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五、テケテケ・後

 ――ぱ、たん。





 それは瞬きの事だった。本を閉じる音と共に水面に石を投げたような容易さで、されど世界は明確に蠕動した。その揺らぎに、身体が歓喜して震える。帰るべき場所に帰ってきた様な筆舌しがたいもので、は、は、と情事の様な熱の篭った息が翁長の口元から落ちた。

 其処には誰もいない。見慣れた教室だが、ひとつだけ明白な違いがあった。机も黒板もそして人影も文字で[象/かたど]られていた。人影は特に、生き物の様に言葉が息づいていて、泡の様に沸いては消えたりする。

耳に痛い静謐が支配した奇妙な空間に翁長はいて、鉛の様な足で歩き出した。以前よりまた重くなった様な気がする。

 しゃくん、と何処からともなく音が響く。刃物を研いでいる様な、何かを擦っている様な音にも聞こえた。ばらばらになった瞳の奥がルービックキューブの様に面をそろえた感覚で繋がり、何がどうなっているのかをじわりと解し始めた。

 始祖の文明の石畳の如く計算と幾星霜の[礎/いしずえ]の元にびっしりと敷き詰められるのは氾濫した言葉で、箇所のよっては蟻塚の様にうず高く搭を生み出している。時折突き刺さっているのは鋏だ。そして、[黴/かび]がへばりついた様などす黒い染みだった。箇所に依っては瘤になっていて、時折ごぶんと胎動する音を立てて、[毬藻/まりも]の様に蠢いている。

 急速に状況に馴染むのに、何処か置き去りにされた様な[剥離/はくり]した感覚を泳がせて[酩酊/めいてい]しているかの様にぼうっと思考が止まった様になり、その場で立ち尽くしていた。

 じゃくん、と一際大きく金属を擦り合わせた音が翁長の思考を文字通り分断する。先程からの早急な変化に目の奥がじんと痛む。その先、錆びた鋏の先端が、飢えた獣のあぎとの如く迫っていた。

 更に重くなった足を叱咤して、無理矢理身を捻って回避する。筋が苦情に痛みを伝えた気もするが目を捕食されるよりは何倍もましだ。鋏の歯はこめかみをあさましく引っかいて皮膚を呑んだ。研ぎも忘れさられた刃は、中途半端に時に深くずたずたに翁長に軌跡を残した。血が呻く様に神経を走り、疼痛を生んで顔が[歪/ゆが]む。

 鋏はそのまま床に叩きつけられるかと思ったが、くるりと身を転じてすぐその切っ先を向けた。

 その時だった。音も無く天井からふわりと手に落ちてきたのは。ひんやりとした漆黒の芸術品の様な気品のある鞠だ。大きさは普通の鞠よりも大きく、真白い布の帯を琥珀色の紐で締めていて、猫がつけていそうな大きな鈴で止められていた。模様はつぼみでさわさわと咲こうとしている様にも思えた。翁長の手に収まった瞬間、紐はするりと解け、鞠がまた少し膨らんだ様になり、糸目が耐えかねずに爆ぜる。

 極上の感触だろう、ぬばたま色した長い長い髪がつぼみの様な奇妙な枝飾りを絡ませながら翁長の手を滑る。あまり記憶には無いが絹もこんな感じなのだろうかとどうでもいい事が端に浮かんだ。そしてそれは、――血の気のない人形の首を終着点にしていた。翁長は人形が何なのかわかっていてもこの時だけはいくばくか見ても初めて見た様な感覚に襲われる。寒気や不快ではなく、異形の美しさ故の[怖/おぞ]ましさから。ふわりと大輪の花が咲いた風に瞳がゆるりと開かれ、黄昏時の赤と青の交わる僅かな境の色である混じってしぼって草臥れた、何処か[寂寥/せきりょう]を[滲/にじ]ませる紫が翁長の姿を映していた。


「まだ三分咲きか」


 色の無い唇が、ふうと春を告げる様に恨めしげに冬を歌う。

 するすると目の端を落下する黒と赤の小さな、切り絵の様な花が人形ほど可愛げもないこれは異形の口元に吸い寄せられていき、吟味する様に[嚥下/えんか]していく。

「あまり食んではいないのだな」

 辛辣な物言いでそう評価を下した後、追う様に現れた首のない胴体だけのものが、首同様音も立てずに翁長の背後から首を取った。首の切断口からぬぷりと生々しく淫蕩ささえ滲ませる音が人形にある首の切断口を犯す。其処から先程呑み下した切り絵の花が蔓を以って血管の様に芽を息吹き、胴体に縫製でもする様に縫い合わされる。縫うたびに浮く血はふうわりと花になって咲き、なんとも毒々しく、[歪/いびつ]な造詣を生み出していた。

