね」
「その、えっと」
「……今更、何を躊躇ってるの?」
そしてクラスのマドンナから告白を受けた俺はといえば、混乱の極致にあった。
涼加瀬さんが、幼少期に超仲の良かったシノちゃんだった。そして彼女はまだ、俺のことを好いてくれていると言う。
「ちょっとだけ頭を整理する時間をください」
「ま、別にいいけど」
そんな事実が、あっさり受け入れられる筈もない。
ちょっと憧れていたクラスのマドンナは、かつての親友だった。
懐かしい、嬉しい、しかし俺にはニカが居て。
様々な感情が沸きあがってきて、収まりがつきそうにない。冷静になるには、少し時間が必要だ。
と言うわけで俺はシノに頭を下げ、一日返事を待って貰うことにしたのだった。
「因みにテル君。私ってとっても、人気があるの」
「よく存じております」
「……君と別れてからスッゴく努力して、可愛く見えるように自分を磨いた」
「ああ。シノだと、気が付かないくらい綺麗になった」
そんな俺の返事を聞いたシノは大層、不服そうに頬を膨らませた。
「これでもまだ、付き合うって即答してくれない訳?」
「ぐ、違うんだシノ。その、知っての通り俺はニカがだな」
「ニカちゃんにはバッチリ振られたじゃない」
「……」
そうだった。
俺は先程、ニカに絶縁食らった様なものだった。
「ぬわーん……」
「あ、余計な事思い出させたか」
「すん、すん……。ごめんよシノ、今日だけは勘弁してくれ。ちょっと気持ちに整理をつけさせてくれぇぇぇ」
「分かった、分かったってば! んー、告白したタイミングが悪かったかなこりゃ」
ニカの心底怯えた表情、親の仇でも見るような目。
あの顔が俺の心を蝕み、追い詰め胃がキリキリと痛み出す。
……うう、シノには悪いが流石に冷静になれない。
「じゃテル君、明日もう一度ここに来て。……そこで話をしよう」
「お、おう」
「後、さっきのハンカチでちゃんと顔拭きなよ。すごい顔になってるから」
涼加瀬シノはそう言うと、少し眉を曲げ唇を尖らせた。
「まったく。人が告白したってのに、別の女で泣くなんて失礼な人」
「あう」
そしてちょっと機嫌悪そうに、涼加瀬シノは屋上を立ち去ったのであった。
その日、俺は昼の授業をサボった。
「シノちゃん、か」
俺は誰もいない屋上で一人、青空を眺めて寝そべっていた。
そしてゆっくりと、幼稚園の頃の記憶をたどっていった。
『やめて、やめてよ……』
丸メガネにお下げと言う、いかにも地味な外見のその娘はシノと言った。
そんな彼女と遊ぶようになったきっかけは、シノが色々な男子に突き飛ばされイジメられているのを見た時だ。
『てめぇら、何してる!』
『げ、出たなクソテルやろう!』
当時の子供向けのアニメで見た、虐められっ子を庇う主人公の真似をして。俺は、シノを周囲の悪ガキから庇ってやった。
完全な自己陶酔だった。しかし、それがきっかけでシノに凄く懐かれた。
ただその一件で、俺は大勢のクラスメイトを敵に回してしまい、遊び相手はシノしかいなくなってしまった。
だけど俺は、そんなシノと遊ぶのはそんなに苦痛じゃなかった。
『こうするとね、段ボールで輪ゴムを撃てるの』
『おお、すっげえ!!』
彼女は地味で気弱だったけど、物知りで工作が得意だった。俺はシノに教えられ、色々なダンボール細工を作って喜んだのを覚えている。
あの時、俺とシノは間違いなく無二の親友だった。
親の都合で転勤さえしなければ。きっと俺と涼加瀬シノは、今の俺とニカの様な関係だったに違いない。
気の置けない幼馴染で、一生の友人で、一番身近な異性で。そしたらきっと、俺は涼加瀬シノに恋をしていたのかもしれない。
