月、チェス、猫かぶり
社会科準備室の扉をがらりと開けると、埃くさいにおいがした。
「先生、こんにちは」
くるりと窓際の椅子が回り、丸眼鏡の奥の瞳と目が合う。黒い射干玉のような濡れた瞳はいつものようにいたずらっぽく輝いて、私を鋭くとらえた。
「やあ、いらっしゃい」
先生は愛想よくそう言った。ここへ来ると先生はいつも私にそうしてくれるのだ。生徒と教師、というそれだけの関係ではあるけれど、先生はこの時だけは私を、ほんの少しだけ他の生徒よりそばへ置いてくれる。
先生の椅子の向かいに行儀良く座る。先生が肘を机について尋ねた。
「今日は何の質問かな」
「戦国時代末期について、です」
先生は本当は日本史の担当ではないけれど、あまりに何でも知っているものだからつい甘えてしまうのだ。くつりと含み笑いをした先生は、嫌そうな顔一つせずに、私の出した教科書のページを辿って解説してくれた。もちろん先生の語り口はわかりやすくて好きなのだけれど、私はそれより先生の指先に目が行ってしまう。長く、関節が太くて、丸い爪。女の人の手としては荒っぽいけれど、でも、先生の手だ。
「……というわけ。分かったかな」
「はい。あの、先生」
ん?と聞かれて、私は先生の隣に置かれた将棋盤のようなものに視線を向けた。実はさっきから気になっていた、不思議な盤だった。白と黒の格子の模様に、同じ二色の駒。
「それは?」
「ああ、これかい。チェスと言うんだ。西洋の遊戯盤だよ」
先生はことりと盤を私たちの間に持ってきた。見れば見るほど不思議な盤だった。色合いからして見たこともない。
「こうやって互いに駒を動かして、相手の駒を取り合う。将棋に似ているんだが、それとは違って取った敵の駒は使えないんだ。戦国時代の武士と同じだね。この人と決めた主君のためだけに尽くして散る」
この人と。
その言葉が妙に頭に残って、私を支配した。私は武士でも騎士でもないけれど、私の「この人」はとうに決まっている。それを告げたら、先生は困るだろうか。そんなことが言えるわけもない。
「やってみるかい?」
そう尋ねられて、私はよく考えもせずに頷いた。先生は一つ一つ駒を手に取って、それらの役割を教えてくれた。
「こっちがポーン、これがルーク、これはナイト。名前は覚えなくても構わないが、素敵な響きだ」
先生の低い声を鼓膜に聞きながら、私はうっとりしていた。一通り説明を終えると、先生はにこりと笑って言った。
「では、はじめようか」
負けた。負けに負けに負けて、また負けた。私は負けず嫌いだったから、自分が勝つまでもう一戦、もう一戦と挑むのだけれど、とても先生には勝てそうにない。
「先生、もう一回」
甘えるようにねだるたび、先生はしょうがないなあと微笑んだ。ああ先生、優しい先生。私は貴方が、貴方のことだけが。
「これで最後にしようか。月も出てきたし」
先生がそう言ったとき、私は悲しい気持ちになった。けれど先生の言う通りだった。空にはぽっかりと丸い月が浮かんで、社会科準備室を照らしていた。もうほとんどの生徒が帰る時間だ。
「私、次はきっと勝ちます」
負けてばかりだったけれど、数を追うごとに差は小さくなっていたのだ。今の戦いではほんの数手、私の、確か女王と言う意味の駒が出遅れただけだった。
しばらく無言で戦った。先生の白い兵隊さんが歩き、私の騎士が首をはねる。残酷で、単純なおあそび。ああ、また負ける。もう私の王様は逃げ場を失って、先生の強くなった兵隊さんが、虎視眈々とその首を狙っている。
どうかそこへはやらないで、と思ったところへ向けて、先生の駒はいつも的確に進む。今度もきっとそうだと思って、殺されてしまう王様みたいに私がぎゅっと目をつぶると、ことりと音がした。
「あら」
そこでいいの?先生。先生はただ笑っている。ああ手加減されたのだと気が付いたけれど、悲しくて、先生の好敵手にはなれそうもないことが悲しくて、惨めったらしく子供みたいに怒ってわめければいいのに。
けれど私は、もうとうに十五を超えた大人だから。
「ふふ、やっと勝ちました」
「負けてしまったね」
私はさしてうれしくないし、先生もさして悔しそうじゃない。けれど私は精一杯うれしそうに、猫をかぶって笑った。先生はいつもみたいに、本当のところがわからないような不思議な笑顔で、私を見ていた。
先生、本当はね、本当は私、みんな分かっているの。こんなことをしていたって、先生は振り向いてくれやしないって。先生はわざと負けてくれたんだって。先生はいつも賢くて、不思議で、酷いひとです。でもそんなことは言えないから、せめて物分かりのよい可愛い生徒だと思って欲しくて、私はただすこしお馬鹿さんみたいに、大げさに笑った。
まん丸いぽっかりとした月だけが、嘘つきで猫かぶりな私を貫くように照らしていた。