 腰の袴に取り付けられた優美な扇を舞いの仕草の様に取り出すと、鋏をいとも軽く撥ね落とした。かしん、乾いた音を立てて一回転して、やがて大人しく異形の手に収まった。

 咄嗟に口にしようとするが、それを制する様にずいと片手で持っていた鈴の付いた紐と小さな帯を差し出した。たおやかな手は精巧な人形の様に完璧で、逆に言えば命を感じさせない。布は首をどうにか一周出来る程度でそれを摩擦防止にすぐに傷の目立ちそうな石膏の様な肌に巻き始めた。縫い目から咲く黒い花が少しの動きでさわりと触れるので擽ったい。それを我慢しているのを悟られたか、くつりと小さな笑い声が零れていた。其処から赤黒い紐を留め代わりに巻いて首元に鈴が来る様に結ぶ。

 まるで、通過儀礼の動作の様に殆ど考えもせずに現れた一連の動作に逆らう事という考えすら浮かばなかった。それに気がつくのは、満足そうな加虐的な笑みがこの異形の蝋の様な顔が歪んだ時だ。

 異形――その名は五十七。

 離れようとした刹那、逆に引き寄せられて、五十七に染み付いた冬の匂いに小さく身を震わせた。こめかみの辺り、先も舐められた箇所を執拗にべっとりと舐め挙げられ、背筋が粟立った。けれど、驚くほど身体は弛緩していて、砂糖菓子にでもなった様な心持ちになった。甘露とかどうかは兎も角、じわりと舌先で溶かされて、味だけ残して跡形もなく飲み下される。そんな蛇の丸呑みの様な問答無用の支配で身体が麻痺している気がする。

 そうして思考をじりじりと厚塗りしていく事で、何とか自身の輪郭に縋っていく。この異形といると自分を見失っていってしまいそうになるのは仕方のない事だが、同時にどうすれば自身を取り戻せるのかも微かだが掴んでいる。そうして、どうにかへばりついた身体を引き剥がすと、いまいち表情の読みにくい古の貴族の様な丸い眉を面白くなさそうに潜めた。思った以上に乱雑だったのか、はたまた五十七が執拗に舐めすぎて傷口が凝固していなかったのか、真っ黒な小さな花弁の咲きかかりが散った。

「無粋だな。食事時は邪魔をするものではないであろう。それとも塞爾、[汝/なれ]は斯様にまだ[童/わらし]であったか。まぁ、まだまだ稚い体型のちびなすであるからそうかもしれんなぁ」

 神経を逆撫でする様なゆったりした口調で挑発とも取れる嫌味を告げられ、眉が解りやすく跳ね上がるが、深く深呼吸してどうにか抑える。

 そうしている内に、あろうことか異形は床に這い[蹲/つくば]って床に散った翁長の体液を具現した花をそれこそ犬の様に食んでいた。

「それにしても…飼いならしたのに、相も変わらず[僕/やつがれ]の名を呼ばんな。塞爾は『つんでれ』というやつなのか」

「俺はペットか何かか。その風貌からツンデレって出るのが予想外だったが、俺はあんたらに極力関わりたくないんだよ」

「…はっ」

 小馬鹿にした風に鼻で笑われた。その時ばかりは本当に蔑んだ視線で見挙げられたが、すぐに思考が切り替わったのか、うっそりと口元が弧を描く。新しい楽しみでも見つけたのか、或いは虚勢に気付いたのか。どちらか聞く気にもならなかった。

 恍惚に表情を染めて、けれど飢えた獣の様に夢中になっている様は不味いと五十七自身がさんざ酷評したものにも関わらず、相変わらず気まぐれな異形だった。

「犬か、あんたは」

「畜生と蔑まれる『ぷれい』はあると聞くが、豚でもなく犬、というのがいい選定であるな。僕の琴線に触れたぞ」

 別段、何か意図があって豚を除外したわけではないが、五十七の機嫌がころりと簡単に傾いたので流す事にした。言葉で蔑む癖に、その実、言葉で蔑まれる事に快楽に似た感情を抱いている五十七は酷くご満悦そうだ。

