倫理観という高級な鎧を買えなかった貧しい人達は「おためごかし」と書かれた段ボールを身に纏い正論の槍で貫かれる
2021年現在、東京オリンピックに関する嫌な話題は後を絶たない。
始まりはロゴマークの盗用だったと記憶している。そこからやれ朝顔と風呂の残り湯で猛暑対策だの、国立競技場のデザインが何だのと逐一調べて数えるのも億劫なほど問題が噴出し続けた。
新型コロナウィルスが流行り始めてからもひどいもので、最近だと開催一週間前のタイミングでIOC会長が無観客から有観客に切り替えるよう国に求めるなどしている。
ただ、個人的にはもはやどうでもいいと感じていた。
考えてみれば「次の五輪開催地域は東京です」と告げられたスーツ姿の間抜けどもが我が子でも生まれたのかというくらいに大喜びしている映像を山手線か何かのモニター越しに認識した時点で、あらゆる希望を捨てるべきだったのかもしれない。私もそこまで賢くないため当時はまだ辞退できるタイミングなのではないかなどと愚かにも考えていたものだ。
ともあれ元より分の悪い勝負に出たところで疫病が蔓延し始めたのもあり、東京オリンピックなる大規模な運動会に成功する可能性はほぼ残されていないと見ている。
だから私は海の向こうからわざわざやってきた白髪の爺さんが日本人を中国人と言い間違えた件についても比較的大らかな気持ちで見ていられた。
ハダカデバネズミ相手に因数分解への理解を求める愚者がいるだろうか。生き物である以上できるできないがあるのだ。そこは受け入れてあげるべきだろう、と。
ただ現在問題視されている某アーティストの一件に関しては、できるできないの問題でなく「なんでそんな真似をした」と溜息をつくばかりである。
端的に言えば学生時代に障害者を激しくいじめ倒し、その内容を後々になって雑誌で面白半分に紹介した、というのが彼のやらかした所業だ。
いや、過去の所業そのものをあげつらって責めようというわけではない。責めるべきは今の動きだ。
かつての悪行を反省するでもなく雑誌で笑い話として紹介し、いじめについて厳しい現代に至るまでにその行いを一切弁解せず、東京オリンピックで歌を披露するとなった今になってようやく謝罪文をSNSに載せるだけ。
あまりに迂闊だし謝罪に向けての動きは鈍く、内容も的外れだ。
結果として彼はネット上で叩かれる羽目になったわけだが、依頼を受けた相手が相手、しかも開催一週間前という時間的余裕のなさもあって恐らく仕事は断れまい。
ネットに書き込まれた罵詈雑言が今度は舞台に上がった彼自身の耳に直接届けられたとして、それを防ぐ手立ては彼に残されていないのだ。
かのアーティストを辞退させるべく署名を集める動きがあったり今回の件が海外のメディアにも取り上げられていたりなど、騒動はそこそこ大きくなってしまったらしい。まあ署名活動は先に述べた理由もあって高確率で無意味に終わるだろう。
ともあれ今になって言葉だけの謝罪を並べたところでもう間に合わない。最初に都から声をかけられた時点で勇気を出して辞退するのが最適解だったのかもしれないが、彼は既に受けてしまった。
これから先、あのいじめる側からいじめられる側に立ってしまった哀れな男にどんな風景が待ち受けているだろう。
聞けばまた小中学生を観客席に座らせるという暴挙がまかり通ろうとしているらしい。
新型コロナにより度重なる自粛の数々とコンクリートジャングルによる酷暑がもたらす多大なストレス、若く未熟ながらも活発な精神と肉体、スポンサー企業が購入を半ば強制した事で手元にあるのは投擲に適した形状のペットボトル。盛大に荒れる要因が随分と揃ってしまっているが果たして無事に終われるのだろうか。
さて。
この辺りでタイトルを回収するとしよう。
こうした人間を見る度に私は倫理観という頑強な鎧がどれほど高級な品であり、また至便であるかを痛感する。
彼自身がそうであるように、元来人間という社会的動物はいじめを好む。しかし普段その欲求は抑制されているのだ。
基本的に社会に生きる中で人は倫理を獲得する。これは枷であると同時に鎧として機能する。
正当な理由さえあれば人は人を容易にいじめるのだが、いじめという行為自体を正当ならざるものにするのがこれらの概念だからだ。
つまり「障害者を差別してはいけません」「他人をいじめてはいけません」という倫理観の鎧を纏っていれば件のアーティストはあのような蛮行に及ばず、仮に及んだ過去があったとして「それを笑い話としてはいけません」「反省しましょう」と意識していれば今回のような事態にはならなかった。
しかし彼は倫理観を持ち合わせていなかったのだ。何故か?
