蜜柑の花が咲きしめて
法華津のお山に 鳥が鳴く
おーいおーいと 鳥が鳴く
法華津のお山に 風が吹く
ぴゅうぴゅうと 風が吹く
君が背を押し 進めよと
いく先明るき 導べ指す
太陽の 熱ぞ恋しき 蜜柑山
山を八割がた登ったところで獣道にそれ、道なき道を一刻ほど進んだ先にあった、予定外のものに女は目を瞠った。
子供だ。
ボサボサの髪の毛にまんまるのどんぐり眼、何度も洗って端が擦り切れた着物は、もうすでに元の色がわからないほどである。
しかしそれもこの辺りに住んでいる子供としたら納得のいく風体だ。山の高いところにあるこの周辺は、山から吹き下ろす寒風で作物は元気がない。代わりに、海から吹き上げる潮風と山々を照らす太陽の力で、とても美味しい果物がなることは有名だった。
だから人々は、美味しい果物をたまに来る行商人と交換して生活しているもののそれも余るほどはなく、結局はこうやって、あまり手間をかけなくても生きていけるところがおざなりになっているのが現状だ。
「誰? 薬草でも取りにきたが?」
「お、オレっ、薬とか、わからんけん!」
急に声をかけたのがいけなかったのだろうか。子供はひどく狼狽した様子で息せき切って答えたものの、その内容はひとつも理解の及ぶものではなかった。
聞き方が悪かったのかと、首を傾げながら、女はもう一度問いかける。
「私、依っていうがよ。ここに薬草を取りにきたけん、あんたを見つけたけど、何か困ってるが?」
ゆっくり、腰を落として目線を合わせて伝えた依の言葉に、子供はまんまるの目をさらにまあるくして女を見てから、躊躇いがちに口を開いた。
「か、……母ちゃんが、風邪、ひいとるけん。ここ、薬草が多いって聞いたけん、来た」
「そう……」
ふうわりと微笑んで、女は理解を示す。それに、子供も少し安心したのか、ぽろりぽろりと、こらえていたものが頬を伝う。
まったく、と女は子供を抱きしめて、自分の着ている防寒着の中に入れてやった。裸足に草履に薄手の着物一枚。あまり着込むと動きにくいからとはいえ、流石に、冬の最中では寒かろう。子供の耳と鼻が真っ赤になっているのがその証拠だ。
子供はまさしと名乗った。いつも元気な母親が、ここ数日ずっと咳が続いて、微熱もあるようだ。父親はちょうど二週間ほど前から出稼ぎに、麓の村へ行っている。母親を助けたいが力もなく、学もない。そこで思いついたのが、薬草を取ってきて母親にあげれば元気になってくれるのではないかという、短絡的なものだったそうだ。
しかし、草はたくさん生えているが、その中のどれが風邪に効くのかわからない。そういえば、草の中にも毒のあるものがあって、間違って食べて死ぬなんてことも……と、単純に一人でこの場所に来たことを後悔していた時に、おりよく、依が来たというのだ。
「そう、お母さんの風邪薬を、ね」
「姉ちゃん、知らん? オレ、勝手に村を出てきたけん、今何も持たずに帰ったら怒られるんよ」
「まさしはいい子だね。私、調薬師やけん、良かったね」
「調薬師!? すごい! 姉ちゃんすごい!」
目の前の、小さな黒い頭が可愛らしい。少し撫でさせてはもらえんかと思いながら言葉を紡ぐと、子供はどんぐり眼を羨望に光らせながら女に飛びついてきた。その頬は興奮か、りんごの色に染まっている。
手放しでの褒め言葉に、依は少しだけ、お腹がむずがったいような気になってきた。
調薬師とは、山や森に分け入って、自然の精霊たちと語って薬草を採取し、薬を作る者たちだ。一般の人間から見たら怪しいことこの上ないのだが、その辺りの機微はまだこの子供には理解できないのだろう。
「あ……でも、うち、金ない……」
さっき笑ったはずのカラスが、しょんぼりと頭を下げる。
調薬師にも医師にも、診てもらう時、薬を調薬してもらう時は現金で支払いが必要だが、まさしの家にそんな余裕はない。そもそも、それができないから、一人で山に分け入っていたからで。
「かまんよ。これから私、薬を作るけん、それ手伝ってくれるが? それでいいんよ」