「これって…空気悪い以前の事態だよな」

「まあ、更に明確に突き落とすと綴じられているがな」

 文字通り残さず舐め取った五十七は姿勢を正し、遠くを見やる。綴じられているという表現に解りやすく翁長は自分の顔が歪むのが解った。それを見て、五十七は口元を扇で隠して視線を流した。鉛の様に陰鬱な空模様で雨が降っていると見えたがよくよく目を凝らすと、降っているのはこの内情同様に文字だった。漢字に片仮名、平仮名、そして恐らくは異国の言語を作る最小単位たち。それらが混じって校門とグラウンドに格子状に構成されている。まるで文字の煉獄だ、と翁長は内心でそう評した。

「……あいつもいるのかよ」

 ますますげんなりと翁長が呟けば、五十七は目を伏せた。

「『センセイ』と呼ばれているな。強要だが」

「強要で呼ばせてるって、どんだけ必死なんだ」

「まあ、[彼奴/きゃつ]に関してはセンセイなどという世辞にも教授に向いていないからな。ただ、怪奇の先駆者としては身近で見る事ができるだけで同種としては稀少ではある」

「へえ…。ああいや、違う。そうじゃない。あんたらはこの学校を血みどろでもしたいのか」

 五十七は心外と評する様に、広げていた扇を閉じた。そして、切っ先でついと翁長を指す。

「失敬であるな。――そんなこと、あるわけがなかろう。怪談を終着とする僕らは人に依存しなければ在ることさえ出来ないものだ。だからこそ、ぎりぎりの恐怖を致死量でもなく少量を少しずつ少しずつ、並々に満たさなければならない。人に否定されうれば、それこそ覆水盆に帰らずだ」

「…はっ、じゃあ俺の時はなんなんだったんだよ。大体、怪奇も怪談も同じ様なもんだろ。お前らは狂わせて歪ませて、そうして壊していくんだ。腐って毒になって全てを可笑しくしてなんにも無くなるまで。ずっとずっと」

「なれば、講釈してやろう。怪奇と怪談は異なる。怪奇は人死にも思うがままだが、同時に守りも無い。ただただ磨耗して何も残さぬまま砂の様に消えるだけ。だが怪談はこうした学び舎――守りがある。守り故に制約はあるが、現存する中ではほぼ確実に残りえる方法だ。まあ、先の様に潰されたらどうなるかは解らんがな。どうにも此処を見れば、消えてしまうか何処かに逃げ行ったかどちらかだろう。更に修正を要しよう、塞爾。僕は今でこそ怪奇もどきだが、本来は現象と呼ばれるもの。汝が僕にやり場のない怒りを抱くとうことは、それはとどのつまり、僕も塞爾に向けてそういったものを剥き出して良いのだな?僕の器官をまるごと奪った汝を」

 冬の気配がさらに増した気がした。先程とは打って変わった凍て付いた表情に息をすることさえ出来ない。いいや、許可されていない。屈服しそうに、折れそうになる足を必死に叱咤する。気を紛らわせようと大きく吸い込んで怯えた様に緩慢に吐き出そうとするや五十七が握っていた鋏を口に突っ込まれた。

「…がは、…ぐぇ…」

「ほれ、はよう食めよ。何も感じなくなったとはいえ枯れそうな程、僕の器官が焦らされているのはようよう解るぞ。それとも舌を切らんと解らんか?」

「……ひぎ!」 

 それは冗談でもなんでもなく、錆びた鋏が舌を捉えて、肉を裂こうと冷めた刃先を食い込ませる。血の味がした気がする。だが、それがどうでもよくなる程、芳醇な香りが舌先に踊る。理性と本能と、五十七の器官が不協和音を奏でて、がんがんと翁長を責め立てる。

(おいしそう)

 そう思った時には既に誘惑に陥落していた。五十七の手を取って、鋏を更に口内に招いた。舌先でねぶり、歯を立てるとさくり、と努めて軽い音と共に鋏は翁長の舌に溶かされていた。夢中にするほど美味しくて美味しくて、もっとずっと欲しいと思った。

「これこれ、僕は餌ではないぞ」

 くつくつと楽しそうに笑う五十七の指をいつの間にか食んでいたらしい。極上の甘露を惜しむ様に意地悪く吸い付いていると、指先が容赦なく抜き取られた。

「よいなよいな。その染まった顔。これは愉快」

 遠足前の子どもの様に楽しげな声音で翁長を嘲る。口を乱暴に拭うがその味はやはり思考を飛ばす程に甘く鋭く翁長を満たした。身体に養分が満ち満ちて、視界が急速に明瞭になる。