答えを述べると、倫理観なるものが非常に高級だからに他ならない。
当然だが金だけの問題ではない。精神的に貧しい者も倫理観という社会的防具を買い損ねることはある。
今パンを盗んで食わなければ明日には飢え死んでしまうスラム街の子供が金銭的に貧しいのと同様、今自分より弱い相手をいじめなければ気が済まないというような器の小さい人間は精神的に貧しい。
どちらの場合であっても彼らの主観において倫理観とは手が出せない高級品だ。だから前者は追いかけてきたパン屋の主人に棒で殴られても文句を言えないし、後者は周囲に正論で突き刺されても抵抗できない。
では今回話題に上がっているアーティストがSNS上で公表した謝罪文は何か?
あれは彼が用意できるだけの素材を寄せ集めて作った段ボールの鎧だ。表面には「おためごかし」と書かれているが内側に潜り込んでいる当の本人からその文字は見えない。
まず私はそもそもSNS上での謝罪文なるもの自体を(誰でも代筆できてしまうため)あまり信用していないが、仮に今回書かれたあの内容を信用したとしても随分と身勝手な話だと認識した。
少なくとも何が罪滅ぼしになるかを決めるのは罪人自身ではない。百歩譲って裏で既に謝罪済みであったという話ならまだわからないでもないが、彼は「連絡を取れる手段を探し、可能なら相手に直接謝罪したい」と今更になって記述していた。この動きの鈍さこそが反省の薄さの証左であると見なされても文句を言えまい。
何であれこんな下らない段ボールの束で正論の槍を防げるわけもなく、彼はこれから辛い思いをしていくのだろう。ともすればいじめられた側からすると、過去に受けた屈辱を返上するこの上ない好機である。何が起きるかなど私には想像もできない。
まあ散々あれこれ言っておいて放り投げるようなことを言うと、恐らく彼が大舞台で活躍する際に大きな問題が起きる可能性は……低くないものの高くもないだろうと見ている。
そこは当日その場にいる人々がどれほどお優しい性格をしているかにもよるのではなかろうか。それでも今後の活動に大きな支障をきたす事件だと思うが。
実のところ今回の件に限った話ではない。漫画家相手に横柄な態度を取った市役所職員やいじめによって同級生を自殺に追い込んだ少年など、精神的な貧乏人は今のネット社会において簡単に個人を特定され正論の槍を掲げた人々に襲われてしまう。
だがそれは自然現象のようなものだ。向こうが正論を振りかざしている限り、倫理観を身につけられなかった方が悪となる。
我々が誠実に生きるべきとされているのは彼らのような立場に立たないための処世術も含むため、と私は考えている。
自分自身そこまで精神的に余裕がある人物ではないけれど、その意識だけは捨てずに持っておきたい。せめて刺されて死ぬなら正論以外の何かであってほしいものだ。
2021/07/20 追記。
件のアーティストは去った。そして今度は彼と同じく精神的に貧乏な絵本作家が正論の槍を向けられている。
組織委はわざとやっているのだろうか。
時期が過ぎれば忘れ去られるような話ですし、ポイント評価やブックマーク登録はしなくても構いません。
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