「かまんの? ありがとう、姉ちゃん!」
依の申し出に、まさしはことのほか喜んで、すぐさま村へと手を引いて連れて行った。
先ほどまでしょんぼりしていたとは思えないほどの、とても力強い腕だった。
まさしに手を引かれて獣道を歩くと山道に出た。そこを通ってしばらく、こじんまりとした村に辿り着く。
かみのき村と、そういうそうだ。
「オレの家、もっと奥の方やけん少し歩くんよ」
「かまんよ。お母さんは家?」
「ん~、たぶん……っ!」
「まさー! まさしどこー!?」
二人で話しながら歩いていたところで、切羽詰まった声が聞こえた。しかもそれは、ここにいる子供の名前を呼んでいるではないか。
「オレ! オレ、ここ、おる!」
焦って走り出したまさしに続いて、依も後ろからついていく。
しまった。まさしは、母親が数日前から体調が悪かったようだと言っていたが、もしや急に容態を崩したのだろうか。ただの風邪でも、それが続くと肺の病になったり重篤な容態になったりするというのに。こういう考えはやめた方がいいと思いながらも、依は考える。
もう少し早く会話を済ませて村へ来ていれば、もっといい状況になったのではないかと。
聞こえた声は、村の中央の少し奥側からだったようだ。大人たちが集まって、ざわついているのがわかる。
「オレ、ここ! 何があった!?」
そこからここまでというくらいの短い距離なのだが、焦りが強くて、呼吸が整わない。つっかえながら、まさしは大人たちの中に突っ込んでいった。
「──母ちゃん!?」
途端、悲鳴が聞こえる。
やっぱりか、と自分を殴りたくなるのを我慢して、その集まりの中に依も突っ込む。
「すみません。私は調薬師です。少し、様子を見せてください」
「姉ちゃん……」
「まさし、大丈夫やけん。そんな泣かんでかまん」
そこには、ふっくらとした女性が、顔色を悪くして倒れていた。依よりも少しばかり年嵩だろうか。なるほど、この人がまさしの母親かと、一瞬で思考する。
「急に倒れた? そう。ここ数日の様子は咳と微熱だけね? 食事は量少なくてもちゃんとしてた?」
脈をとり、頭部の無事を確かめ、瞼の裏を見て、着物の上から触診しながら、ところどころで集まっている村人やまさしに、患者の様子を聞いていく。
最近、微熱が出始めてから食欲があまりないようで、今日は特に体調が悪かったという。村の女が集まる井戸端に来た時も顔色が悪く、早よ帰りんさいと言っていたのだと、共に話していたらしい村の女が教えてくれた。
「頭は大丈夫みたいやけん、誰か男の人、家に運んでいってください。まさしは家に布団を敷いて欲しいんやけど、出来る?」
「任せて!」
患者を動かしてはいけないほどの容態ではないので安堵の息をつき、次の行動を決めた。
声をかけると近くに住む主婦が担架にできそうな物を揃えてくれたので、男たちがすぐに家まで運ぶことができた。倒れたところからいくらか進んだところにあるのが、まさしの家だそうだ。
入ると、既に布団を敷いて、囲炉裏に火も入れられていたので、まさしを褒めると、子供は誇らしげにしながらも、母親を心配した様子で覗き込んだ。
「姉ちゃん、母ちゃんどうなる?」
「う~ん、まだ本人から体調を聞けてないからわからないけれど、もしかしたら風邪じゃないかもしれんね」
「えっ! 母ちゃん死ぬの!?」
母親以上に顔を真っ青にして、まさしは依に食ってかかった。これは言い方が悪かったと、違うよと言いながら、落ち着かせるために子供の頭を撫でる。
よく梳られた黒髪は、きっと、母親が愛情を持って毎日櫛を通しているのだろうとよくわかる。大切にされているからこそその愛情を受けている子供も母親を大切に思い、だからこその、まさしの行動だったわけだ。
「まさしがいい子やけん、お母さんはずっと頑張っとったんよ。やけん、お母さんが起きるまで、待っとくけんね」
「オレがいい子やけん……? よくわからん。姉ちゃんの言葉はむつかしいんよ」
