幼き幼狼
向かいの男女も動き出す。
だが横たわる狼は僕に近かった。
少しでも立ち止まったら追いつかれるとわかっていたから、脚を全力で回しながら腕を伸ばして、狼を攫う。
男が怒鳴った。僕はひぃ、と思わず鳴く。さらには後ろの二人の会話で、いよいよ僕は振り返ることも恐ろしくなった。
「やはりあのガキ、盗賊ね」と女。
「身なりが軽い。間違いねえな」この声は男だ。「ぶっ殺すぞ!」
盗賊なんて人聞きの悪い。動物を殺そうとしてたあんたらの方がよっぽど悪役だよ、と僕は後ろを尻目にした。
猛烈な威に背を圧されつつ、木々の合間を縫って駆け抜ける。
とはいえ僕の足の速さなどたかが知れていた。幼い頃にあまり運動ができなかったゆえに、恥ずかしいほど運動音痴だ。加えて狼を抱えている。
それでも追い詰められることなく逃げおおせていられるのは、相手に重しがあるからだった。
男はゲームの主人公みたいな鉄の防具と剣を持っていた。
女は軽装であったものの、その鈍重な男の後ろを走っているため、前に進んでこれていないのだろう。
僕は無我夢中だった。
腕がはやくも吊りそうになっている。
肺が破けてしまいそう。
運動をしていないことの弱点はもうひとつあった。そしてそれは、どうにも解決できない問題だった。
僕は致命的に持久力と脚の筋力がないのだ。
走っていてわかる。僕は少しずつ遅くなっている。
後方の男は、その体躯でわかるように、鍛え方が伊達ではないのだろう。
身につけている鉄の擦れ合う音が、みるみる近くなっていた。
体力が枯渇した僕を走らせているのは、いままでに感じたこともないほどの恐怖心だ。
訂正しよう。虐めてきた奴らのほうが、まだ怖くない。
比べて後ろの男ときたら、背中に寒気が走るほど、睨んできている。痛いほどにそれがわかる。
追いつかれたら死ぬ気がした。
逃げなくては。
だが、どこまで逃げればいいのか。
景色は行く先行く先変わらない。
走っているうち、僕は苦しむことに嫌気が差して、立ち止まってしまいたい衝動にかられる。
いくつもの木々を通り過ぎて、またも正面に木を見つけた僕は、感覚がほとんど失われた足に鞭を打って避ける。
目前には、男についていてはずの、黒い外套を被った女がいた。
思わず足が止まった。
とっくに限界をむかえていた僕は、それから崩れるようにして膝をついた。
もう、逃げられない。
「鬼ごっこはもう終わりか?」
すぐに男もやってきた。
振り返れば、すでに剣は抜き身だった。
「とろいし根性ねえし、おまけに仲間の気配もしない」男は言う。「おまえいったい、何がしたかったんだ。黙ってれば俺を怒らせることもなかったのによ」
そのとおりだ、と思う。
僕はいったい、何がしたかったのか。
狼を救うなんて、最初からできるわけないとわかっていたのに、生まれ変わるんだと勇んでは闇雲に逃げただけだった。
ださいなあ。
悲しいなあ。
結局僕は、弱いままだ。
「ダメね、この子。もう絶望しちゃってる。返事をする気力もなさそう」
僕は女を見た。彼女の持つ杖は、不思議と燃えるような光を帯びている。
平常なら綺麗と思えそうなそれだが、火を連想するためか、いまは恐ろしさが先立った。
「おい、燃やすなよ」と背後の男が言う。
「あら、つい。ムカついちゃってて」
「賞金が掛けられてるかもしれねえんだ、縛って連れ帰る」
「はーい」
「しかし手を煩わされて気が立っているのは俺も同じだ。少し痛い目にあってもらおう」
嫌な予感がして、僕は首を後ろに回す。
すぐそばで男は片膝をつき、狼を抱えていた僕の右腕を力づくで引っ張ると、地面に抑え付けた。
男は腰元のナイフを抜いて、振りかぶる。
振り下ろす先には僕の手首があった。
「そんな――」
腕を引こうとした。
だが抑えつけてくる男の手はまるで動かなくて、僕の右手首はナイフにあっさりと切断された。
僕は絶叫する。
意識が明滅するほどの耐え難い痛みが、断面から全身までをくまなく襲った。
あらゆる汗腺からは脂汗が吹き出し、ぼくはひどい熱感を覚える。
まるで火に炙られているかのようだ。
暴れる右腕をなおも男に抑えられつつ、僕はうずくまり、身をよじらせた。
すると男は、さらに僕を追い詰める一言を放った。
「おい、手首焼いとけ」
「うん」と、女が答える。
僕は恐怖した。
より強烈な痛みが加えられることに対してもだが、二人の慈悲もないやりとりに異常性を感じたせいでもあった。
人をいたぶるにまったく抵抗がないらしい。
その心理は、僕の理解が到底及ばないところだった。
「あんたら狂ってる……!」
止まない苦痛に悶える僕は、それだけでもかろうじて言うことができた。
「先に仕掛けたのはおまえだ。当然の報いと思え」
「だ、そうよ」
男の返事に女は乗っかって、その杖にふたたび燃え盛る光を宿した。
光はやがて熱を持ち、空気を揺らす本物の火へと化ける。
それは女の手品なのだろうか。
僕は目を疑ったが、紛れもない火の出現は、手首を焼く準備であると明白だった。
「嫌だ、嫌だ」震える声で僕は呟いて、首を振った。「お願いします、嫌です。やめてください。嫌です」
「んー」と女は指先を顎にあて、考える素振りをした。「やめてもいいけど、そしたらあんた、失血で死ぬわよ」
言われてみれば、当然だった。
僕は切られた手首をみる。男がきつく腕を抑えていることが幸いして、いまの出血量が多少であるものの、本来はとめどなく血が噴き出しているに違いない。
男がいつまでも血を止めてくれるわけもなく、また少量の血は流れているためいずれはやはり死ぬ。
つまり女は、断面を焼いて肉をただれさせて止血する他に、手段はないというのだ。
「あああ、そんな、そんな、なんでえ」
絶望的な状況に、涙が出た。
これ以上痛い思いはしたくない。
こんな目に遭うとわかっていれば、生まれ変わりなど望んじゃいなかった。
ちくしょう。病床で死ねばよかった。
ちくしょう。ちくしょう。
ふと僕は思いつく。
ならばもう、死ぬか。
「殺してよ」
しかし、女はそれを許してくれなかった。
「だめね」
「なんでよ、頼むよ。痛いのは嫌だ。お願いします、殺して」
「ごちゃごちゃうっさい、ほら、焼くよ」
女は杖先の火を揺らしながら、歩み寄ってくる。
僕はわめき、解けるはずないとわかっていても、男の拘束から必死に逃れようとした。
そのうちに、女とのあいだの、たった数歩の間隔は一瞬で詰まった。
黒い外套に身を包んだ魔女を思わせる彼女は、姿勢を低くして火を近付けてくる。
僕は一層わめき散らす。
火が手首を焼かんとするとき、僕は恐怖や痛覚をわずかでも誤魔化すためにも目をつぶり、声を張った。
「嫌だ――!」
手首に焼ける痛みはやってこなかった。
あるいは感覚が麻痺してしまったのか、これまでの激痛さえ嘘のように消えていた。
目を開いた僕の前では、いくつにも分断された杖が地に落ちている。それと、爪が綺麗に伸びた指先が数本あった。