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二、虫

 私は虫だ。人間だけれど、虫なのだ。

「○○ちゃん、そのリボン可愛い」

「パパが××に行った時に買って来てくれたの。このワンピースもね」

「○○ちゃんの家ってあのおっきい家でしょう?いいなあ」

「ねえ、今度遊びに来る」

「えー!いいの!嬉しい!」

 あーあ、相変わらず同じ様な事言って褒めちぎって。嫌われたら次に無視されちゃうもんね。きゃあきゃあとはしゃいでいるあのグループの一人の肩が、微かに私の肩に触れる。

ごめんなんて言わない。そいつは私を恨みものを見るように凄い目をするけど、声だけは出さなかった。前よりは上手になっているけど、全然全然駄目。無視するなら、もっと徹底的にしてよ。

 私に対する罰が始まったのは、グループの中心のお姫様を褒めなかったからだ。お姫様は垢抜けた綺麗な顔をしていて、いつも可愛い服やアクセサリで着飾っている。

『重くて、息苦しくないの?』

 まるで枷じゃない。私は本当に素直に言っただけだ。それだけで数分でメールが回り、無視は幕を上げた。苛められるよりは遥かにましだと思っている。煩わしいのよりずっと気楽だ。

 鉛でも漂っているんじゃないかってくらいに重たい授業が過ぎて、私は掃除が終わると逃げる様にランドセルを背負って図書室に小走りでたどり着いた。

 カウンターに背を向けて、一番奥の薄暗い棚。脚立で上から二段目の本を取った。私には少し早いだろう…というか、全然解らない分厚い本。綺麗になったのに、開いた本はつんと、独特の匂いが広がった。乾いているのに、色々なものを吸い込んでいて、紙が変色している。

 本というのは可哀想なものだと思う。埃にまみれ、[柔/やわ]い紙に記された文字を放棄して逃げることも出来ない。生きることに似ているのかもしれない。折り合いをつけているにも溜まった膿の様な負の感情は皮膚の内側でどんどん腐って溶けていく。

 重く溜まった空気を思い出し、私は何を書いているのか良く解らない本にじいっと目を凝らす。本と本の間、無理矢理[綴/と]じられたものが綻んで、口をだらしなく開いた糸の奥を見るとうぞうぞと何かが蠢いている。それは私が見ていると解っておらず、せっせと光に惹かれて這い上がってくる。

 私があんまり好きじゃない学校で大好きなもの。――それはこの虫だった。真っ黒で毛虫に似た姿かたちをしていて、もそもそと文字を食べている。この本が全体的に文字を薄くしているのはきっとこいつらのせいだろう。

 私はそれに親指の腹で触れて押しつぶす様に力を込めた。逃げようと小さな足をもぞもぞと動かしているが、こいつらにそんな力が無いのを知っている。ぐに、と体液が溜まっている感触が伝わってくる。ぐぐっと力を込めれは無理矢理ありもしない方向に曲がっていた虫の身体が逃がそうと伸びていく。

 にちりと音と共に虫の身体が擦り切れて、墨汁の様な真っ黒な体液と本の湿気臭い匂いを更に強めた様な匂いが広がった。体液はじわじわ本に滲むが、食べた分であろう文字に戻っていき、最後には何も無くなる。

 文字は前より濃さを戻して、何だか凄くいいことをしている。虫を潰すだけで私は英雄にでもなった気分だった。冷えた内側がほんのり暖かくなって気分がいい。

 どうしてこの虫を見つけたかは忘れたけれど、今はそんな事はどうでも良かった。どうして、なんで、こいつらがいるのかは知らないし、こんなに虫の沸いた本を未だに扱っている学校もどうかと思った。

 だけど、こいつらを先生に言わないのは、私の暗い気持ちを満たしてくれるものが無くなるのと、大人には見えないんだろうなと思った。子どもと大人の違いは、けして身体だけではない。時には子どもの方が上じゃないかなんて時もあるけれど、長生きしているだけあって、子どものプラスチックのぴかぴかした煌きの発想ではなく、静かに光を返す磨かれたそれだ。だから私は、大人を周りほど馬鹿にしていないし、見下しても居ない。愚かだとは思うけど。回りくどくなったが、こいつらが見えていたならとっくに処分されているだろう。

