四、テケテケ・前
懐かしい泥の匂いがする。醜悪で濃厚で、針の[莚/むしろ]の様な痛みさえ覚える恍惚さを馴染ませている。それにうっすらと目を開く。
久しく感じなかった高揚に胸が躍る。[解/ほど]けていた姿を、未完のパズルを完成させる手つきで元の姿をそろそろと記憶を束ね、生ぬるく湿った空気を味合う様に吸い込んだ。
ぱたりと落ちた水滴が思い出した身体に落ちる。恨みものを見る様に視線を動かせば、空を泳ぐ雲に漂う月の淡い姿に目を細める。
美しいと思った。だが、あれがもっと美しい姿を知っている。
だから、この汚らしい赤でも眺めて、気を紛らわそう。つるりとしたうつくしい足をのうのうと晒すから悪いのだ。
ああ、早くやってこないだろうか。
生ぬるく、どす暗い血の色をしたあの至高の姿が――。
※※※
走って走って走って走って走って。何処までも何処までも走っていた。
何処まで行こうとしたのだろう。何処へ行こうとしたのだろう。今となっては全く思い出せないが、それ故か不思議と悲しくも無かった。ただ、頻発して起こるその思考は噛み締めても何の味もしないが――多分きっと、何か味がするのだろう。滅茶苦茶に壊れてしまった自分にはもう何も解らない。
ぱたりとまだ湿り気を含んで濃い色のグラウンドの土に染みが生まれ、頬を伝って落ちたのだと絵空事の様にぼんやりと思った。相変わらず空気は濁っていて、内に溜まってどんどん腐敗していきそうだ。
「本当に普段亀なのに、やっぱ走ると全然違うなー」
「ああどうも…」
端をこっそり走っていたのに、どうにもこの先輩には気付かれてしまう。快活な笑みを浮かべる先輩はスポーツドリンク片手に肩で息をしている自分にひらりと片手を上げた。陸上の方を見やればどうにも休憩中らしく体育館から人が這い出している。はあ、と疲れではなく違う意味で重い息を吐いた。
大抵の人間に速さといわれるので人並みより速いのだろう。しょっちゅう走っているなら陸上部に入ればよかったという公言はもう麻痺するほど聞いていた。
『でも翁長の場合、なんか違う』
先輩がやってくる様になって暫しした後、先輩は唐突に口を開いた。
『はい?』
『最初見た時、どうも違和感が気になってずっと見てたけど…単純に速く走りたいだとか、負けず嫌いとかそんなんじゃないよな。ああそうだ。――なんか逃げているみてえ』
剣幕すげえし、そりゃあ速いよな。
感想文の様に浅い感情で語られたそれは全く以って的を射ていて、この時ばかりは少し怖いと思った。洞察も[然/さ]る事ながら、其処まで見抜かれているとは予想外だったからだ。
「まあ、頑張ってなー」
「有難う御座います」
集合の合図が響き、先輩はそそくさと去っていく。今度は安堵に息が零れた。
――ざり、
グラウンドを仕切る、フェンスの先。ざりざりとくぐもった音に自然に顔がこわばった。どろどろとしたものが、蜘蛛の糸を掴もうとしている様に学校に入ろうとひたすらに爪を掻いている。
これが見え始めているのは、いよいよ宜しくない状態だということだ。空は相変わらず嘲笑う様に鉛を[称/たた]え、煮えを待つかの如く蓋を閉ざしていた。
温い風が、また雨を運んでくると柔い水の匂いを漂わせている。何となくまだ見慣れぬ校舎を眺めれば根の如く染みが浮き上がっていて、何度見ても喉元が引き攣る。
きーんこーんかーんこーん。
澱みに落下しそうだった気持ちを物悲しく鳴る電子音がどうにか引っ張りあげてくれた。染みは消え、爪を掻く音も何も聞こえない。叱咤する様に頬を打って、鞄を持った。
屋上に立つ、首の無い影から逃げる様に背を向けて。
※※※
「えーと皆さん、非常に宜しくないことになりました。このままだと外の要らない怪奇を呼び込んでしまいそうです」
チーンと馬鹿げた音が響き、センセイは何処から出したのか、教壇に置かれた電子レンジからコップを取り出した。センセイの風船の様に軽い一言に、一同の空気が更に澱む。
「そもそもこの虫が悪いんじゃないの。私たちは怪奇でなく怪談なのに!」
ヒステリックに叫ぶ月暈に、虫はもぞもぞと蠢く。
「いや、俺だってわかんねーよ。あんな障りを起こすなんて初めてなんだよ!」
「ちょっと混ぜたのが不味かったですかねぇ…センセイも吃驚ですぅ」
甘いミルクの香りが漂う中、更に何処から取り出したのか、ふわふわの生クリームをコップからあぶれるほど乗せている。
「センセイ?どういうことですか」
「いえ、だからまんまです。やっぱり新設は厄介ですねぇ。外と学校の境も一からみたいですし、調整が難しい。あと三つ決まってこっちに入れば安定するんでしょうが。ううむ。染み付きが足りないので誘発が起こりにくいと月暈さんを見て思ったので、センセイ、ほんのちょっと細工したんですよー。感情の染み付き…条件というのは怪談が障りを起こすのにとっても重要なものですからねぇ。然し、センセイも珍しく焦ってたんでしょうか…。ほんとはこんなことしたくなかったんですがぁ」