(俺のせいじゃない)

(勝手にこいつらが俺の中に割り込んできて、俺を滅茶苦茶にして。そして、まぜこぜにして、また無理矢理元のかたちに押し込めたんだ)

 逃避する様にぐるぐると情念がとぐろを巻く。五十七と関わったせいで、曰くのセンセイに遭遇した事で、翁長のまともな人間としての日常はこれからの生涯過ごす年齢の中でほんの数年で滑落した。そうであっても此処にいる自分はまごう事無く人間で、それに無様なまでにしがみついて生きてきた。

 言葉を交わせようが、舐められようが、五十七が人とは違うものなのだ。ふと瞬間にそんな当たり前の事を忘れている自分の愚鈍さに反吐が出る。

「本当に愚か者だな、塞爾」

「嫌になるよ、全く」

「そういう意味でない。…ははっ。これはなかなかどうして。汝の中の僕はどんな花が咲くのだろうなぁ、見物ではないか」

「は?」

 五十七は鋏の刺さる、死んで融解した墓標の様な蟻塚に不遜にも腰掛けて、愛玩の猫でも愛でる様に視線で翁長を見下す。全くどうでも良い話だが、五十七は先の様に這い蹲っているよりは、こうしてぞんざいに全てを見下ろして嘲っているのがしっくりきた。怪奇だか怪談だかの性癖など知ったことではないが。

「さて、塞爾」

「いやいや、さっきからなんだよ」

「気付かなかったか?」

 しゃくん、と不気味な静寂を裂く様に鋏の音が耳に入り込む。それまでとは違う、五十七とは異なる、息が詰まるような圧迫感に呼吸が上手く出来ない。

(でも、これ…)

 そうだ。フェンス越しに爪を立てていたあの影。あの影の鬼気と同じだ。今更になってその事が繋がり回転の遅い自分に笑いさえこみ上げてきた。

 肌が小馬鹿にする様に痛いくらいに張り詰めた空気をこれでもかと伝えていて、裂けて中身が一挙に飛び出してくるんじゃないかとさえ思えてきた。頬を伝ったのは先ほど五十七が啜った傷から垂れたものか、空気で麻痺した身体が[御/ぎょ]しようと発した汗だったのか、翁長には判断の仕様は無かった。 

 ず、ず、ずるる。

 怪談を降りているのであろう布の擦り音と、硬いものがごつごつと当たる音。その[鈍音/にびおと]が骨の音だと気付いたのはどうしてだろうか。限界までやせ細った骨に申し訳ない程度に皮膚のついた指先がひたりと壁の角を捉える。その指先がゆっくりと力を込めて、再びごつ、と音が反響した。

「テケテケといってな。その昔にもいた怪談だ」

 五十七とは比べ物にならない、[乾涸/ひから]びて絡まったざんばらの髪が床に散らばり、その隙間を縫って、ぬう、と大きな大きな鋏の錆を文様にした先端がぎらぎらと血走った飢えた犬の瞳の如く、枯渇して狂気的な光を宿らせている。その大きさは成長期の訪れが漸く出てきた様な翁長の細首なら簡単に落としてしまえそうなものだった。

「……え、」

「彼奴の考えなしにも困ったものだな。膨れ上がりすぎて余計なものに息吹を与えて更に繋がって呼び込んでしまったわけだ。編纂者が聞いて呆れるな」

「…あんた曰くの守りとか意味ないじゃないか。こんなにほいほいやってくるなんて。色々と甘いんじゃないのか」

 外側からこんなにもあっさりやってくるなんて、柔いにも程がある。

「それには同意する。だが、全部か全部彼奴の誤算ではなかろう。――恐らくはこれを逆手に取っただけとみる。なあ、塞爾。この有象無象で一番恐ろしい生き物はな、僕らの様な怪奇でもない。

それを幾多数多と生み出して継続させている人の方が、よっぽど残虐で贅沢で、どうしようもない底無しの飢えた魔物だと思わないか」

「俺は、」

 呼吸の整わない状態で其処まで告げるがこれ以上は無理だった。ごつ、ごつ、と音を立てて、それは視界に躍り出てきた。

 白を通りすぎて鼠色になった歪な肌には肘で移動する為か、青旦がどす黒く変色した痣がある。顔はざんばらに隠れて見えないが、影を縫って現れる顎の辺りを見ても、指先同様乾いたものだと思った。それらを差し引く様に、純白のワンピースは少女の様な瑞々しさと甘やかさをもっていて、染みひとつなく汚れてもいないのがとても目に痛い。裾の凄惨なずたずたさが空寒くて仕方無かった。その処女性にではなく、極点同士の矛盾の生み出す荒廃を纏っているという事に眩暈さえ覚えた。狂気に身を焦がされながらも、そんな鉄壁を装っているのは乖離し過ぎてとても滑稽だった。

