10話
学生相談室。
それは地方自治体の運用する、学生であれば誰でもプロのカウンセラーによるカウンセリングが受けられるシステムである。
思春期とは、理想と現実の狭間で悩む時期。そんな彼らに対する心の支えとして、そういった機関が必要なのだ。
それは人には言えぬ恥ずかしい悩みにも対応できるように、匿名の電話による相談も受け付けている。
「……はい、もしもし」
とは言え、基本的にコールセンターの如くその電話がひっきりなしに鳴り響くことはなかった。
学生相談室というシステム自体があまり知られていないのかもしれない。
あるいは、知っていたとしても実際に相談するのは敷居が高いのかもしれない。
学生相談を利用する生徒の大半は、虐めにあって苦しんでいる内気な子だ。
そんな子が知らぬ人に電話をする、と言うのはかなり勇気がいる。
少しでも敷居を下げようと色々画策しているが、上手くいっていないのが現状だ。
とは言え、年がら年中暇なのかと言えばそうでもない。
一度電話が掛かってくれば、その生徒がリピーターとなり毎日のようにかけてくるようになるからだ。
そうなってくれれば、カウンセラーの腕の見せ所。うまく児童の悩みを聞いてやり、心の支えになってやらねばならない。
児童が自分で思い切って電話をかけてくれたという勇気に対して、報いるためにも。
カウンセラーが忙しくなるのは、長期休暇明けだ。
学校に行きたくないと感じている学生は、休み明けに調子を崩しやすいのだ。
虐められている子の自殺は、休み明けにこそ多い。
そういった子の悩みを聞き、慰めてその命を救うのが、カウンセラーの仕事である。
『実は彼とあまり上手く行ってなくて……』
しかし、かかってくる相談の電話はその全てが深刻な人の生死に関わるモノという訳ではない。
中には、『恋愛相談』の様な微笑ましいものもある。
当人にとっては真剣で苦しんでいる悩みなのだが、大人からすれば青臭さすら感じる可愛い悩みだ。
だが、馬鹿にしてはいけない。恋愛の拗れ一つが、凄惨な事件に繋がった例だってある。
しっかりと本人の話を聞いてやり、理解し、そして可能な範囲で妥当と思われる助言をしてやる。
それこそが、プロの仕事である。
「もしもし、その。実は、対人関係で悩んでまして」
「そうですか。よろしければ差し支えない範囲で、状況を教えて貰えますか」
今日もまた、悩める子羊から電話がかかってきた。
声の感じからは、まだ幼さの残る女生徒の様だと感じる。
「実はずっと一緒にいた幼馴染に、恋人が出来たんですけど。その後に、どうやら彼が好きだと自覚してしまって」
「ああ、それは大変ですね」
その相談内容は、何とも可愛らしい話だった。
人に取られてから初めて恋心を自覚する。実に良くある話で、そして悲しい話だ。
思春期は異性を激しく意識し、想いが暴走しやすくなる時期。
きっと相談者の女生徒も、その甘酸っぱい感情を処理しきれずに相談室に電話してきたのだろう。
「彼はいつも喧嘩ばかりしていた相手で、まさか自分が彼を好きだなんて全く気付かなくて」
「うんうん」
「その幼馴染に恋人が出来た後、もう距離を置こうって言われたんです。それがどうしようもなく辛くて」
話を聞いていると、まさにありふれた失恋である。
相談者本人には口が裂けても言えないが、彼女は随分と良い経験をした様だ。
学生のうちにそう言った経験を積んでいった方が、大人になって色々と役に立つ。
「残念だったね。でも、男性なんてこの世界には星の数ほどいる。きっと君に、もっとふさわしい男性が……」
「その彼に最近お尻の初めてを奪われてしまって」
「ん? もう一回言って?」
「後ろの初めてをふざけ半分で、無理やりに奪われてしまってボクどうしたら良いか」
「思ったより最低な男に引っかかってるね君!?」
彼女は、どうやら想像していたより遥かに悪い男に捕まっていたらしい。
何がどうしたら、距離を置こうと言った相手の尻の初めてを奪うのか。
まさか後ろの方なら浮気じゃないとでも思ってるのだろうか。
「そんな男に騙されちゃだめだよ……。むしろ振られて良かったね。どちらかと言えば私は、その彼の恋人が心配だよ」
「ああ、彼の恋人のその女の子もとても良い娘で。学年でも一番人気のある、すごく綺麗な人で」
「ああ、やはりね。そう言う男は、得てして女の子をたぶらかすのが上手いのさ」
「彼女は本当に美しい女の子で。何としてもボクのモノにしたかった……」
「ん?」
相談先の女生徒は、突然に恍惚とした声を出した後に悔しがった。
……あれ、彼女が好きだったのは幼馴染の男の子だったよな。
話を聞き間違えていただろうか。
「ああ、やはりテルなんかには勿体ない。二人が別れて、そのどちらかと付き合うことが出来ればボクは……。ボクは……」
「え、どちらかで良いの? 男の子の方じゃなくて?」