やりすぎましたぁと何の悔いの無く述べるセンセイに、怪奇一同が凍りつく。
「どうしたらいいと思いますかぁ?――五十七君」
机に零れた生クリームを皮製の手袋で包まれた指先で意地汚く舐め取って、センセイは努めて軽くそう告げた。
一番奥の左端、けして埋まらなかった席に、首の無いそれがいた。机には鞠がもぞもぞと[忙/せわ]しく蠢いていて、落ちないように時折手が止めている。
「五十七…」
誰かが改めてその名を呼んだ。怪奇の模範生で、誰もがいるとは思わなかった怪奇だった。
「困りましたぁ。人と怪奇が交わった以上、皆さんの様な怪談でもない怪奇にはどうしようも出来ません。どうしましょう。まあ、どうにかしてくれないととっても困るんですがぁ」
ああ、とセンセイはわざとらしく間をおいて、酷薄な笑みを浮かべた。
「壊れた怪奇である君にはどうにか出来るんでしょうか。或いは、――壊れた君の『[半月/にわはり]』には出来るんでしょうか」
その一方的な言葉は、何を言っているのか全く意味が読み取れなかった。だが、五十七は首が無いのもあるが何も言わずに席を離れて教室を出て行く。
「はあああ、緊張しましたぁ」
わざとらしいという言葉を待っているといわんばかりのわざとらしさで、センセイは嘆息した。
「あの、センセイ。…五十七は、元々怪奇でもないですよね?」
「おやぁ、良くご存知ですねぇ」
韻が挙手して告げると、センセイはくるりと一回転して手を広げた。まるで何かを誤魔化しているようにも取れて、指摘を待っている様で余計に苛立ちを煽っている様にも思えた。
「『人の噂も七十五日』。つまり、五十七は怪奇というより現象に近い存在です。なのに、どうして形を持って、こんなところにいるんですか。そして、――センセイも」
「いやはやいやはや…どうしてどうして。韻さんと垂君は意外ですねぇ…其処まで見透されているなんて…正味、大した怪奇でないと甘くみていましたよぉ」
軽薄な声音はすとんと深淵に降り立った様なものに変わる。きりきりきりとぜんまいを巻いた様に空気が研ぎ澄まされて痛いくらいだった。センセイの握っていた生クリームとミルクで飽和していたコップは唐突にあぶれだし、ぼたぼたと躾のなっていない飢えた獣の様に落ちていく。ただ、その中身は純白ではなく、ぬかるんで何とも言い難いくらい濁った紫の色をしていた。
「そんなに昔のお話でもないですが、五十七君ととある[小童/こわっぱ]にはかなり痛い目をみまして。ぶっちゃけますと、今でもあのくらいのちびなす餓鬼を見ると軽く肉塊に美味しく調理したいくらいには存分な憎悪は残っています。まあ、アタシもそこそこでしたからぁ、完敗したわけではありませんがぁ。――悲鳴もあがんねえくらいに滅茶苦茶に壊して、更に息も出来ねえくらいにずたずたに繋いでやったんだがなぁ。流石ゴキブリ並みにふてぶてしいったらありゃしねえ。…本当人間ってのはよ」
間延び口調から粗暴なものに変化する。張り詰めた空気が耐え切れずにぱんぱんと乾いた音を立てて弾ける。それに悟ったのかセンセイはんふ、と奇怪な鼻笑いを落とし、とん、と一段高い教壇から降り立った。芝居がかった仕草でやれやれと肩を竦める。
「けれどぉ、それで良かったかもですねぇ。こうした人と怪奇の交わりにはアタシがついかっとなってやってしまったとは言え、[寄/よ]る[辺/べ]を失った彼らしかどうしようも出来ないことですからぁ」
その言葉の真意は、偶然なのか、或いは意図故の必然なのか、やはり読めるものではなかった。
※※※
口元を押さえながらもぶぇっくしょい、とおっさんの様なくしゃみをしてしまい、ポケットティッシュをいそいそと取り出して鼻を噛んでいると最近つるんでいる土屋が口を開いた。
「風邪?」
「最近暑くないか。じけっとしてるし、かと思えば変に寒いし、あ、でも寝苦しいし…それでか?」
「あのな、本当に国語得意なのか…ならもう少し整理して話せって。大体、真冬のコートとか着たりしてるからだろ。せめてカーティガンだろ」
「うーん、…まあね。そうだよね」
からからと陽気に笑い、ティッシュをごみ箱に捨てに行く。
コートを着ているのは実際にそう感じるからで、過剰なわけでもなんでもない。理解して貰おうと説明するには根が深すぎて自身でも整理が付いていない部分も多いので話せないといった方が正しい。それに、どう考えても子どもの過ぎた妄想で片付けられる内容だからだ。
「そういえば、鏡から人が出てくるって本当?」
