良い父親、良い母親
「クロ殿を温める目的なのだから、私の髪を洗う必要は無いのだがな……」
「そう仰らずに。折角の機会ですから。……それとも、嫌でしょうか」
「……そう言って私が嫌と答えると思うか?」
「いえ、好きな相手だからこそ、触らせたく無い女性は多いと思いますから」
「では、今の私は、好きな相手に髪を洗って貰いたい女性という事で頼む」
「はーい」
髪を洗って貰い、一通りスッキリした後。
ある意味での言い間違いを経て、今度は俺がヴァイオレットさんの髪を洗う事になった。
菫色の長く、綺麗な髪。見た目通りで触るとサラサラとして、触れているとつい弄ってしまいたくなる髪。この髪を洗うというか、触るのは初めてではなく、ヴァイオレットさんがシキに来た当初から触ってはいる。何故ならヴァイオレットさんの髪は俺が切っているからだ。
シキにも専門の理容師はいるのだが、シキに来た当初理容師の切り方を見るや否や「髪を切るのに命の危機を感じたくない」という要望により、理容師ではなく俺が切る事になったのである。
元々グレイやカナリアの髪も切っていたし、前世では免許はないが服に合う髪をセットするために、知識を得て切っていた事もあった(あくまでもお金が無い時の、緊急時だが)。
なので緊張しつつも髪をセットしていたのは今では良い思い出である。
「時にクロ殿、先程の“良い母親”発言の事だが」
うお、そして洗われつつもヴァイオレットさんが先程の発言を聞き返して来た。
夫婦である以上は問題無い発言なのだろうが……色々と思われる事も無理ない発言だ。ややS気のあるヴァイオレットさんだ。なにか揶揄ってくるかもしれない。
「マゼンタさんがなにか言っていたのだろうか?」
そこを見抜かれるとは、俺はそんなに分かりやすいだろうか。あるいは普段と違う物言いだったから予測できたのか。……後者だと思っておこう。
「マゼンタさんが言っていたんですよ。自分は最低の親だって」
あれはスカーレット殿下とヴァーミリオン殿下の件も有っての発言でもあろうが、恐らくあの時言ったのは共和国でのモリアーティ一家の件なのだろう。
「そういった台詞が出て来るって事は、あの人はあの人なりに、家族のために頑張って、思っていたより拠り所にしていたのかな、と思いまして」
あの言葉を聞いた時、こう言っては失礼だが俺はマゼンタさんが思ったよりも共和国での父子の“事故”を引きずっていて……無自覚に父子の死と自分の家族への振る舞いから目を逸らしているように思えた。
ヴァイス君にまるで諦めさせるかのような言葉を投げかけている最中に、なにかを思い出したかのように自身を“最低な親”と評したのだ。まるでそれが当然の事のように、嘘ではないように心から。
そのような評価は自分の行動と相手を思わなければ出て来ない表現だと思い……思ったよりも、夫と子の事を愛していたのだと思った。そしてそれが失う事で自覚し、初めて目を逸らしていたのだと思う。
「それで気付いたら“良い母親”と言う言葉が出た訳だろうか」
「そうですね。……失ってから気付いたんじゃ、遅いですから」
これも失礼な話だが、そんなマゼンタさんを見て俺は気を引き締めようと思った。
ただでさえ俺は過去に「好き」の言葉を直接伝えずに、初めて伝えた時に泣かれた男だ。気にし過ぎも良くはないが、教訓として生かすのくらいは良いだろう。……まぁ、先程のように唐突に「愛しています」と言ったり、「良い母親にするために」と言うのは我ながらどうかとも思うが。
ともかく、愛している相手に悲しい思いはさせたくない。
……マゼンタさんのように、救うべき相手を救っていたら自分が救われていなかった。なんて、孤独を味合わせたくはない。そう思うと、俺は愛する相手に――
「だとしても、良い母親にしたい、か。……私もそうありたいとは思うが、そういった発言を別の女性の連想から言うのは感心しないな」
「う。……すみません」
……そうだよな。確かに良くはない。
幸せな家族を見て「あのようになりたいね」とかは良いかもしれないが、今回の俺のような連想はあまり良くないな。
「そもそもこれでは今が良い母親でないかのようです。ヴァイオレットさんには既にグレイという息子がいる良い母親でありますし、今更ですね……世界一の母親なんですから……!」
「……そうだな。(クロ殿がそう思ってくれているのなら、私は良い母親を目指せるのだろう」
む、なんだろう。ヴァイオレットさんの返答に間があったし、ちょっと聞き取れない部分があったな。
何故間が開いたのも含め表情を確認したいが、今の状態だと表情が確認出来ないし、ちょっと泡も立ってきたから話を聞くのもな――と、そろそろ良いか。
「では流しますねー」
「……うむ」
確認をしてから香油の泡を流しきる。
さて、ここから別の香油をやったり、馴染ませたり、梳いたりする工程に移行する。ふふふ、プロではないが、俺だって知識はある。この素晴らしい髪をもっと素晴らしく仕上げてみせる……!
「ク、クロ殿? なんだかもっとやってやろうという気持ちに溢れているが、もう充分であるからな? 今日の手入れは元々済んでいたし、夜も遅いからここまでで充分――」
「駄目です。もっと、もっとヴァイオレットさんの髪を綺麗にせねば……!」
「クロ殿!?」
ヴァイオレットさんの髪は至宝だ。菫色の髪は他の女性には無い美しき、この世で一つの最高峰の髪だ。
俺はヴァイオレットさんの全てが大好きだが、この髪ももちろん大好きだ。以前インかシュイがヴァイオレットさんの姿形になっていた事があったが、髪の色が全然違うからすぐに分かったほどにこの美しさを愛している。
「今は手入れをアンバーさんが行なっていますが、正直言うのなら俺がいつも手入れしたいです……」
「……何故だろうか。私の事を好きだからだろうか?」
「この髪を弄る……整えるのも乱すのも、俺の特権にしたいからです」
「乱す」
「乱す、です」
「…………。……っ!?」
まぁ当然俺やヴァイオレットさんの仕事もあるし、毎回俺の事を待っていたりしたらヴァイオレットさんも気が休まらないだろうから毎回と言う訳にはいかない。
けれどこうやって菫色の髪を触るのは俺だけにしたいというのも本音である。
特に乱す方に関しては、絶対に譲りたく無いモノである。
「……クロ殿。やはり今はここまでで良い」
「え、でも――ヴァイオレットさん?」
俺がこのままで終わるのは複雑だと思っていると、ヴァイオレットさんはスッと立ち上がった。
相変わらずスッと立つ姿も美しいと思いつつ、何故急に立ったのかと思っていると。
「どうせ乱れるし――クロ殿は私を良い母親にしてくれるそうだからな」
「はい? えっとヴァイオレットさ――」
ヴァイオレットさんは俺の疑問に答える前にこちらを向き、少し恥ずかしそうな表情のまま、頬をお湯による影響とは違うように染めながら。
「……湯着、脱がせてもらえますか、クロ」
と、言った。
……良い父親になる様に、頑張らないとな。




