金と黒
「おい、待てって!」
「……」
「なんで逃げるんだよ! 俺、委員会の教室知らねぇぞ!」
「逃げてない!」
と言いながら、惹鶴は明らかに、どんどん距離を開けようとしてくる。仕舞には夢中になったのか、走り出してしまった。くっそ……速ぇ……! ガキの頃は俺の方が速かったってのに……! ふと体力テストの、50メートル走の結果がクラスで一番遅かったのを思い出した。とりあえず、惹鶴が速いのか、俺が遅いのかはおいておこう。今は惹鶴を見失わないように目で追いながら走るので精一杯だ。しかしながら、運動なんて日ごろから自主的に取り組むわけもなく、持久力という持久力は保々無いに等しい。息も切れ、足の裏からふくらはぎの筋にかけて、足がつったような感覚を覚え、ついには惹鶴を見失ってしまった。最後には、3階の渡り廊下を通って左に曲がっていったのが見えたが、道順通り進んでも、委員会の教室どころか惹鶴の姿すら見当たらない。まいった、と途方に暮れて、渡り廊下の窓に寄りかかってしばらく息が整うのを待ってから、校舎を眺望していると、二つの点が、自分の正に真下にある中庭を、とてつもない速さで通りぬけていったのに気付いた。ゲームのし過ぎで、てんで悪くなった視力のためはっきりと見えないが、目を凝らして、目じりを引っ張ってよく見ると、あれは……惹鶴!? あんなとこで何やってんだあいつ! ていうか後ろの奴誰だよ!!
顔までははっきり見えないが、長い黒髪が、それに似合わない速度で、あれだけ早く感じた惹鶴との距離をじわじわと縮めていた。
「おーい!! 惹鶴ー!!」
とんでもなく久しぶりに腹から声を出した反動なのか、喉が軽く締まるような感覚を覚えた。惹鶴はこちらを振り返るそぶりもなく、黒髪ロングから逃げ惑って、噴水を間に挟む形で互いに見合いながら駆け引きをしてタイミングを伺っているように見える。これなら、自分で探したほうが早いな。
喉をさすりながら、校舎の構造を思い出していると、徐々に喉というより、うなじのあたりがつねられたように痛くなってきた。思ったよりも自分の体は深刻な状態なのではないかと青ざめながら考えを巡らていると、痛みが増してきた。なんだこれ……本当につねられてるみたいだ……。
不安になって、それまで喉をさすっていた手をうなじに触れると、妙に凹凸があり、やけに冷たかった。それに掴むと、ピンッとまっすぐになったので、驚いて振り返ると
「手を離しなさい! このけだもの!」
と、そこには、ネクタイのピンの色からして2年生であろうか、金髪の女生徒が申し訳なさそうな顔をして立っていた。すぐに目についたのは、その綺麗な金髪には似合わない、鈴のついた、紅白のしめ縄のような髪飾りであった。が、その金髪の態度は先ほどの強気な罵声とは打って変わって、うやうやしい表情をしている。違和感を感じながらも、腹が立って、その勢いで口ごもりながらも反論した。
「て、ててて手を離せはこっちのセリフだ!」
やはりその女生徒は申し訳なさそうにこちらを見ている。痛みを再び感じ始めて、見えるはずもないうなじを確認するように頭を向けながら手をかざす。
「はぁ~? アンタが急に叫ぶから転びかけたのよ! 謝って頂戴!」
一方的な要求に思わず女生徒を睨んでしまった。それでもなお、彼女の目つきは変わらず、むしろ若干引いているような気がする。表情と言動が釣り合ってないので、張り合いもなくなってきた。
「お、おぅ……? ま、まぁ、それは悪かった」
「どこ見て言ってんのよ! そんなので許せるわけないじゃない!」
たった今、違和感の正体がつかめた。どう見ても、女生徒の口が動いていなかった。そして、声がした下のほうに視線を落とすと、そこには誰もいなかった。声の正体がわからくなり、再び混乱し始めると
「謝るときはちゃんと人の目を見なさい!」
と頭を押さえつけられた。そのまま頭の向けられたさらに下の方を見ると、黒髪で、見たこともないくらいに丁寧に編まれた髪型をした、少女がむすっとした顔でこちらを見ていた。そしてもう一度金髪の方を見て
「あの、すみません、妹さんでしょうか?」
と丁寧に聞いた。しかし、金髪は、ただただ苦笑いをしていた。
「先輩に向かっていい度胸ね、褒めてあげるわ。でも、あまりに無礼じゃないかしら」
「ハハハ、かわいい妹さんですね」
「わ、た、し、は、あなたより歳上よ! それに可愛いのは当然でしょ! 」
少女は声を震わせて、露骨に、顔を赤くしながら、口角を無理やり下げている。しかし、一方金髪の方は、なぜか急に血相を変えてこちらを強く睨んでいた。
「行きましょう、ルカ。遅れてしまいます。」
「それもそうね」と、一瞬目が合う。
するとすぐに「ふんだ!」と首を90°回転して、鼻を高くするような姿勢で渡り廊下の向こう側へ歩いていった。しまったな、目をつけられたか? それをあとから追って金髪がゆっくり歩き始める。やっと開放される! あぁ緊張した! と胸を撫で下ろしていると、足音が止まった。夕日に乱反射する金髪を翻して
「手を出せば刺す」と言い捨て走っていった。
ついさっき、ルカとやらに向けていた、聖母のような微笑みからは想像出来ない顔で、かつ胸中を突き刺すような絶対零度の声色で釘を刺された。手を出す気なんてねーよ。勘弁してくれ。俺はまだ死にたくない。刺すってなんだよ。なぜか俺の手が心臓の辺りを押さえていた事に気付いた。
あんにゅい