「なんか、合わせ鏡をすると出てくるとか…。あ、でも赤いレインコートの女の子も見たって」
「ええ、まじで?怖いー!呪われてんじゃないの!?そういえばこの学校って昔は…」
「通り魔、ついにうちから怪我人出たらしいよ。陸上部の…」
雑踏に乗ってやってくる内容に、気分が重くなった。
(空気悪いなぁ…冗談抜きで)
――然し、まだ味が[彩付/あやづ]いていない。
舌が捉え、転がした味で、そう思った。けれど、そう弾き出した言葉の意味さえ翁長は解らなかった。自分の思考か、内側の別の思考かとても曖昧だった。不安を不安で上塗りして、更に負の感情が混じって埋没して溶け合ってどろどろと猥雑な蔓になって伸びていく。花を咲かせる為に浅ましく延々と根を張って行く。何が不安の核なのかを次第に錯乱して全てが絡んで、もうすぐ重みに耐えかねきれずに落果しそうだ。気付いたといって翁長にどうこう出来ようもなかった。
「もうすぐ、[奇花/あやばな]が咲くぞ」
「――っ」
とても小さな響きだった。けれど、凍てた氷晶の様な残酷なまでに澄んだ幕開けの言葉は翁長の耳をしっかりと的確に食んでいた。その場に姿はないとあえて探しはしない。
その声音は忘れたくても忘れないものだ。あの声が自分に届くのは、いよいよ空気の悪いどころの話ではない、不味い状態だと嫌でもその解答に行き着き、酷く感情がうねった。浅いところにまで心臓が這い上がってきたみたいにばくばく鳴っているのが煩いくらいに解る。砂でも噛んでる様な不快さで全く以って生きている心地がしなかった。
そう、本当に生きている心地がしない。雑踏に紛れて、心臓の音に紛れて、自分の人間として当たり前と疑わない機能のもっとずっと奥で、ふつふつと身体の――全くの異質が代わりにしている箇所が、徐々に芽を開きつつある小さな身じろぎが、感覚の正常を真綿の様に優しく削いでいく。その身じろぎがほんのすぐ足元で嘲笑う様に聞こえた気がした。
※※※
納得いかない。
綺麗に伸ばしていた髪は今では耳の辺りまでばっさり切り落とされていた。それは予期せぬ事で、――いいや、違う意味では想定できたものだったかもしれない。けれど、そんなに簡単に消化できないからこそ腹に溜まったわだかまりがふつふつと煮え立って、その火の止め方さえ解らない。ただ、こうしないとそれは収まらないとは解っていた。
あの時から、お気に入りのワンピースと髪を切られてからというもの、世界は影絵の様に陰鬱なものだった。
あいつこそが、この世界にいるべきなのに。どうして『みんな』受け入れているのか全く理解できない。ああやって脅されたのか。何か理由があるのかもしれない。もしかしたら、自分を喜ばせる為のちょっとやりすぎた遊びなのかもしれない。あの頃と違い、簡単に闇に落下する感情は、全て根源たるあいつに集約される。あいつさえ何かしなければ、躾のなっていないペットの様にただその与えてやった環境に尻尾を振って大人しくしていれば、何時までもお姫様のままでいられたのだ。
そんな事を全て放り出せるくらいに打って変わって気持ちは軽かった。
久々に陰鬱な気分から抜け出して、いつもも保健室ではなく、教室に向かう。大事な『贈り物』も忘れないでポケットに入れておいたので大丈夫だ。
学校に行けなかった時に、インターネットで見たおまじない。その効果を見ただけで自然に笑いが零れる。
ああ、いた。どうしてあいつの周りに『みんな』いるの。気持ち悪いって言ってたじゃない。罰を与えたりしていたじゃない。なのに、なのに。
どうして、あいつを見ていた眼で、私を見るの。
その時のあいつの顔といったら無かった。全てを影で笑う様なとてもとても醜い笑い方。汚い並びの歯を剥き出して本当に同じ人間かと思う。
――はやく『みんな』の目を覚まさせてやらなくちゃ。
それまでの落下が嘘の様に、急激な感情の上昇に頭がぼんやりして、なのに震えが止まらない。大事に持っていた『贈り物』を取り出すと『みんな』があいつから離れていく。そうそう、みんな漸く気付いたんだ!本当に私がいないと駄目なんだから!
『贈り物』を差し出すと、気持ちの悪い長い髪が落ちて、薄気味悪い生白い肌から汚い色の血が一粒だけ刃を伝う。そしてそれは、とろりと這って、やがて床へと招かれた。
「あ、不味いですぅ。綴じましょう。皆さん此処にいますねぇ?いなくても結構ですが、首がもげても苦情は受け付けませんからねぇ」
センセイは皮製の手袋を取る。生き物で無い様な石膏の肌にびっしりと真っ赤な眼があり、ぎょろぎょろと蠢いている。
宙に浮いている本の背にそろりと指を這わせ、捕らえる。ひらひらとした本に付いた紫の紐の栞を摘み、隙間に食い込ませた。




