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虚ろ目

作者: 植木天洋

 久しぶりに日比谷線に乗った。乗った途端に異臭が鼻をつく。温泉でよくあるような、硫黄の臭いだ。何故電車の中で硫黄の臭いがするのかわからない。それもかなり強い。

 臭いの元をなんとなく探しながら周囲を見回すと、空席があった。疲れてはいなかったが、腰を下ろす。そうして、乗客たちの観察を始めた。いつもの暇つぶしで、スマホばかり眺めているのより随分面白い。

 口元を隠して熱心に話し込む年配の女性や、じっと広告を見つめている男性、それになんだか嬉しそうにニヤニヤと笑いながらスマホを見つめている若者――電車の中には、本当に色々な人がいる。

 そのうちに、いつの間にか目の前の座席に座った女性に眼がとまった。三十代後半くらいだろうか、ぬらりと長い首をしていて、何が目を引くかというと、丸く見開かれてそれでいて虚ろな目をしている。目の下にはどす黒い隈ができていて、年の割に深い皺がある。とにかく目が目立つのだが、それでいてひどく虚ろな目をしている。

 疲れ切った雰囲気はもとより、生きているのか怪しく思えるような生気のなさだった。そんな具合で、彼女は目を見開いたまま、まるで死後硬直でもしたように微動だにしない。目を虚ろに見開いたまま、じいっと同じ方向を見つめている。その先を確認する勇気はなかった。もし彼女がこの世のものではないものを見つめていたら、それがもし自分にも見えたら、それから自分はどうすればいいのかわからない。自分は、一体どうなってしまうのか。

 引き剥がすように目をそらしても、目を瞑るごとに彼女の首はぬうと長く伸びて、目はぎょろりとして大きくなっていく。それはどんどん拡張していって、まるで魚眼レンズで眺めているように奇妙に変形して見える。

 意識しないようにと思うごとこに虚ろな目が浮かび上がって、やがってゆっくりとこちらを向くように瞳が動き始める。その動きは止まっているように見えるくらい遅かったが、こちらを見ようとするのがはっきりとわかった。瞳が僅かに動くごとに膚が粟立ち、むず痒くなった。波打って総毛が立つような感触が膚を撫でていく。

 もうすぐ、もうすぐこちらを見る。彼女と目があってしまう。あってしまったらどうなるのだろう。押し寄せる暗く悍ましい気配に囚われたように、目がそらせないでいる。

 ぎろ、ぎろ、ぎぎぎ、と瞳が動く。

 

 次は人形町ー 次は人形町ー


 独特のニュアンスの声が、我に返らせてくれた。頭にガンガンと響く車内放送に打たれるように、座席から立ち上がり、バッグを抱きしめるようにして人を押しのけ、電車から飛び出した。息をとめていたのに気づかなかった。

 電車が出発するチャイムと放送、油が酸化した臭いや風を感じながら、ぜいぜいと呼吸を繰り返した。

 ホームから出て行く電車を見送ると、窓から彼女がこちらを見ていた。僕は力を失って、バッグを落とした。ゆっくりと膝をつく。

 彼女の眼は――彼女の眼は――、

 駅員に肩を引かれるまで気づかなかった。

 猛烈な吐き気に襲われて、その場で吐いた。何度も吐いた。吐くものがなくなった頃、膨張したような眼球の裏側に彼女のぬらりと長い首と大きな虚ろな眼が張り付いていた。 

 うぐぐぐぐ、

 その画を剥がそうとするように、眼球を掻き毟った。駅員や周囲にいた男達がそれをとめようと腕や身体を押さえ付けてきたが、どこにそんな力があったのか、それを振り払って眼球を掻き毟ることをやめることができなかった。

 ああ、ああ、

 眼に指が食い込み、抉り出す。指先に視神経が引っかかり、ぶよぶよとした眼球が指先で滑る。

 何も見えない。真っ暗だ。目を開けているのに、何も見えなかった。

 あの女の虚ろな眼以外は――。

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