依は苦笑して、「そうやね。とりあえず、お母さん起きるまで待ってあげようけん」と言った。
母親が起きるまでの間に、まさしと相談しながら家事を少しだけ、手伝う。洗濯物を取り込み、食べやすいように麦粥を作り、時に母親の脈を診ながら時間を潰す。
彼女が起きたのは、日が暮れかかる頃合いだった。村の家々では夕餉の時間なのだろう、そこかしこからいい匂いが漂い始め、空の高いところでカラスが鳴いている。
「う……ん、あれ、わたし……?」
「起きたが? 初めまして、私は依いうがよ」
「より……? え、まさしは? あんた……!」
「しー……。お母さんのこと心配しとったけど、今日は疲れたみたいやけん、さっき寝たとこなんよ」
驚きで声を張り上げるところだった女の面前に一の指を突きつけて落ち着かせた。そして、彼女より少しだけ離れた場所を視線で示す。
「まさし……」
「本当は、ちゃんと布団に入れてあげたかったんよ。でも、ここがいい言うて聞かんけんね」気持ちはわかるがと思いつつ、子供に布団をかける。
自分の母親の布団に手をかけて、そのまま眠ってしまった格好のまさしを見て、女は安堵の息をつく。そして、依に頭を下げた。女も、自分に何かがあって、それを助けた依がまさしと共に家で待っていてくれたことは理解できたようだ。
依はかまんよ、と言って、自分がまさしと会った時の状況や、それからのことなどを説明し、だから診させてほしいと頼んだ。
「でも、うちには支払いできるようなものなんかないけん、悪いけど……」ここでもやっぱり、まさしと同じことを言うなと依は笑う。
「まさしとの約束やけん、お代はまさしに手伝ってもらうけん、かまんのよ」
「そんな、申し訳ないよ」辞退しようとする女に、「これは私がまさしから受けた仕事やけんね」と強く押し通す。そうしなければ、無駄な時間ばかりが過ぎていくのが予測できたからだ。
とりあえずと母親の名前を聞くと、女は雪乃と名乗った。少しばかり顔色が悪いが目鼻立ちは整っていて、村でも噂の美人なのだろうと依は思考する。
そのままもう一度問診をしながら、全身を確認する。咳や熱が出始めて何日か、元気な時とそうでない時の食事の量の具体的な変化、月のものの状態や体重の変化など。
「雪乃さん、あんた気づいてるんよね。やけん、旦那さん出稼ぎに行ったが?」
昼間に診た時にだいたい当たりをつけていたので、おそらく本人も気づいているだろうと、直球で聞く。雪乃は気まずそうな顔をしながら首肯した。
彼女は妊娠しているのだ。月のもののことを考えると、だいたい四ヶ月になる頃である。腹の触診をした時に、病の塊とは違う、硬いものが小さく触れるのに気づいていた。
「うん……。でもこの村、ほら、寒くて物がないけん、流れやすいんよ。前も、まさしが小さい頃にね……。やけん言えんてね」
気持ちはわかる。依に子供はいないが、ここ周辺の村は、だいたいそれで悩む女が多いのだ。その話を聞いては、体を温める薬湯を煎じたり、妊娠中に出る諸症状に応じた薬を作ったりしたこともある。
寒さ厳しく、作物の実りが限定されているこの地域では、妊娠も、出産も、ましてや育児さえ、命がけだ。
だからこそ、少しでも生まれてくる子が安心できるよう、居場所を整えるためにも禄が必要と、父親は麓へ出稼ぎに行ったというのが、現在、この家に雪乃とまさしだけが残っている理由だったのだ。
かといってまさしにそのことを伝えるのには、まだ安定期にも入っていない現状で、もし流れたら……と、いつにしようか足踏みしていたのである。それでも結局、子供ながらに母親の不調を見てとってこうなったわけなのだが。
「そう。雪乃さん、提案があるんやけど──」
水無月の、雨の合間の晴れた日に、雪乃は可愛らしい女の子を産んだ。鼻筋の通りは母親に、目元は父親に似た、可愛い子だ。出稼ぎに行っていた父親も、ちょうど数日前に戻ってきて、子の誕生に間に合ったのである。
