第5話 「親展」
この文章を読んでくださっている方に感謝をおくります。
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アマチュアがライブでロックミュージックを発信するのには、兎に角お金がかかる。(僕が音楽活動に最も没頭していた2005年頃は、今のような動画配信サービスも充実していなかったし、無料でロックバンドの演奏をさせてくれる場所も見付けられなかった。)
チケットが売れなければ一回のライブで4万円程ライブハウスへノルマを支払わなければならず、バンドメンバー4人で月1回か2回はライブ演奏をしていたので、それなりの出費であったし、毎週のリハーサルのスタジオ代や弦などの消耗品代など、お金はいくらあっても足りなかった。
そこで僕は実入りの良い金融系のコールセンターの夜勤の仕事に就くことにした。ライブハウスのスケジュールに合わせられるように、アルバイトとして。
夜中働き、朝に帰り、それからギターと歌の練習し(僕はバンドのギタリストでメインボーカリストは別にいたが、僕がボーカルをとる曲もあった)、少し眠り、またコールセンターで暗証番号を忘れたお客さんの相手をする暮らしが続くと、治りかけていた喘息がまた頭をもたげ、季節の変わり目や天気の良くない寒い日になると、僕の気管支がごろごろと鳴るようになっていた。
さらに、体に良くないと知っていながらも煙草を1日1箱吸う事を止められないでいた。
煙草がなんの苦もなく吸える日は調子が良い、と奇妙なバロメーターにもなっていた。
ついにある日僕はライブ中に喘息の発作を起こした。喉を潰すような大声で歌ったのが良くなかった。
なんとか倒れずにショーの最後までステージにいる事は出来たものの、幕が下りるとすぐに渋谷のラブホテルに転がり込み、朝を待って、這うように病院に行った。僕の尋常じゃない様子にバンドメンバーも応援してくれているお客さんも困惑し、心配してくれていた。
その時付き合っていた、いつも応援してくれている女性がホテルまで付き添ってくれ、彼女の出社の時間ギリギリまで看病してくれた。
救急の患者用と思われる病室の寝台に寝かせてもらい、呼吸器を付けてもらい、しばらく横になり、咳止めの薬を処方してもらい、なんとか落ち着きを取り戻し、帰宅した。
日本骨髄バンクから、僕の家に「重要 親展」と捺印された書類が届いたのは、それから半年ほど後の事だった。