「あー」
でも、俺が惚れた女性はニカだ。
いつしか俺は天真爛漫な彼女に惹かれ、意識してしまっていた。
明るく、純粋で、少しバカで強情だけど憎めない女。
「……ニカ」
しかし、もう。ニカとの関係は、完全に切れてしまった。
俺は彼女に嫌われきった。
「シノの事は、嫌いじゃない。むしろ涼加瀬さんとしか認識していなかった時点でも、ニカの次にずっと気になってた」
シノはとても、可愛く魅力的になっていた。
俺が彼女だと気づかぬうちから、ちょっと気になるくらいには。
「……」
幸せだ。あんな美少女になったシノに好意を向けられて、嬉しくない筈がない。
でも、それで良いのだろうか。
ニカにフラれました、絶縁されました。だから、シノに乗り換えました。
────そんなクソみたいな動きをする前に、俺にはやるべきことがあるんじゃないか。
「そうだな。何にせよ、ニカの事を最後までやり切ってからじゃないとな」
涼加瀬さんが待ってくれるという期限は明日。
その間に、俺はやるべき事をやり切って気持ちを整理しよう。
ニカの為にも、シノの為にも。
……と、言うわけで。
放課後、俺は怖い先輩方の跋扈する3年教室へと足を運んだ。
「何だお前。2年か?」
「うっす。槍岡先輩に用があってきたっす」
「あ、槍チンの後輩? 男の後輩とは珍しいが、呼んできてやるよ」
俺は教室の入り口付近にいた先輩に挨拶し、俺は槍岡を呼び出して貰った。
無論、ニカの件を断るためだ。たとえ嫌われてしまったとしても、俺がニカを守るのに理由は要らない。
「やあ僕が槍岡だよ」
教室からまもなく、噂通りのジャニ顔イケメンが姿を現した。
俺は槍岡と面識はなかったが、この目立つ色香は見覚えがある気がする。
……確か体育祭で、応援団長やってた人だ。
「……ふむ、見ない顔だね。君は誰だい?」
「うっす。テルと呼んでください」
程よく日焼けした筋肉質な肉体に、キラリと光る真っ白な歯。
男ですらクラリと来るほどの、まさに色男。
「僕に何の用?」
「先輩と、二人きりで。じっくりお話がしたくて」
「……ふぅん」
俺の発言で何故か教室がざわめきだしたが、無視した。
そんなに、後輩が槍岡先輩と話をするのが珍しいんだろうか。
「良いよ? じゃあ行こうか」
「あざます」
そして俺は、無事に槍岡先輩を人気のない廊下へ連れ出すことが出来たのだった。
「で。僕に用事って、どっちの件?」
「どっち、ですか」
「男が僕に話しに来るなんて、大体2つの要件しかないよ。つまり女を取られた恨み節か、はたまた禁断の恋か」
ファサ、と槍岡先輩は自らの髪をかき上げて笑った。
それは成程、男が見惚れるほどに絵になる姿だった。
「2つ目の要件ならゴメンね。僕、男の子には興味ないんだ」
「うっす、俺もです」
「じゃ、女の子がらみか」
俺は、そんな余裕そうに笑う槍岡先輩と相対して思った。
これは、凄まじいイケメンだ。こんなのに口説かれたら、どんな女でもコロっと言ってしまうだろう。
これが学校中に畏怖を轟かせるヤリ男……。
「君の恨み節を聞く前に、先に言っておくことがあるよ」
「……どうぞ」
「僕は、彼氏のいる娘を誘ったことはないし、相手の同意を得ずに行為に及んだことはないよ。みんな、僕と一つになるのを受け入れてくれた上でベッドに誘っている」
「そうなんですか?」
「ああ。もし、僕が食べた中に君の彼女が居たというなら……、それはその娘の問題だ。彼氏の存在を隠して、僕と合体したわけだからね」
アレの事を合体とかいうな。