 ごつ。

 クラウチングスタートの如く、一際強い鈍音が空気を震わせ、氷上でも滑っている様な滑らかさで翁長に向かってくる。此処で初めてテケテケが感情を剥き出した。くぱりと豪快に口を開き、刃物の様な歯をぞろりと羅列させて声も挙げずに笑っている。『足』『脚』と血反吐の様な色に塗れた言葉がほろほろとだらしなく零れ、奇怪な軌跡を描いている。

(…って、何で俺だけ!)

 咄嗟に走り出したものの、五十七は[物見遊山/ものみゆざん]のような他人事で蟻塚から微動だにしない。ちらりと目線があった先、面白そうに目を細めたのが今でも腸が煮えてくる。重い足は相変わらず絡みそうなものだが、どうにか鋏の射程にも入ってない距離を保っている。

 墓標の様に廊下に刺さった鋏に何度も脚を取られ、引っかかって、小さな傷が幾重も出来ていく。それでも生まれるのは血ではなく、切り絵の花だ。言葉の付けがたい感情にまた更に身体が重くなった気がした。後ろのテケテケを振り返りながら、自分の影には綺麗に切り取られた様に文字が無く、異質だと突きつけられた様だ。それでもずっとへばりついてきて離れることはないだろう。

 こんなに脚が重いのは自分でも辛いし、空虚で何も無いはずのところが痛くて辛くて泣きそうになる。あの凍て付いたところに置き去りにされた様な体感も嫌で嫌で堪らない。ふとした瞬間に普通の、当たり前の感覚に気まぐれに戻ってしまうから、――あの時起こった事は気のせいじゃないかと、長い長い悪い夢だったと思えるんじゃないだろうかと淡い期待を掴もうとしてしまう。その灰色をした真綿の絶望は雪の様に気まぐれにやってきては嘲笑う様に翁長の心に容赦なく降り積もってきて、結局希望を掴み損ねて落下する。綺麗な踏み方を知らないから、べちゃべちゃと汚らしい足跡が生まれ、まぜこぜにして満足げに何も残さず独りでに溶けて行く。

 思っただけで胸が締め付けられて喉が引き攣った。走っているせいで血の味が絡んで窒息しそうだ。藻に閉ざされている水槽で汚い酸素を食って金魚の様に、無様なまでに必死に、嫌だ嫌だと駄々をこねている癖にこうして生きようともがいていて、馬鹿みたいだ。

 いっそこのまま手放してしまったら、終わらせてしまったら楽になれるだろうに、自分が終わってしまうのがとても怖くて、それも出来なかった。

「――え?」

 突然足の裏が縫いとめられた様に踏み出しが効かずに、身体が傾いた。視界がゆっくりとぶれる。嫌な汗とばくばくとした心臓の音が急速にゆったりと流れた気がした。

 ばつん。

 その緩慢さを裂くように、解放は唐突に訪れた。ただ、何かが足りない気がする。薄い膜を張った喪失感を文字だらけの床に強かに倒れた痛みと混じらせて飲み込んでいた。

 けたけたけた。

 身体全体が引き攣る様な笑い声が鼓膜を震わせる。

「…あ」

 頭を何度も打ち付けられた様に軋む頭で、視線を向けた。嫌な予感がする。ごぼごぼと内側が煮え湯でも沸かしている様な音がする。さりさりと何かが削られていく。テケテケの持つ鋏にべっとりとへばりついた切り絵の花。そして、枯れた手で何度も撫で、いとおしそうに舐めている花の咲いた上履きを履いた足。床にぶちまけられた花の軌跡をじりじりと辿れば、――首も足も切り落とされた[雌鳥/めんどり]の様な足になり果てた自身の足があった。

「…ひっ…」

 腕でどうにか逃げようとするが、床と皮膚の摩擦が鈍く痛み、焦燥感で眦が熱くなる。けたけたと笑い声はすぐ上に降ってきて、最早暴れているのと変わらなかった。べりっと、剥ぎ取られた様な音がして、束縛は途端に軽くなった。