 そうして飽きるまでこいつらを掃除して、本など一切借りずに下校時間まで過ごしている。鼻歌でも刻みそうになって辞めた。良く見かける変な中学生が見えたからだ。

 そいつはほんの一瞬だけ有名だった。有名だったけど、あまりに早く駆けた噂のせいかそいつの妹は全くいじめもされていないから不思議だった。もう梅雨時で気温は高まる一方なのに、今日は何故か真冬ものの紺のダッフルコートとセーター、そしてマフラーを着込んでいる。反対に真冬に半袖なんて時もあるらしい。まあ、クラスにも真冬に半袖がいたりもするが、中学では殆どいなくなっているのは制服もあって明白だ。のたのたと亀の様な緩慢な動作で、これも目を付けられた理由のひとつだった。余分な肉が身体の動きを邪魔するほどの体型でもないのに、妙に動きが遅い。だけど、体育では走っている処を見ると実際はかなり早い方らしい。其処まで私の中にあるそいつを引き出して、すれ違い様にちらりと見れば、――ぞっとした。

「……っ」

 悲鳴を上げそうになって、何とか抑え込んだ。どっと冷えた汗が吹き出して、変な風に何度も何度も浅い呼吸を繰り返す。

 そいつの手首を、――人形の様な精巧な手が掴んでいる。氷にでも漬けたんじゃないかと言う冷たい白さは細やかな針を目に打ち付けられている様な錯覚さえ浮かぶ程、痛かった。たかが手なのに、目に入れただけで[悴/かじか]む凍て果てた空気がやってきた様で、かちかちと奥の歯が震えてくぐもった音を上げている。一見すると慈しむ様なのに、良く見れば、もう、掴んでいるとは程遠い。まるで血の流れを止めようとするほどあらん限りの力で、それこそ千切ろうとしているんじゃないかという憎悪をやすやす越えた、[悪念/あくねん]すら感じた。なのに、なのに。そいつは全く気付きもせず、寧ろ陽気なくらい明るい表情を浮かべている。

 そのちくはぐさに寒気がした。こんなにも平然といられるなんて可笑しすぎる。そいつが[朗/ほが]らかに妹の名を呼ぶのも遠く響く。奇人が連れてきた[万朶/ばんだ]の[冬春/とうしゅん]の世界に、私は震えたままの足で其処に立ちすくむしかなかった。


※※※


 気付けば眠っていた様だ。朝になっていた。あれからどうやって帰ったとか、夕飯がなんだったかも曖昧だ。

 重い眠りから抜け切っていない身体を無理矢理起こし、枕の横に置いたノートに手を伸ばす。そうして、はたとボールペンを止めた。今日は全然夢を覚えていない。私は割と夢を見る体質で、夜中に怖い夢を見て泣いて飛び起きるなんて事も幼い時から良くあった。大人の寝静まった夜に次の眠りの波が来るのを待つのに時間を[紛/まぎ]らわせるのに始めた事なのだが、こうして書くと不思議と良く眠れる。

 もう随分長いことおぶさっているものなので大した比重も感じなかったが、いざ無くなると変に落ち着かなかった。

「…あれ、」

 指先にインクの様な汚れが付いている。ペンを取った時に付いたのだろうか。くしくしと拭いても取れる事はなく、薄まる事も無かった。昨日はこんなの付いていなかった。油性でも何度も洗えば何れ紫になってだんだん消えていく。なのに、落ちることもなく、ただ其処にあり続けている。

 物凄く気がかりになりつつも、学校に向かう事にした。変な行動をすると母親がまた目玉のお化けになる。とかく普通を好む母親は、成績や家庭訪問でちょっとでも可笑しい点を伝えられると、目のお化けになり変わる。爛々と血走ったふたつの化物の目は私の行動を追いかけてぎょろぎょろと動き回り、そして、部屋の隙間から私をじいと覗き見している。ずっとずうっと、飽きるまで延々と。多分携帯からも位置は把握されているだろう。