「いえ、まだ何もされてないっす。……今日、朝星ニカって女子と約束があると聞きまして」
「あー、あの娘か。うん、部屋に誘ったら来てくれるって」
「その約束、キャンセルでお願いします」
俺のその言葉を聞くと、先輩は少し怖い顔になって笑った。
「それは、ニカちゃんからの伝言?」
「……」
「それとも、君の勝手な行動?」
槍岡は、見透かした様な表情で俺を見下ろしていた。
先ほどまでのニコやかな雰囲気はそのままに、何とも言えぬ重圧を放ち始める。
ヤバい、怖い。この先輩、ちょっと不良系も入ってるんだろうか。
「ニカは、自分がそんなことされるとは思っていない。アイツ馬鹿だから、先輩に押されたら多分何でもされてしまう」
「へえ、それは良い事を聞いた」
「でも、アイツだけは勘弁してください。……これは俺のエゴです、土下座でも何でもしますんで」
俺はその場でいつでも土下座できるよう、姿勢を整えた。
残念ながら俺は、決して腕っぷしが強い訳ではない。普通に喧嘩しても、勝ち目は薄いだろう。
そんな俺のあり様を見て、先輩は面白そうに唇を歪めた。
「エゴ、ね。君とニカちゃんの関係って?」
「……ただの幼馴染です」
「あー、はいはい。全部把握したよ、つまり君の片思いだ。違うかい?」
それは、値踏みをするような目。
槍岡に瞳の奥までのぞき込まれ、俺は蛇に睨まれたカエルの様に汗を垂らし、唾を飲んだ。
「……ええ、俺の片思いです」
「うん、君分かりやすいね」
こんな暴走をしたんだ、片思いはバレて当然。そこを隠す必要はないだろう。
……そんな俺の返答を聞いて、槍岡は目を細めてニンマリ笑った。
「じゃ、君のお願いにお答えしよう。ダーメ」
「……っ! 何で!」
「フリーの女の子を口説いて食べて何が悪いのさ。僕が君に遠慮する必要なんて、どこにある」
槍岡の顔が、情欲に歪んだ。
……何となく、直感する。この男は、今ニカを性的に貪ることを考えて愉悦に浸っている。
「片思いしてる女の子が誰かの手に落ちる、確かに辛いね後輩君」
「だ、だったら!」
「だから、後で感想くらいは聞かせてあげるよ。……君の幼馴染はどんな味だったか、とかね」
その言葉を聞いた瞬間、俺は沸騰しそうなほど激高した。
拳を握り締めた勢いで、血が滲んだ。
「……っ!!」
「そう睨まないでくれ。僕、何かおかしなことを言ってるかい?」
槍岡は、ねっとりとした笑顔で俺を挑発し続ける。
確かに彼の言う通り、俺には『ニカに手を出すな』と言える権利も義理もない。
「あー言う娘は、快楽を覚えたら凄いことになるよ。僕の経験則的に♪」
だから目の前の男は、ニカに手を出す気だ。それは、誰にも文句を言う筋合いなんて無い。
でも、それでも。俺は、彼女を守りたくて。
あの花の咲いたような笑顔を、これ以上曇らせたくなくて。
「……」
静かに、血の滲んだ拳を握りなおす。
殺るか。負けて上等、先輩の顔面をグチャグチャに叩き潰して二度とナンパできないようにしてやろう。
こうなれば停学も覚悟、この先輩を立ち直れないくらいにボコボコに────
その握り込んだ掌は、突然に槍岡に掴まれた。
「甘ったれるんじゃないよテル君。彼女が好きなら僕に警告に来る前に、まず想いを告げてからだ」
「────っ!」
ドキリ、と胸が早鐘を撃つ。
槍岡はそう言った後、微笑んでから手を離し、俺の頭を優しく撫でた。
「ニカちゃんが君の彼女だから、手を出すなというなら道理も通る。そうなれば、僕だっておとなしく退くさ」
「うっ」
「君、ニカちゃんに告白すらして無いだろ。見ればわかるよ」
