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スラグ  作者: 雨ざらし。
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ウィスキーバーグ

 これらは約23年前の出来事だ。


 少年はメキシコ帰りで酷く疲弊しおり、船を下りて直ぐに波止場の真ん中で嘔吐した。

 少女は「もう大丈夫だよ」と優しく声を掛け、少年の背中を擦った。


 彼らの身元を引き受けたのはある新米の制服警官だった。

 警官は彼らに傘を差し出し、自らは糸のように長く引いて振り続ける雨に体を濡らした。

 彼はズボンのポケットの中で、意味あり気に象られた鍵を弄ぶ。それは箱の鍵だった。しかし、宝が入った箱の鍵では無い。どこにでもあるような便宜的でリアリズムとモダニズムに満ちた箱の鍵だった。


 少年は口元を拭いながら警官を睨んだ。「勝手に見るんじゃねえよ、駄犬プーチ」少年は警官に言う。

 少女は困ったように眦を下げて少年の背中をいつまでも擦っている。


 警官は彼らを見下ろし「見られたくないなら、てめえで向こうに行きやがれ」と煙草に火を着け、一杯に煙を吸い込んだ。しばらく肺の中に煙を留めて、ゆっくりと吐く。雨は煙草の煙を色濃く縁取って、空気の中へ霧散していく白煙の所在を焙り出していた。


 少女は少年の肩を抱いた。

 立ち上がった少年は黄色く濁った吐瀉物を足の裏で散らした。芋の塊は足の裏と、劣化して粗骨材が浮いたアスファルトの間で潰れる。ペースト状に潰された芋は少年の足の裏で糸を引く。


 警官は彼らに「10分で戻って来い」と伝えた。

 少年は返事をせず、少女が少年の分も頭を下げる。


 警官は煙草の火種を指で弾いた。先端から葉が零れそうになり、それを指で詰めて先を捩じって固めると、制服の胸ポケットに差し込んだ。

 彼はピューター製のフラスコスキットルを出し、ウイスキーを煽る。口の中で転がし、煙草の味を消した。そして、彼は三口目を含むと直ぐに口から吐き出した。


「飲酒運転だ」新米の制服警官は制帽を脱いで頭を掻いた。


 少年と少女は波止場を歩く。

 降り続く地雨は高く積み上げられたコンテナを濡らした。臙脂、グレー、ダークブルー、モスグリーンのコンテナは塗装が剥がれ、至る所に赤錆が浮いている。

 幾何学的に埋められたU字溝に錆が流れ、ステンレス製のグレーチングも貰い錆を受けて腐蝕していた。


 少年は口元を押さえ、鳩尾を痙攣させる。肩に置かれた少女の手を払い退けて、酒か薬に酔った浮浪者のように歩いた。

 爪が上がったフォークリフトにはコンテナバックが掛けられている。荷役労働者たちが飲んだコーヒーの缶や、彼らが食べたフルーツ缶が廃棄されている。白桃、パイナップル、フルーツミックス缶に充填されていたシロップが滴り、白濁したジェル状に固まっていた。


 少年は堪えきれずコンテナバックの中に嘔吐する。酸っぱい臭いが少年の鼻を突くと、メキシコの畑を思い出した。

 少年と少女はメキシコで畑仕事に従事しており、酸っぱい臭いが好きでは無かった。畑で栽培したカンナビス・サティバ・エルを乾燥させたものを工場へ運ぶ仕事も同時にやっていた。その工場で使われていた薬品が酸っぱい臭いだった。

 少年と少女は自分達が何故、メキシコで畑仕事をしているのか分からなかった。その理由が分からなくとも、自分達が栽培した植物が何に使われるのかは知っていた。


 少年は廃棄された缶の上を流れていく自らの吐瀉物を物憂げな表情で眺めていた。粘性の無い薄黄色の吐瀉物が缶に貼り付き、細い雨粒によって剥離し、流れていく。

 そして少年は自らの吐瀉物と白濁した砂糖水のジェルが混和していく様子を眺める。それは少年少女と、あの若い制服警官が、この人工島と混和していく姿とよく似ている。暗喩とも比喩とも取れない、直観的な暗示だ、と少年は思う。