そして、あの日記も何もかも、私の部屋もくまなく見られている。だって、変な夢を見た時の内容の時は笑い方が引き攣って、顔色も悪くて本当にお化けの様だから一目瞭然だ。

 私だけの場所というのは本当に何処にもない。あの図書館で虫をすり潰す、あの[歪/ひず]んだ時間しか。

「  ちゃん。おはよう」

 しゃくしゃく、小さく何かが音を立てた。

 無理矢理優しい声を出す母親の、神経を余計逆撫でする猫撫で声は私の名を呼ばなかった。殆ど目を合わせて会話などしないので、ああまたいつもの気まぐれかと思う。なんだというのだろう。異常なまでに干渉する癖に、自分の都合で私を遮断する。

 私はなんだか腹が立って、半ば掻き込む様に朝食を食べて学校に向かった。まだいつもの時間で無い為か人通りは疎らだった。たまにはこんな日も良いかもしれないと少しだけいつもよりも気持ちが軽くなった。

 その内消えるだろうと思ったインクは、何故か増えていた。アルボースで出来るだけ丁寧に洗っているのに、どうしてなのかは解らない。

「   、凄いうざいねー」

「ほんと、早くいなくならないかな」

「無視なんて甘いことしないで、もっとやってやったらいいのにさ!あいつむかつくし!」


 幸か不幸か、という皮肉は兎も角、あのグループの下っ端の会話が聞こえた。下っ端というのは、お姫様とたまにしかいることの出来ないやつの事だ。そんな中途半端なやつらにまで何か言われているかと思うとこみ上げてくるものがあるが、私はそいつらが通りすぎるまで待ってからトイレを出た。深い溜息が出たのはやつらの低レベルさからだ。集団でいることでしか自分を確かめられない愚鈍の塊たち。うんざりする。

 しゃりしゃりしゃりしゃりしゃりしゃり。

 またあの音が聞こえる。今度は少しはっきりと。この音は何なのだろうとたった数時間で癖になりつつある指先を見つめれば、汚れが増えている気がした。

 次の日、今度は視界が可笑しくなった。少しだが薄まっている気がする。

「   ちゃん、  おはよう」

 ああやっぱりと思う反面、少しずつ変なことになっているのではないかと考え始めた。

 手の汚れはふつふつと増え、汚れではなく染みといった方がいいのかもしれない。こっそり買った爪の隙間を洗うブラシも全く効果は無かったみたいだ。

 しゃりしゃりしゃりしゃりしゃりしゃり。

 今度は殺虫スプレーが必要だなと思ったけれど、虫は何処にも見当たらなかった。なら、この青虫が葉物を[食/は]む様な音は一体何なのだろうか。

「なんか臭くない?」

 私のところに誰か来たかと思ったら、そんな事を言い始めた。あの廊下で生ぬるい罰に業を煮やしていたやつだ。にやにやと底意地の悪そうな笑みを浮かべていて、本当に愉しそうだ。いつもは馬鹿の戯言と流しているが、この時ばかりは、酷く苛々した。大事な言葉は聞こえないのに、どうでもいい言葉は食まれない。

「ねえ――私がどう臭いの」

 ひたりと、偉そうに叩いた机に置いたままの手を椅子から立ち上がって掴んだ。染みだらけの手はどうにも気付かれていない様だ。私の行動に教室がしん、と静まり返り、そんなに意外だったのかと少しだけ冷えた頭で苦笑した。

「…!さわんないで!」

 振り払われて、私の身体は傾いた。ばたばたと教室から出て行ったのは多分手を洗いに行ったのだろう。振った腕の、丁度私が掴んだ辺りが少しだけ黒くなっていて、本当に伝染病みたいだなと思った。


※※※


 しゃりしゃりしゃり。

 その日は珍しく夢を見た。

 何でか私は丸ごとオーブンで蒸された鳥で、けれど生きていた。こんがり美味しい匂いを漂わせて、頭も手も足も無いのに生きていた。宝石みたいな果物と野菜に囲まれて、好き勝手に[汚/きたな]らしく食われていく。残ったのは骨に少し付いた肉だけでどうせ食べるなら綺麗に、それこそ骨の髄まで食べて欲しかった。果物と野菜はそんな私を笑う。しゃりしゃりしゃりと葉虫みたいな[咀嚼音/そしゃくおん]で、胸がざわついた。高鳴った。笑った。