その時槍岡は、何処か遠い目をしていた。俺を見ているはずなのに、その視線の先に俺は居なくて。
そして何故かとても優しい目で、俺の頭を撫で続けた。
「自分の気持ちを告げる。そんな簡単なことすら出来ず、最愛の人を奪われた馬鹿が居たんだ」
「へ……?」
「自分がモテると己惚れて、やがてその子も僕に惚れる筈だとタカをくくった。その結果、何もかもを失った」
槍岡は何かを懐かしむような、悲しい顔をしていた。
きっと、彼が話しているその話は、槍岡の過去なのだろう。
「僕も、最愛の人を奪われる切なさはよくわかってるつもり。だから、手を出す女性には彼氏がいるか絶対確認するしね」
「う、そうなんすね」
「でも。僕は、彼氏がいない女子には容赦はしない」
やがて槍岡はゆるりと背を向け、不敵にほほ笑んだ。
「ただ、今日は用事を思い出した。ニカちゃんとの逢瀬は、また明日にでも約束しなおそう」
「あ、う」
「それまでに。君が────僕に文句を言える立場になっていることを祈っているよ」
その言葉を最後に、槍岡先輩は口笛を吹いて後ろ手で手を振ってくれた。
そんな格好の良い男の背を、俺は黙って見送る事しか出来なかった。
男としての度量の違いを見せつけられた気がして、ほんのりとした敗北感に苛まれた。
それと、同時刻。
「……はぁ!? あの男、何を考えているんだ!?」
「こ、声が大きいよニカちゃん」
教室では、女子が二人静かに会話していた。
「あの男。ボクがあれだけ焦げて焦がれて思いを馳せた涼加瀬さんに……告白、されておいて、うぐぐ! 返事を先延ばし? ボクに喧嘩でも売ってるのかあのゴミ男……っ!!」
「ニカちゃん、どうどう」
否、少し騒がしく話をしていたかもしれない。
……数分前。
「ご、ごめん涼加瀬さん。聞くつもりはなかったんだけど」
朝星ニカは、教室に戻った涼加瀬シノを呼び止めた。
そして、うっかり屋上で涼加瀬の告白を盗み聞きしてしまった事を告げ謝った。
「……あらら、聞かれちゃってたか」
「それで、その。っど、どうなった?」
実のところ朝星ニカは、その告白を見て割とショックを受けていた。
自分が好いた相手が、他の人間に告白する場面と言うのはやはり胸に来る。
なのでニカには、その告白を『聞いてないふり』をするという選択肢もあったかもしれない。
嫌な事は忘れて前に進もうという作戦だ。
「す、涼加瀬さんはあのバカと付き合うのかい?」
「それがね」
しかし、やはり気になった。
喧嘩中とは言え、無二の幼馴染みと想い人の恋。
その結末を知りたいと思うのは、人情というものだろう。
「明日に引き延ばし?」
「ええ」
そして、ニカは涼加瀬の告白がはぐらかされたことを聞き、激怒した。
「あのバカを蹴っ飛ばしてくる! 今日中にテルに返事させるから、待ってて涼加瀬さん」
「ちょ、ちょっと。別に私は気にしてないから」
怒髪天を衝くとはこの事だ。テルの分際で、何を調子に乗っている。
この目の前の完璧女神、涼加瀬シノの告白を保留するとは何事か。
喜びむせび、土下座してその幸運を神に感謝するのが筋だろう。
それが、朝星ニカの感想だった。
「ちょっと彼にも思うところがあるみたいで。私、1日待つくらい別に良いよ」
「……その思う所ってやつに、心当たりが有るのさ。大丈夫、ボクに任せて」
「……えー」
朝星ニカは自信満々に、涼加瀬を前にしてそう言い切った。少し、彼女に格好の良いところを見せたいのかもしれない。
しかし、その涼加瀬の言う「思う所」とはすなわち「テルがニカに惚れていた」その一点である。