「それもこれもテルのせいだ。あの男が分不相応にもあの人をコマさず、ボクで妥協しておけば……!! 思い返しても腹が立つ!」
「えっと、そのー」
電話口の相手はフツフツと湧き上がるように愚痴をこぼし、激怒していた。
話が少し良く見えないが、どうやら彼女は両刀らしい。
「すみません、どうしても話を聞いてもらいたくて」
「あ、あはは。少しでも貴方の助けになったのなら、何よりだよ」
一通り愚痴をこぼした後、彼女はお礼を言って電話を切った。
あまり質の悪い相手に入れ込まない方が良いよと、助言をしておいた。
最近の学生は、性の乱れがはなはだしい。子供のうちからアブノーマルなプレイに走ってしまえば、ロクな大人にならない。
女の子の方も、変な性癖に目覚めなければ良いが。
1時間程はその後電話が無く、少し休憩をしていたら再びコール音が部屋に響いた。
「ちょっと話を聞いてもらえないかしら」
「ええ、喜んで」
先ほどの娘とは違う、女生徒の様だ。
少し気が強そうで、かつ薄幸そうな気配を感じる声だった。
「実は、端的に言うと……凄く憎たらしい女子が居まして」
「……ほう?」
「嫉妬だとは分かってるんです。でも、私より何もかも恵まれているのが見ていて恨めしくて」
「ははあ」
次の相談は、どうやら人間関係の悩みらしい。
思春期は理性と感情の揺らめきが大きい。
ちょっとした恨みの感情が、取り返しのつかない事件を引き起こす事もある。
これは慎重に対応してやらないといけない。
「隣の芝は青いと言いますが。具体的に、貴方はその女子と比べて何が恵まれていないと感じていますか」
「成績も、運動も、学年での男子人気も。全てが微妙に負けているんです……っ!!」
「ははあ」
「殆ど互角なのに。比べ合うと私が、常に一歩及ばない……。それが悔しくて」
女子同士の嫉妬。それは非常に根の深い問題だ。
自分の身近にいる、自分より優れている存在。それは、耐えがたいストレスの原因にもなりうる。
嫉妬は何も生まない。しかし、嫉妬するなと言うのは人間である以上不可能。
この相談はいかに彼女が、自分の暗い感情に向き合えるかどうかにかかっているのだ。
「そして、決定的だったのが。この間、ほんの少し良いなって思った男の子が居たんです」
「ほう、男の子ですか」
「見た目はそれほどでもないけど、何だか温かい人で。この人だったら付き合っても良いかな、みたいな……」
相談相手は、ここで徐に男子生徒の話を出した。
となれば、話の筋は容易に想像がつく。
「その男の子も、既にその女に奪われてて……っ!」
「あー」
成程、それは嫉妬するのもやむなし。
微妙に何もかも負けている相手に男まで奪われれば、相談者も心中穏やかでいられないだろう。
「いっそのこと、略奪愛も考えているんです。そうすれば、その女子に勝ったことになるかなと」
「それは、貴女自身の対人関係にも響きそうですが」
「ええ、それが褒められたやり方じゃないのも理解してます。でも、どうにも感情が抑えきれなくて」
男性関係の混じった、複雑な嫉妬心。
彼女の気持ちになってみれば理解はできるが、決して賛同する事の出来ない行為。
これが妙な事件に発展しないよう、よくよく話を聞いて受け止めてあげないと。
「学年で一番人気で、成績も良くて、理想の彼氏まで居て。なんであの女ばっかり」
「それはさぞ辛かったですね。貴女も頑張っていたでしょうに」
「押せば行けそうなんです。その男子、この前迫ってみたらそのままベッドインできそうな雰囲気放ってましたし」
「既に行動起こしてたんですか」
どうやら相談者は、既に寝取りの策略を立てていた様だ。
まだ学生だというのに、肉体関係になるのは好ましくない。
うっかり子供が出来てしまえば、社会的にも非常に厳しいことになる。
「その時はまだ、彼に恋人がいるとか知らなくて。私も自暴自棄になりかけてて、そのまま一晩……みたいな」
「あー」
「彼は断られたけど優しく頭を撫でてくれて、ちゃんと押してたら最後まで行けたと今でも後悔して」
「そ、それは二股では」
その女子はかなり積極的に、その男子を奪う算段を立てている様子だ。
女子にそこまでさせる、その男が憎たらしくなってきた。
「二股はいけません。どんな結末になろうと、ロクな結果にはなりません」
「でも、もう私が勝つにはそれしか……」
「落ち着いてください。他にいくらでも方法はある筈です」
「……だって」
温かく包み込む様に、それでいてしっかりと助言をしてやる。
今この娘は感情的になっているのかもしれないが、それが取り返しのつかない事になる前に冷静になって貰わないと。
「衝動的にそんな行動を取ってしまえば、きっと貴女は人間関係で信用を損なう事になるでしょう。男子なんて他にもたくさんいますし」
「でも、私はテルが……その人が良くて。寝ても覚めても、その人の顔が頭から消えず」