 膝を立たせようとがちがちに硬直した手で何とか身を起こして意味もなく安堵が生まれるが、またしても違和感に気付く。

 内側が、自分でない箇所が、笑っていた。絶望を養分にして、芽吹きを歓喜している。見てはいけない気がする。首筋が鞭打たれたみたいにびりびりと警告を発している。わらべ歌で後ろの正面なんてよく言ったものだと思った。――戻れないのに、見てしまう。それが人の業だからだ。




「――さあ、餌は存分にある。たんと食めよ」


 都合よく聞こえた五十七の声は本当に愉しそうだった。




 上履きに食い込んでびっしりと生えた漆黒の芽。それは足裏の皮が剥がれて肉の繊維が剥き出しになっていた。まだ繋がったままの足からも生えて這いでようとうぞうぞと一番多く餌を食もうと我先にとうねっていた。急速に湧き上がった恐怖に声も上がらなかった。それは翁長の恐怖を養分にして、芽吹いた漆黒の花のせいなのかは解らなかった。ただ、こうなったらもう、止められない。止まらない。体中の穴を見逃さぬ様に、内側から異形の[幼芽/おさなめ]が神経を、全てを踏みにじってやってくる。

(…おなかすいた)

 抗う事を辞めて、内側に染まってしまった思考は子どもの様なもので、それさえに何も思えなかった。美味しそうに溜め込んだ餌はすぐ目の前にある。翁長の身体中から生えた芽は床の文字をごりごりと吸い取って、切り絵の花を次々と開花させていく。テケテケは漸く獲物の異常に気付いたのか、奇声を上げながら翁長の身体に鋏を付きたてた。ごぼりと翁長の口から盛大に黒い花が吐き出されて、裂いた傷口からもテケテケを飲み込もうとする勢いで溢れかえる。

「おいし」

 がさがさと絡む花の中、口から花を零れさせながら、翁長はテケテケの腕を掴んでいた。その目は爛々としていて、なのに光は宿っていない。底なしの紫の色が気に入った玩具でも見つけた様に[縋/すが]ってくる。血管さえ花の根に侵されてしまっているのか、皮膚を破って花がみちみちと顔を出している。眼孔の僅かな隙間さえも睫毛を埋める様に極小の花が溢れ出している。

「ねえ、ねえ、もっとちょうだい?おなかがすいてうごけないんだ。すっごくさむくてさみしい。こんなんじゃ、ぜんぜん、ぜんぜん、たりない」

 瞬間、翁長の身体が大きく跳ね上がって、テケテケの作った傷口を更に抉る様に花が増殖する。それはテケテケの焦がれた月の[彩/あや]よりもずっと汚らしくて醜悪なものだった。反動で小さな身体は大きく跳ねてのけぞるが、その顔は泣きそうに、愉しげに、何処か艶然と笑っていた。溢れた花の洪水はテケテケの声さえ飲み込んで、校舎丸ごと貪る勢いで凍て付きが破裂した。


※※※


「相変わらず派手ですねえ」

 蟻塚で優美に目を閉じている五十七に声が訪れる。最も綴じられた此処に入れるなど、たったひとつしか思い当たらないのだが。

 一挙にして冬春の花畑に変化した校舎は、柔い光を灯した氷晶が飛び交って、なんとも幻想的な光景を滲ませている。蠢いていた文字たちは冬眠したかの如く凍て付きに飲まれ、微動だにさえしない。

「これでよかろう、センセイ?僕の暫くの『さぼたーじゅ』は認めてくれるんだろう」

「ええ、ええ、大いに満足ですよぉ。然し怪奇まがいになったというのに貴方の力は全く容赦がない。然し、…意外でしたね。まさかとは思いましたがあのちびなす、まるごと器官を持っているんですね」

「すぐに解らなんだが、汝の算段かと思っていたぞ」

「まさかまさか。あの時アタシ、記憶もないほどぷんすかしてたんで、そんなに器用な事は出来ませんよぉ。根っからのドジっ子ですからぁ」

 こてんと首を傾げ、センセイはにひ、と口元に笑みを浮かべて、本当とも嘘とも取れない答えを吐く。月暈の様な少女なら兎も角、大の男を象っているセンセイがしてもおぞましさしか感じなかった。