心当たりがあるなら、ちゃんと想いに応えてやれよ。涼加瀬シノは、そう思った。
「大丈夫。あの馬鹿は絶対に涼加瀬さんを好きな筈だよ」
「……そうかな?」
「即答しないのは、ただ遠慮してるだけ。このボクが保証する、絶対さ」
しかしやはり、朝星ニカはその心当たりを全く理解していない様子であった。
本当に彼が遠慮して返事を保留しているだけであればどれほど嬉しいか、とシノはため息を吐いた。
「……」
「何でボクをそんな目で見るんだい、涼加瀬さん」
────涼加瀬シノは、不安なのだ。
自分はまだ、魅力を磨き足りないのかもしれない。もしかしたら、彼の『好み』の女性にはなれていないかもしれない。
もし明日。冷静になったテルに『やはり俺はニカが好きだ』なんて言われてしまった日には立ち直れないだろう。
だからこそ、目の前のノー天気な朝星ニカが憎々しくすらあった。
「ニカちゃん、幼馴染みだもんね。テル君の好きな人、分かるんだ」
「ああ。と言うか、幼馴染みなんて関係ない」
シノにしては少し皮肉を効かせた台詞を吐いてしまったが、ニカは気付いた様子もなく満面の笑みで返答した。
朝星ニカからしたら、愛しの涼加瀬さんの『恋のキューピッド』が出来そうなのでご満悦なのだ。
「実はボクの価値観は、テルから貰ったものなんだ。だからボクが涼加瀬さんを好きな以上、テルだって好きに決まっている」
「……ん?」
返ってきたのは、意味不明な返答だった。
涼加瀬シノは一瞬、その言葉の意味を考え……。分からなかったので、聞きなおした。
「……それって、どういう意味?」
「ああ。大した話じゃないんだがね」
価値観を貰った。
その言葉は、何かの比喩でも何でもなく。
「あれはまだ、幼稚園の頃だったかなぁ」
全く言葉通りの意味だと、その話を聞いたシノは理解した。
「言ってみればボクは、テルの模倣品なんだよ」
そして、シノは知った。
テルとニカ、無二の親友で幼馴染。
────その二人の、あまりに歪な関係を。
『あっはっは、おかしいおかしい』
幼い頃。朝星ニカは、笑顔の絶えない女の子だった。
『見てよ、だんごむしが丸まった。ああおかしい』
『ニカちゃんは、今日も楽しそうね』
それは、多くの人を釣られて笑顔にするような、可愛い笑顔だった。
朝星ニカは、幼少期とても人気者だった。
『おかしい、おかしい』
そんな彼女の異常性が明るみになったのは、小学校に上がる直前だったか。
不幸にも交通事故で、とあるクラスの子が親を失い親戚に引き取られることになった。
『あの子、ご両親を亡くしたんだって』
『可哀想に』
クラスの皆が、その子に同情的だった。
出来るだけ優しく接してやり、少しでも慰めになるように思いやった。
しかし、
『あの子まだ落ち込んでいる。おかしい、あはは』
朝星ニカだけは、笑い続けたのだ。
その女は異常だった。
人の悲しみを理解することができない。
何処までも自分本位で、面白いと思えば笑い飛ばす。
『ニカちゃん、何で笑ってるの!!』
『おもしろいからさ?』
……そう。
彼女は生まれつき、大事な感情を持たずに生まれてきた。
『けらけら、けらけら』
『……ひっ』
他者の心を理解できない、冷酷無比な怪物。人はそれをサイコパスと呼ぶ。
まだ幼いうちから、そんな異常性が明るみになった朝星ニカは、
『あれ? どうして誰もボクと遊んでくれないの?』
あっという間に、園内で孤立した。
『何で泣かないといけないの? 笑っていた方が楽しいに決まってる』
一方で、朝星ニカには理解することが出来なかった。