……ん。
何か、さっき聞いた名前が出てきた。
「その男子は、どんな人なんですか」
「噂を聞く限り、最近ずっと一緒にいた幼馴染の娘を振って、学年1番人気の女子に乗り換えたとか。それが本当なら、きっと私でも……」
「……」
どこかで聞いた事のある話だ。
というか、ひとつ前の電話相談の娘の話だ。
「ん、ん、おっほん。」
「どうしました?」
「あ、いや。やはり二股は良くないですし、そんなにポンポン女の子を乗り換える男は良くないです。新しい恋を探すことをお勧めしますよ」
「そうですか……。でも、私」
この娘も、またテルとやらに騙されているらしい。
聞いている限り、相談者は純情一途で愛の深そうな女子だ。
こんなカモを騙すことなど、悪い男からしたら赤子の手をひねるより簡単に違いない。
「分かりました。もう一度、自分の感情に向き合ってみる事にします」
「それがよろしいです」
十分ほど彼女の愚痴に付き合った後、その電話は終わった。
全く酷い男子が居たものである。
若いうちから女をとっかえひっかえ、きっとろくな大人にならないに違いない。
自分にも娘がいる。親の欲目もあるかもしれないが、可愛らしく気立ての良い美人だ。
もし娘が、そのような男に騙されていたらどうしようか。
考えるだけでも、心が痛む。
蝶よ花よと育てたあの愛くるしい娘を、冗談半分で傷物にされてしまえば自分はどうしてしまうか分からない。
本音を言えば彼氏なんか作って欲しくないが、しかし最近娘は笑顔が絶えなくなった。
妻に聞けば、どうやら彼氏が出来たという話らしい。
今の所、娘の交際は順風満帆に行っているらしいけど。男親としては、心中穏やかとはいられない。
今日の相談者のような、辛い思いをしないでくれると良いのだが。
この日は、早番の日だった。
早番と言っても、電話の居残りや報告書などで大体残業する事になるのだが、今日は本当に早く仕事が終わった。
珍しく早く帰ることが出来たので、娘の好物である甘いものを手土産に帰路についた。
一度、娘にその彼氏とやらの話を詳しく聞いて見ても良いかもしれない。
何やら同じ幼稚園の出身という、古い馴染の男だそうだ。
娘は思い込むと、少し視野が狭くなる悪癖がある。その男が本当に誠実で、きちんとした男性なのか見定めたい。
高校生カップルがいちいち父親に挨拶には来ないだろうが、機会があれば話をしてみたいものだ。
「あら、お父さん。今日は随分と早いね」
「ただいま、シノ」
自宅に帰ると、娘が出迎えてきてくれた。
何故か、いつも以上に機嫌がよさそうな笑顔を浮かべていた。
「どうした、お前こそ今日は随分嬉しそうじゃないか」
「うん、実は今来客中で。ごめんだけど、私の部屋には入ってこないで欲しいかな」
「む、客?」
「……恋人、なんだけど。流石にいきなりお父さんに会うのは怖いでしょ」
────それは、どうやら娘の彼氏が家に来ているからだった。
何とも、タイミングが良いのか悪いのか。
「ほほう。私としては一言くらい、挨拶をしておきたいのだが」
「うーん。まぁ確かに、早めにお父さんに顔見せしとくのもアリね」
「別に取って食おうという訳じゃない。数秒、歓談するだけに留まるよ」
「そっか。じゃあ、ちょっと待ってて。私、彼を居間に呼んでくるね」
しかし、これはチャンスである。
この機会を逃せば、次はいつ娘の彼氏に対面できるか分からない。
なるべく優しい笑顔を作りながら、娘に言われた通り居間に座って待つことにした。
彼氏君には意識して、出来るだけ優しく対応してやろう。
娘に恥を掻かせるわけにはいかない。
内心の複雑な親心を隠し、なるべく優しい父親を演じてやるのだ。
「お父さーん、連れてきたよー」
「ああ、入ってきなさい」
自分で淹れた渋いブラックコーヒーを飲み干して、ゆっくりと娘の方へ顔を上げた。
娘の隣には見覚えのない、何とも平凡そうな顔の男子が緊張した面持ちで立っていた。
見てくれは、普通の男の子という感じだ。彼は軽く自分に会釈したあと、そのまま直立の姿勢となった。
「じゃあお父さん、紹介するね。今の私の彼氏のテル君!」
「ど、どうも。お初にお目に、かかります」
……。
テル君と来たか。
「ふむテル君、つかぬことを聞くが」
「はい、何でしょう」
「君、最近幼馴染の娘と別れたりした?」
いや、流石に偶然だろう。
この世にテルと名前のつく人間が何人居ると思ってるんだ。
確かにシノは芸能人顔負けの美貌で、学年一人気があったとしても不思議ではないが……。
「へ? ニカの事ですか? シノ、どんな話をしたんだ?」
「え、私は何にも。お父さん、何でそのこと知ってるの?」
……。
「貴様如きに娘をやるっかあぁ!!!!」
「ぐえー!!」
「おとーさーん!!?」
その日、私は父親権限で娘の彼氏を出入り禁止にした。