「少し歩こう」少女は言い、少年の腰に手を添えた。


「プーチプーチプーチプーチ」


「プーチってあのお巡りさんのこと?」


「あいつ以外どこに駄犬がいるんだ」少年はそう言って、規則的に並んで立った白と赤のタワークレーンの方へ歩いた。


 少女は少年の後を着いて歩く。「あのお巡りさん『 』のテリーに似てる」


「はあ?」少年は力無く発した。


「映画の『 』。テリーだよ、主人公の。役者の名前は忘れたけど」


「『 』か? 『 』は違うだろ、似てねえもん。どちらかと言えば息子のクリスチャンだ」


「クリスチャン」少女は雨の降る空を見上げた。


 海沿いを歩いていた少年と少女の傍を、赤い口紅を塗った娼婦が通り過ぎる。

 茶色いフィルターを口に咥え、気怠げに煙草を吹かしていた。

 透けたネグリジェを着ており、足は何故か裸足だった。

 ブラジャーは着けていない。谷間に胸骨が浮き出るほど胸が貧相で、乳首大きく、アメリカンチェリーのような色をしている。

 少年は振り返り、娼婦を見た。娼婦も後ろを振り返って少年を見ていた。彼女は指に煙草を挟んで、少年に向かって手を振った。


 タワークレーンの脇にゴムボートが山積みにされていて、傍らには煤けたエンジンモーターが放り出されている。その裏側に赤い傘が広げて置いてあり、雨に濡れて黒い斑点をつくったダンボール箱が置かれていた。

 少女は後ろを振り返る。少年も少女に釣られて振り返る。娼婦はもういなかった。甘い煙草の香りだけが、彼女とすれ違った証明だった。

 少女は置かれていた赤い傘を持ち上げる。ダンボールの中には茶色いブランケットが詰められていた。少女は赤い傘を少年の預け、ブランケットを捲った。


「赤ちゃんがいる」少女は言った。赤ん坊を持ち上げ、胸に抱く。そして揺り籠のように腕を揺すって、少年の顔を見た。「どうする?」


「プーチに渡せばいいだろ」


 少年は赤ん坊の顔を覗いた。赤ん坊は細く目を開き、気怠げに欠伸をする。

 少年は赤ん坊の頬を指で突いて「かわいくないな」と言う。

 赤ん坊は頬を突かれても無反応で、眼球だけを動かして少年らの様子を伺っている。少年は仏頂面の赤ん坊から目を逸らして舌打ちをした。


「さっさとプーチの奴に渡そう」


「この子名前はなんて言うんだろ」


 少年は言う。「レイヴァン」


「レイヴァン?」


 少年は段ボール箱をゆび指した。マジックで書かれた黒い文字が雨で滲んでいる。血が流れた後のように。


 少年らが戻ると、若い制服警官は波止場のビットに足を掛け、煙草を吹かしていた。警官は足の裏で煙草を揉み消し、吸い殻を海に捨てた。

船乗りマドロスのつもりか、プーチ」少年は警官を揶揄するように鼻で笑った。

 彼は少年と同じように鼻を鳴らし「もう泣き止んだか」と言う。少年は返事をしなかった。代わりに少女が抱いた赤ん坊の方へ顎をしゃくった。

 警官は制帽を脱いで頭を掻いた。彼は制帽をかぶり直し「行くぞ」と、歩き出す。


 彼らが歩いている間、赤ん坊は声すら出さなかった。少女はそんな赤ん坊を愛おしそうに胸に抱いて微笑みかけている。


 廃墟のようなアパート群はどれも同じ格好で、趣きも凝った趣向も無く、メキシコにあった社会主義の構造を切り取ってそのまま移植したようだった。

 アパートは揃ってグレーで、形も長方形の箱型に統一されている。打ちっぱなしのコンクリートは、セパレータの穴だけモルタルで詰められている。

 建物の向きも同じ、窓の形も数も同じ、階数も同じ、住人も挙って俗語として言う人種が同じ。

 モダニズムと社会主義の象徴のようで、同時に時代が培った建築史と民主主義自由主義の棺桶だ。


 警官は少年に鍵を渡し「407」と言った。少年は鍵をひったくり、キーリングに指を入れて回した。


「しばらくは休んでいいはずだ。仕事はファミリーが斡旋する」


 少年は返事をしない。少女は警官を仰ぎ見て、赤ん坊に視線を落とした。


「それは俺がファミリーに渡しておく」


「その子はどうなるの?」


「さあ。おそらく……だが、ある程度成長したらメキシコでガーデニングでもすることになるだろう」


 少女は目を伏せて、赤ん坊を強く抱いた。少年はそんな少女を見て舌打ちをする。


「弟にする」少女が言った。


 少年と警官は「は?」と声を合わせる。

 少年は少女の腕から赤ん坊を取り上げ、警官に渡した。彼はゴミでも捨てに行くように赤ん坊を抱いた。


「生意気な面で、ちっともかわいくないな」


 少女は警官の手から赤ん坊を取り返した。「弟にする」


「好きにしろ」警官は言い、少年はまた舌打ちをする。

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