何が他人の逆鱗で、どんな行動をすれば怒られるのか。
『何でボクは、石を投げられるの?』
人気者から一転、皆がニカを怖がり始めた。
人の死を笑い飛ばせる異常者、そんな恐怖からニカは迫害された。
その迫害は、幼稚園のクラスだけに留まらなかった。
『……あの子の心がわからない』
『ママ……?』
そう。
どこまでも呑気な彼女の思考は、彼女の両親の理解すら越えてしまっていた。
彼女の親ですら、愛するべき娘に嫌悪感を感じ始めてしまったのだ。
そして朝星ニカは、誰からも愛されなくなった。
『つまりボクが、おかしいんだろうな』
やがてうっすらと、本人も理解し始めた。
『人間として大切な何かが、無いんだろうな』
自分が、人に忌み嫌われる存在である事を。
『……辛い』
かつて仲良くしてくれた人たちが、離れていき。
自分を可愛がってくれた親ですら、距離を感じるようになり。
『ボク、そんなに悪いこと言ったのかな……』
そして、とうとう朝星ニカは泣き出した。
だって、彼女にはわからないのだ。何がいけないのかを理解できなかったのだ。
笑顔を絶やさず、いつまでも楽しそうにしていたその少女は、誰にも理解されず世界で孤立した。
『あったり前だ。お前、気持ち悪いもん』
『そう、なのかな』
『お前なんか理解されっこない』
死んだ方が良いかもしれない。朝星ニカが幼心にそう思った時。
『ようし、ソコに座れ。この俺が性根を叩き直してやる』
それでもなお、話しかけてくる男子が一人居た。
『まずは、お前が理解しろ。親の死を笑われた子の悲しみを、怒りを!』
『あ、う』
『何故アイツが怒ったか分かんないんだろ? だったら聞けよ、全部俺が答えてやる』
その男子は、怒ってるのか慰めに来てるのか分からない態度で朝星ニカにこう言った。
『人の心が分かんないなら、知ればいいんだ』
そういって、男子はニカを優しく抱きしめた。
────それは、朝星ニカにとっての最初の『人間観察』だった。
半日以上をかけて、その男の子の『価値観、経験、人生観』の全てを……聞き出し、学び、理解した。
『そっか、成程』
そして、ニカはその男子に倣ったとおりに行動をし始めた。
彼女は倫理観が歪んで生まれてきただけで、その頭脳は決して悪くない。
いやむしろ、世の中のサイコパスと呼ばれる人種は常軌を逸して優秀な人間が多いくらいである。
『彼の倫理観を軸に行動すれば、ボクは社会に溶け込める』
彼女は、自分の行動指針をテルの価値観にゆだねた。その優秀な頭脳で、ニカは『テルならどう行動するか』を計算し始めた。
そして朝星ニカという人間は、テルの感覚に左右される様に『補正』された。
『……ニカちゃん、変わったね』
『そうかな?』
……そのお陰で、彼女は普通の価値観を手に入れて疎まれずに済むようになった。
そしてこれが、テルとニカの長く続く『親友関係』の始まりであった。
だから、朝星ニカは断言するのだ。
人の心なんて分からなかった彼女に、まっとうな価値観を植え付けたのは他ならぬテルなのだから。
「テルの好きなのは、大人びた頭の良い女性。そう、理想はまさしく涼加瀬さん」
「……」
「だからボクも、涼加瀬さんに一目惚れしたんだ」
テルが好きなものは、きっと朝星ニカも気に入るだろう。
ニカが好きな女性は、テルだって気に入るはず。
だって、テルとニカは同じ目線でモノを見ていたのだから。
「ボクの、テルにもらった価値観がそう言っている。テルは絶対に涼加瀬さんが好きだ」
「……」
「賭けてもいいよ」
……それが、朝星ニカの真実だった。