「然し、ちびなすは気付いていない様ですねぇ。自分が無意識に噂の捕食を繰り返している事を。それだけ馴染んでいるという事でしょうね。人の分際で」

「……」

 ――そう、気付いていなかった。

 捕食を繰り返している事にではなく、怪奇が肥え太るのを待っているということに翁長自身が気付いていなかった。翁長の体感が逆転するのは、繋ぎ合わされた器官に養分が枯渇している故だ。最近、時季に沿った格好をしているのも、沸いた噂を意識せずつまみ食いしているからこそだと解っていない。味が薄いながらも五十七が食んだ時に奇花が咲いたのもそのせいだろう。

「満足か」

「ええ、ええ、まあ及第点でしょう。色々と調整は必要でしょうが、アタシの鬼ではありませんから。よりよい怪談として皆さんを語り継がせる為です」

「よりよい怪談とな…怪談によいも悪いもないと思うが」

「言葉の綾ですよぉ。ちびなすがべそ掻いて、容赦もなく痛めつけられるのを見たいなんて、欠片も思ってはいませんからぁ。ああそう、もういい加減に引っ込めてやってくれませんかねぇ?このままだとアタシの大事な本にちびなすの汚らしい奇花が溢れてしまいますぅ、かつて五十七君の咲かせた奇花はあんなにも美しいのに、どうしてこんなに違うんでしょうねぇ」

 センセイはさわさわと絡んだ奇花をぶちぶちと引き千切る。その手つきには明らかに邪魔以外のものが滲んでいた。

「先刻から、それはなんだ」

「テケテケですぅ。この姿でべそべそしていたんで拾いましたぁ」

 小人の程のサイズになった、曰くのテケテケはぬいぐるみの様な姿になっていた。センセイに摘まれてほろほろと涙をこぼしている。

「新しく作るより、こうして肥え太った怪奇をぎりぎりまで食むのが一番効率がいい。アリクイと蟻の関係性の様ですね。ただし何処までも一方的ですが」

 何故かウインクと猫撫で声で告げるセンセイに背筋が粟立つのを覚えつつ、蟻塚から降り立つ。

「まあこの光景は嫌いではありません。寄る辺のない貴方たちでしか作れないものですからねえ。…焼き払ったら気持ちいいんでしょうねぇ」

 また本音とも取れない言葉を吐いて、センセイの姿は文字になって霧散した。


※※※


『お兄ちゃん、今日は家に帰ってきてくれるの』

 妹の手を引いて帰路につく度、いつも寂しげに呟く。母親似のちょっときつめの顔だが可愛らしいことに変わりは無い。夕暮れで生まれた長い長い影を引き連れて、犬の散歩や自転車を縫って歩く。

『お父さんもお母さんも心配しているよ。おじいちゃんの家はおうちより遠いでしょう』

『うーん、そうだけど。じーちゃん家は居心地いいからなー』

『…お母さんとお父さんは優しくないの?』

 低学年ながらも、的確に着いてきた妹は相変わらず鋭かった。

 優しくないなんて聞かれるとは、母親とのぎこちない距離感を見抜かれているという事だ。芋づる式に少し気遣いが過ぎる義父との距離感も掴めなくなっていって、元より長くいる祖父母の家の方が遥かに気が楽だった。

 それに妹とは違う。欲されて望まれて出来た子どもだが、自分は違う。母親はあんなに甘やかな目線を向けないし、柔らかな笑顔も無い。どうしたらいいのか不安故に腫れ物を触る様なこわごわとした気配を常に滲ませている。

 皮肉な話だ。血が繋がっている母親と折り合いが一番悪いだなんて。

 いつだったか。そうだ、五十七とセンセイと遭遇したあの日だ。珍しく母親を怒らせたあの台風の様な天気だった。

『あんたなんていなければ良かった』

 金切り声で突きつけられたその言葉は今でもずっと[棘/とげ]の様に残っていて、未だに玄関から先に踏み込むのが怖い。自分の家のはずなのに、他人の家にいる様な浮遊感がある。

 『消えたい』と思ったその思考が、瞬きの内に『消えたくない』に変わるなんてその時ばかりは思いもしなかった。

 妹の手は寒くても暖かいと感じる。あの家の匂いもそう感じればいいのにという望みさえ言葉に出す前に凍て付いて溶けて消えていってしまう。


※※※


 永久凍土の春の世界を構成する中心は不遜な王でも、義理の娘に嫉妬する傲慢な女王でもない。小さく収まろうと三角座りで身をすくめている少年だった。

 殆ど奇花という名の本来は五十七の器官で食みつくして、大木の様になった花の群れの苗床は虚ろな繭の様に枝葉を伸ばしていた。眠っている様なぼんやりとした瞳であらぬ処を見つめている。