あの後、依は、この家に住み込む代わりに、出産までの手伝いをさせてはくれまいかと提案したのだ。村が受け入れてくれるのなら、村人を診る時にいくらかの食材をもらえれば、それはこの家のものとして一緒に食べられるからと。
その翌日夜が明けて村長に話を通すと、最初は調薬師という職業柄かなり胡散臭がられたものの、雪乃が倒れた時の手早い対処や指示の出し方を見ていたという村長の息子が、依ならば信用できるのではないかと言って、置いてくれるようになった。
その手伝いとしてまさしが立候補したことも大きい。彼は約束の通り、依を手伝い、時に薬草の知識の教えを請い、依の傍にいてくれたのだ。
村人を診て、その支払いになる食材等で、食が細い村人や食べられない村人と共に食べるなどして、依は、すっかりかみのき村に受け入れられた。
──冬を越え、春が過ぎ、今、夏を迎えようとしている。
「姉ちゃん!」
「まさし。どうしたが? 誰かどうかした?」
蜜柑畑の中で佇んでいた依にまさしは駆け寄った。白い蜜柑の花が綺麗に咲いて、爽やかな香気が辺りを満たしている。
「姉ちゃん、もう、村を出るってホント?」
「聞いたが? そうなんよ。雪乃さんも落ち着いてきたけん、そろそろ次のとこに行こうかなってね……」
「なんで? ここおったらいいよ!」
依の着物の端を掴んで、まさしは必死で懇願する。母親を助けてくれたこと、心許ない時に一緒にいてくれたこと、そして母親の体調を整えつつ共に暮らしてきたことで、まさしは本当の姉のように依を慕った。
言えばこうなるとわかってはいたが、実際引き止められると、嬉しいような寂しいような、なんとも言えない気持ちになってくる。
けれど依にも、止まれない理由がある。
「なあまさし。これ、なんかわかる?」
木に咲いている小さな花を指して、問う。すると、「蜜柑の花やろ」と、返ってきた。
「そう。蜜柑の花やが。これな、冬に無理に蜜柑もいだら咲かんって知ってる?」
「当たり前やけん。蜜柑扱ってる村は、みんな知ってることなんよ!」
「そうよね。みんな知ってる。じゃあ、なんでかはわかる?」
「え、……なんでって、木が、弱いけん?」
うん、と依は首を振った。
蜜柑の木は繊細だ。蜜柑を収穫する時、鋏で切ってあげないと、来夏花は咲かない。無理に枝を折ったりもいだりすることは、蜜柑農家にとって致命的なのだ。
「植物はね、いつも、先を見るんよ。冬に春を夢見て、春は夏を待って、夏は秋の涼しさに恋焦がれ、秋は眠る冬を羨望する。弱くても先ばかりを見とるけん、冬に傷つけられた子は、次を夢見るのやめてしまうんよ。……そうやって、全ては巡っていくん。植物だけじゃない、人も物も、みんな。やけん、私も巡っていくんよ」
「姉ちゃんの言葉はむつかしいけん……よく、わからん」
いつかの言葉を繰り返して、顔をくしゃりと歪ませたまさしに苦笑する。そうね、でもいつかきっと、わかってくれると信じてるよと、声を落とした。
自分が落とした優しさを、誰かが受け取って、またその優しさを誰かの前に落とすのだ。巡り巡ったところで辿り着くのはどこなのか誰なのか。
この子もきっと、そうやって生きてくれるのだと、信じている。
*
「あ……!」
目の前で転けた少年に男は駆け寄る。
「大丈夫か」引き起こし、傷の有無を確認し、対処方法に頭を巡らせた。
派手に転んだように見えたが、思ったより傷は深くないようで、持っていた竹筒の水で傷を洗浄し軽く傷薬を塗るのみで、少年と別れる。
「ありがとー、兄ちゃん!」
「ちゃんと前見ろ、また転けるぞ」
「はぁーい!」
駆けていく少年に、いつかの自分を重ねた。眩しさに編み笠で顔を隠して、彼は今日も、いつものように追う背中を蘇らせる。
(姉ちゃん、オレ、調薬師になったんよ。姉ちゃんが巡るように、オレも巡る。姉ちゃんが落としてオレがもらったもの。オレが落とした何かが、いつかどこかで、姉ちゃんに届けばいいと思うとるよ……)
今は昔。伊予の国の法華津の峠。
──人の優しき、昔話。