それは、幼馴染で親友のテルですら気付いていない事実。
彼もまさか、まだ朝星ニカが『幼稚園の頃の彼の価値観』を軸に行動しているだなんて想像だにしていない。
「どーせテルの奴、ボクの好きな相手だからとかで遠慮してるんでしょ。そんなの気にするなって、蹴っ飛ばしてきてあげる」
だから、彼女の言動は幼いのだ。
だから、彼女は女性が好きなのだ。
だから、彼女は『幼稚園の頃のテルの理想』になった涼加瀬に惚れたのだ。
「じゃあニカちゃん本人の、気持ちはどうなの……?」
「ん?」
朝星ニカの行動は、テルの価値観により左右される。
……しかし、それはあくまで朝星ニカがテルの思考をシミュレートして動いているに過ぎない。
「……ボクの本心、なんてモノはとっくに捨てたよ」
しかし、朝星ニカはそれでよかった。
普通の男の子の価値観を手に入れ、社会性を会得し、交友に困らなくなったニカは今の状況に満足していた。
「もう、独りぼっちは嫌だもん」
人の心が分からない、人が大好きな少女。
それが、朝星ニカだった。
「おや、ちょうど良い。朝星さんじゃないか」
そんな、幼馴染に発破をかけるべく廊下へと飛び出した少女は、1人のイケメンと目が合った。
それは学校内でも有名な、女好きイケメン槍岡であった。
「む、先輩か。約束の時間はまだでは?」
「あー、それが本当にゴメン。ちょっとヤボ用が入っちゃって今日無理でさ」
「えー」
槍岡は申し訳なさそうに、手を合わせて謝った。
しかし目の前の男は、エロ脇様やテルから警告もあった危険人物。
約束が流れたなら、その方が良いかもしれない。
「明日、空いてたりする? 埋め合わせしたいんだけど」
「……」
その提案を聞き、朝星ニカは迷った。
槍岡の話は、どうしても聞きたい。しかし、それだと自分の身に危険が付きまとう。
……やがて意を決して、ニカはその場で槍岡に話しかけた。
「先輩。ボクはどうしても、貴方に聞きたい事があった」
「うんうん、嬉しいよ、無論、時間を作るつもりさ」
「……では良ければ此処で、一つだけ聞かせて欲しい」
朝星ニカには、欠陥があった。
彼女の行動は、テルから受け継いだ価値観に左右される。それにより、彼女はまっとうな社会生活を送れている。
しかし、その価値観は『幼稚園児の彼』のモノ。
朝星ニカは『人間観察』を続けて様々な思想を学習しつつも、根幹の価値観が年齢の割に幼いのだ。
最近それを思い知ったので、朝星ニカは価値観のアップデートが必要だと考えた。
そう。朝星ニカが知りたかったのは、
「ボクには、男性の性欲が理解できないんだ」
「……ん?」
彼女は自分の下着に情欲を向けた親友テルの、新たな価値観を理解しなければならないと考えた。
「先輩は、この学校で一番性欲が強い人間だと聞いた」
「え、何その不名誉な噂。そうかもしれないけど……」
「だからどうか、ボクに教えて欲しい」
それをテル本人に聞くには、流石に気まずかった。
朝星ニカは親友の『性欲』に、理解を示してやれる幼馴染で居たかった。
だから彼女は悩み、そして『槍岡を人間観察する』という手段を選んだのだ。
「男性は性欲を感じると、ムクムクと下半身に熱いモノがこみあげると聞く」
「え、あ、ああ。そうだね?」
「先輩! ボクに……その感覚を教えて欲しい」
そして朝星ニカは、まだ人通りもある学校の廊下で槍岡に向かい叫んだ。
「槍岡先輩! ボクに、精神のチ●ポが勃●するとはどういうことか教えてくれ!」
「……」
それは、彼女なりに出した……親友への向き合い方であった。
「ごめん、無理」
「えー」