 ひらりひらりと五十七の視界を可愛らしく踊る黒の切り絵の花弁は翁長の眦から堰を切った様にだだ漏れているものだった。涙さえも奇花に化生して泣いていることさえ解っていない。本当にか細くて脆くて愚かな子どもだった。

 声もなく泣くくらいなら最初から泣かなければいいのに。そう考えた五十七は随分と翁長の器官に毒されていると思った。

 翁長がそうである様に、五十七にも翁長の一部が繋ぎ合わされている。食欲が全く無くなった事以外、取り立てて変化はないとしていたが、こうした人の様な機微が生まれているらしい。元々現象というほぼ単一の行動原理しかなかった五十七としては、実に変な気分になる。平たく言えば、気持ち悪い。

「起きろ、塞爾」

 八つ当たりの様に花を蹴散らして、血の気の無い頬を打つ。べちべちと何度か叩くと、漸く視線が此方を見上げた。感情が排斥されている故か、普段とは違う朴訥な目が恐らくは本来の姿なのだろう。捕食によって十分に養分を得た為か目が化生の色に戻ってしまっていて、合わないピースを無理矢理はめ込んだパズルの様な印象が拭えなかった。[泡/あぶく]の様にいつまでも揺らいで波打つその眼を見ると、何ともいえない疼痛が喉元を駆ける。渇望しているわけでもないのにその目を甘やかに馴染ませたくもあるし、抉り取って踏み潰したいとも思える。

「いそしち」

 変声期もまだ通過していない高い舌っ足らずな声で、翁長は五十七の名を漸く呼んだ。少しだけ春が灯った様なその響きには邪険の欠片もなく、何処までも透明だった。張り巡らされた根から吸い上げて、全てが純化された水で潤ってそうだったのかもしれないし、ただ単に目の前にあった顔を認識して吐露しただけの可能性もあるが、今は判別出来なかった。

 ぱりぱりと乾いた音を立てて、氷晶が解けつつある。翁長が現実に戻るのはもうすぐだろう。

(全く世話を焼かせる。無理矢理背伸びしても所詮、餓鬼は餓鬼だろうに)

 子守などらしくない行動だ。渋面を作っている事に気付いたのか、怯えた様な、困った様な表情をしている。出会った時の表情に似ている気がした。それなりに機微に鋭い癖に、自分の事に関しては途端に蓋をしてしまう。消化出来るほど、精神が達観しているわけでもないのに。

「気にするでない。汝のせいではないぞ」

 らしくもなく、努めて柔く呟けば、その意味をゆっくりゆっくり飴玉を食む様に解していた。うろうろと視線を彷徨わせて、深く深く安堵の吐息を零した。

「月が、」

「なんだ」

「月がないよ」

 子どもの様に五十七の裾をぐいぐい引っ張って、空を指差す。

 翁長が捕食した為に、すっかり死んだ空には当然月など浮かんでいない。ましてや此処は綴じられた空間でそんな移り変わりはない。

「幾らでも見られるだろう、塞爾。此処で見る月より、もっと醜悪で美しい月を知っておろうに」

 ゆるりと目を開き、声にならない声で唇が蠢く。読み取る事もしなかったし、読み取る気すら無かった。どうせ意味のない戯言だろうと、そう片付けた。ただ、縋る様な裾を握る手だけは振り払う事が出来なかった。


 ――ぱきん。


 薄氷を踏み割る様な乾いた響きが、模した世界の終わりを攫う様に啼いた。



※※※


「かえして」


 ちりちりと痛む頬は痒みもあって思い切り毟りたかった。

 駄々でもこねるようにぼろぼろとなく元お姫様は泣く姿すらみすぼらしい。泣いても魔法使いも南瓜の馬車も来ない。馬鹿みたいだ。

 ばたばたと先生が元お姫様を連れて行く。お姫様は呆然としていて、暴れまわる様子もない。まるで人形の様だ。大人しくしているとまだましで、寧ろ可愛いなんて思ってしまう。

「いい気味」

 一体誰が、誰に対してそういったのか解らなかった。私の事じゃないのは絶対だろう。



 ああ、明日も本当に学校に行くのが楽しみだ。

 次は誰をずたずたにしてやろう。落ちた鋏に写った私の顔は、何処までも醜く歪んでいた。錆びた鋏が悪いのだ、私はこんな顔じゃない。


 だって、私はお姫様なんだから。




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