第6話 「保留」
この文章を読んでくださる方に、心からの感謝を。
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至急開封してください、と記された橙色の封筒には、骨髄提供についての資料やスケジュールやアンケート、僕がドナー候補者に選ばれた事を宣言する紙などが返信用封筒と共に入っていた。
僕は舞い上がり、僕の体を心配し反対する両親を押し切り、アンケートにあるがままを記入し、返送した。
その頃職場が六本木にあり、僕は歩いて出社していた。アマンドの付近の騒がしい通りで、僕の携帯電話が鳴った。
日の出ていた記憶があるので、夜勤明けの午前11時頃だったのだろう。
骨髄バンク所属で、僕の手術や検査などの日程の調整を担う「コーディネーター」さんは落ち着いた声の女性だった。
僕は、これで少しはむっくんの無念を和らげる事が出来るのではないかと、観念的な喜びを胸に抱いていた。
僕だけこの世に残った申し訳なさを、少しは拭い去ることが出来るのではないか、と言う逃避とも贖罪ともつかない気持ちもした。覚悟はしていたものの、未体験の痛みへの恐怖も感じていた。
コーディネーターさんは僕のアンケートを見たと言い、静かに説明を始めた。
骨髄の採取の際には腸骨と呼ばれるウェストの下の大きな骨に、背中側から非常に太い注射器を何度も刺す。
その処置は全身麻酔の上行われ、ドナーは十分な健康体でなければならない。
例え移植したいが為に嘘をついても、こう言った事はすぐバレるのだろうと思い、半年ほど前に喘息で日帰りで病院のお世話になった旨を僕はアンケートに記入していた。
全身麻酔の合併症や腰骨に注射針を刺すショックで喘息の発作が出る可能性があります、とコーディネーターさんは僕に告げると、僕が喘息で病院に行ったのが何月頃だったかを再確認し、あと半年間は骨髄提供の対象保留者としてデータに残す旨を僕に告げた。
僕は、僕が我儘な生き方をし、煙草を止めなかったせいで誰かの希望を絶ったかも知れない事を恥じ、家に帰ってから、しばらく動く事が出来なくなった。
むっくんを殺したのは僕だ、という混乱した苛みが胸に広がり、やるせなかった。
僕は、夜勤を止め、煙草を少しずつ減らした。
必死だったバンド活動も何枚かCDを自主製作した後、ドラマーの結婚に伴い解散する事になった。
それから、数年が過ぎた。
僕は、喘息の発作を起こした時に朝まで看病してくれた女性と、東日本大震災のあった年の11月に結婚した。
再び日本骨髄バンクから封筒が届いたのは、さらにその翌年、2012年の事であった。