(でもさ、私に触れたら、あんた達も同じになるんだ)

 私はそんな暗い喜びで笑い返してやった。もう食べられた後だから、笑ってなんかいないけれど。


※※※


 疑心暗鬼。

 この教室は今、それに満たされている。私が触ったあいつが可笑しくなったのは石が転がるより早かった。たった一日で目の下に[隈/くま]が出来て、みるみる痩せ細っていく。怯えたみたいに周りを見渡したりする様はなんだか酷く滑稽だった。

「これはこれで、別に悪くないなぁ」

 私は鏡で自分の姿を見ながら、ほうと息を付く。もう顔まで達しつつある染みはもう驚くというより、当たり前のものになっていた。他のやつらには見えないのは解っているので、別段怯える事もない。魔女狩りの様に火にあぶられることも、手ひどい拷問を受けることもないんだから。

「あ、  ちゃん…。こんなところにいたの」

「こんなところって…私がトイレにいるのが可笑しい?

 白黒漫画の様な線画のやつらが怯えて、困った風にお互いの顔を見合わせている。怯えながらも近づいてきたのはそっちだろうに、馬鹿馬鹿しい限りだ。

 私の立ち位置はあの一件で大きく変わった。一人が転がった事で、お姫様に群がっていた絶対的なバランスが崩れ、ほろほろと零れていった。所詮この程度だったのだろう。

 少し綺麗で、身なりがいいだけで何の努力もしない。[重装/じゅうそう]を[纏/まと]ってろくに動けない頭にわたあめをぶちこんだだけのお人形さん。ああ、そんな目で見ないでよ。最近ますます汚い表情を浮かべて、その内動物になっちゃうんじゃないかなって『みんな』に言ったらくすくす笑っていた。私も愉しくて笑ってしまった。

 しゃりしゃりしゃりしゃりしゃり。

 またあの音だ。折角気分がいいのにちょっと気分が沈む。

 あのお人形さん、本当の動物にでもしてやろうかしら。考えないのなら動物だものね。あの綺麗なワンピースを、夢の私みたいに丸裸に[毟/むし]って捨ててあげたらどんな動物になるんだろう。

 想像するだけでぞくぞくした。今までどうしてこうしなかったんだろうか。こんなに愉しい遊び、すぐ近くにあったのに。

 最近染みの辺りに出来た水泡を癖の様に爪を立てていると、ぶちゅりと嫌な音がした。痛みはなく、血でも出るのかと思ったら、予想もしていないものが出てきた。

 ぬちゃり。

 粘着質な液体を纏って、そろりと現れたのはあの虫だった。真っ黒でぬらぬらとした肢体は随分と昔に見たようにさえ思えた。

 自分の身体から虫が出てくるなんて、妄想でも気分が悪い。どっと嫌な汗は吹き出したが、こいつらは何にも見えていない。大丈夫、だいじょうぶ、ダイジョウブ。

 私の腕を這う虫を机に置いて、親指の腹で虫を圧迫した。ふっと久々の感覚に、無意識に口元が軽くなった。びちっと黒い体液を撒き散らしながら、まだ生きようともぞもぞとたくさんの足を蠢かしている。もう死んでるのに、浅ましいったらない。

 ――でも、なんだか昔みたいな充足感はない。不思議と足りないって感じる。もっとずっと濃いものが欲しい。口の中をどっぷりと満たしてくれる、墨汁の様な暗く[澱/よど]んだ味が。

「ねえ、今度さ、あのワンピースぐちゃぐちゃにしてやろうよ」

 『みんな』の顔が引き[攣/つ]るのが解る。けれど、足りない足りない。あの虫でも食べないその感情は何処までも膨れ上がって消える事はない。『みんな』だってそうでしょう。いい子ちゃんな顔をしていても、弱いものいじめは大好きでしょう。

 ――私はもう虫なんかじゃないって知っている。だって虫は私の中にいて、違うものだって解ったんだから!

 全てが真っ黒になるのをうっとりと想像しながら、私はあの子の顔がどんな風に歪むのか楽しみで仕方無かった。



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