狂い咲く、沼、境界
「おや、お目覚めかい」
僕を起こしたのは奇妙な男だった。黒い着流しをさらりと身にまとい、白い布を頭に巻いて目を覆い隠していた。それでどうやって僕が目覚めたことを認識したのだろう。
あたりには一面にハスの花が咲き、花の下には信じられないほど巨大な葉が無数に浮かんでいた。僕はその一つに座っていたのだった。霧が立ち、視界はあまりよくない。線香の香りがしていた。
「ここは?」
「境界さ。おいで」
男は歌うように言って、ハスの葉の上をひらりひらりと歩き始めた。男が足を踏み出す度に、濁った沼の水に波紋が立つ。沼に落ちはしないだろうか、と不安になったが、僕の体が軽くなっているのか、葉が桁違いに丈夫なのか、とにかくハスの葉は僕が歩いてもびくともしなかった。
「どこへ?」
男は答えなかった。代わりに腕を伸ばして「ご覧」と言った。
そちらを見ると、霧の向こうに影が見えた。目を凝らしていると次第に影ははっきりとした形を取り、人の姿になった。
「あれは……」
霧に映っていたのは僕の家族だった。一様に黒い服を着て、沈痛な面持ちで下を向いている。彼らの前には僕の遺影があった。僕はああなるほど、と急に合点がいって、自分が嫌に落ち着いていることを奇妙に思った。けれどそれが自然なのだという気もした。
「僕は死んだんですね」
彼はしばらく黙って歩き、僕もそれに倣った。
「さあ、着いたよ」
男が振り向く。彼の前にはひときわ大きな蓮の花が咲いていた。花弁の先へ向かって白から薄い桃色へ、匂い立つような蓮の花だった。
男は改まって言った。
「輪廻転生、って言葉がある。僕はただの案内人だが、袖振り合うも他生の縁。君が、まあその時君はここを覚えていないと思うけど、またここへ来るのを楽しみにしているよ」
男に促されるまま、僕はハスの花へ入った。座ると柔らかな花弁が僕を包むように閉じていく。ほんのりとした温かさに揺られながら、目を閉じる。