南国気味
「トロピカルサンシャイン」と男は言った。
冷え冷えとした空間に無理やり南国っぽさを醸し出そうという意図があったのか、確かにその時、『古城=ミハエル=エラベンワ』というネームプレートを胸に付けた男性は僕の方に振り向いてに笑顔でそう言ったのははっきり覚えている。暖房が故障しているらしい市の会議室で、とある『説明会』の為に数名がまばらに座って待機していている中で、この部屋に2番目に到着したらしい僕が特に理由はないがその男の後ろの列に座っただけだが、5人目が現れたあたりでの唐突な発言だった。
「あ、なにか?」
笑顔に気圧されて、なんとなくこちらも愛想笑いを浮かべるように辛うじて訊き返したのが、彼はその後何事もなかったかのように顔を正面に向け直した。こちらに向いていた時に思わずネームプレートをガン見してしまったのだが、無意識に色々と想像を巡らせていた。
「あ…」
知り合いでもないのでそこから「スルー」という方針を決め、ポケットの中のタブレットのケースから一粒取り出して口に含む。ミントの爽快な風味が口いっぱいに広がり、基本的には先ほどの事はどうでもよくなってしまった。そもそもどういう場合にどういう対応が『正解』なのかは分からないけれど、とにかく部屋の寒さが思考を奪っていってさっきのも何かのバグだと思ってやり過ごすことにしたのである。
だが『バグ』のような展開はここからが凄かった。そもそも説明会の趣旨が「〇〇地区開発計画促進戦略」を希望する住民に説明するというもので、個人的に前々からアナウンスされてきた「開発計画」の詳細を知れる機会だと思っていたのだが、そもそもこの会場の雰囲気からして重要性があまりなさそうというのが予感されてはいた。開始が平日の昼の3時からというのも嫌な予感を漂わせていたが、3時を既に過ぎたというのに一考に担当の人が現れる様子がない。
「おっかしいな…」
時計を何度も確認して3時10分になった辺りで敢えて声を出して周囲に同意を得ようとしたものの、奇妙なのが僕のその言葉に対しても他の人が反応している感じはなく、各々はただ時が過ぎるのを待っているだけという状態だった。例の『エラベンワ』もそうである。というか、あの瞬間以降一切の挙動が無いように背もたれにぴっちりと背中を付けて不動の姿勢で待ち構えているという様子。
<なんか、やばそう…>
気味が悪いので部屋を退出しようかと思った時を狙ったかのように扉が開いた音がして、誰かが慌ただしそうな様子でつかつかと部屋の中央を突っ切てきた。
「あー、お待たせしました。申し訳ありません」
おそらく担当の人なのだろう、そこからはもの凄い早口で『説明』が始まった。自分よりも若そうな男の人である。
「要するにですね、」
とんでもないことだと思うのだが、彼は「要するに」から説明を始めたのである。面食らいつつも何とか銘記していた『説明』はこのようなものであった。
「要するにですね、この戦略の肝はメディアを取り込むことなのです。…いや正確に言えば住民の生の声が『メディア』に取り上げられた、という既成事実を作ってしまって、それを議会の方に私から議題として取り上げてもらうという一連の流れなのです。ただし私からそれを直接『やれ』とは言いません。というわけなのです。以上」
後で調べると担当者は若手の議員さんだそうである。もしかして彼は証拠に残るような事を避けたかったのかも知れない、その後5ページほどに渡って入念に図式と抽象的な文句を並べた『資料』を配布され、それでお開きとなった。察しのいい人ならそれで十分と言えるのかも知れないけれど、ここに集まった5、6名の参加者の中にこの『ソースロンダリング』の指示を忠実に実行する人がいるのかどうかは甚だ疑問だった。
疑問だったのだが数日後、僕は某SNSで万が一という事もあるからという理由で『古城=ミハエル=エラベンワ』という名前を検索してみた。もちろんあの男性が実名でSNSをやっているとは思っていなかったが僕の脳裏にあの単語が浮かんだのである。
『トロピカルサンシャイン』
ご丁寧に幾つかのヒットの中にこの発言をしているアカウントの一つの最新の発言が
、
『〇〇地区は不便だから開発して欲しいです』
という取って付けたようなもので、それに対する『いいね』が3つほどついているのが確認できた。色々な事に対して白け始めていた僕だったが、何を思ったのかそのアカウントの主に対してこんなリプライを送っていた。
『トロピカルサンシャインって何なんですか?』
それに対して、数日後に返ってきた返事がこれである。
『わかりません』