晒し中
トライ・イット・アゲイン
「おばさん、何やってんの」
ぶっきらぼうに掛けられた声に顔を上げると、TシャツにGパン姿の生意気そうな子供が三歩離れた場所でこちらを睨んでいた。
「何って、弾き語り。ピアノの」
目の前にある鍵盤を乱暴に叩きながら言うと「でもそれピアノじゃないじゃん」と至極真っ当な言葉が返ってきた。ローランド社製のシンセサイザー。とっくに廃盤になった中古品のそれは五年前から私の相棒だ。
「おばさん、何か弾いてよ」
「あのねぇ……」
さっきから何度もおばさん呼ばわりされ、私はいい加減頭にきていた。
「私には里子っていう立派な名前があるんだからね。それに年は二十三。まだまだおばさんじゃないわよ」
冷やかしならこれ以上居られても迷惑だ。片手を追い払うように振ってみたが子供はびくともしない。
「お客が来たんだから弾いてよ。そのためにそこに居るんだろ?」
と、またしても正論を吐かれてしまった。
仕方ないので丁度譜面代に楽譜が乗っていた短めの曲を歌う。その間、子供は私の手をずっと見ていた。
「──どう?」
生意気な子供をぎゃふんと言わせたい。そんな思いで言ってみたがへたくそとこき下ろされてしまった。
「だったらあんたは弾けるの?」
大人げなく言い返すと子供の表情が曇った。
「それは、弾けない」
ほらみろ。得意げに鼻を膨らませてみせると子供がムキになったのかこちらへ駆け寄ってくる。怒らせちゃったかな、そう思って首をすくめたけれど子供が口にしたのは思いも寄らない台詞だった。
「俺にも教えてよ、それ」
「え?」
呆気に取られている私を無視し子供は図々しくも隣に立ち、大げさにピアノを弾く構えをしたりあちこちのボタンを押したり捻ったりしている。
──勝手なやつ。そう思ったけれど、私はいつの間にかこの子供のペースに乗せられていた。何より私は誰も立ち止まらない弾き語りというこの世で一番退屈な行為に少し飽き飽きしていたのだ。
「分かったわよ。ねこふんじゃった、教えてあげる」
夕空の下、こうして私と子供の奇妙なレッスンは始まった。
「これがこうで……あ」
「間違えた。減点一ね」
「減点って何のだよ!」
こんなやり取りをしている内にあっという間に時間は過ぎ去り、周囲に夜の気配が漂い始めた。
「あー、そろそろ撤収ね」
ポケットから取り出した携帯電話のディスプレイには七時二十分と表示されている。
「え、まだいいじゃん。もうちょっとやろう」
「だめだめ。早く帰らないとママに叱られるよ」
大体初対面の人間とこんな時間まで話してる方がおかしいんだから。私が不審者に思われるから早く帰りなよ。そう言うと子供は渋々シンセサイザーの隣に置いてあったトートバッグに手を伸ばした。
「そういえば、あんたの名前何て言うの?」
とぼとぼと去っていく背中に問いかけると「トモヒロ」と返事。
「トモヒロ! 私、水曜と金曜はここにいるから。気が向いたらいつでも来なよ」
小さな背中は生意気に片手を挙げて、曲がり角を曲がっていった。
二
その日以来、トモヒロはは水金の五時頃になると私が弾き語りをしている歩道橋の下へやってくるようになった。
基礎を飛ばして曲だけを教えているにも関わらず、トモヒロの上達は異様に早かった。
「へへっ。こんなの楽勝だぜ。シンセって意外と簡単なんだな」
と、生意気なのも相変わらずなので、細かいミスを見つけ黒いマジックを取り出してトモヒロの手の甲に大きくアルファベットを書き連ねた。
TRY IT AGAIN
「これ、どういう意味?」
「もう一度やり直し」
ひでえ、とふくれっ面を浮かべたトモヒロだったが、やがてくすくすと笑い出した。
「そういえばさ、里子ってアレ目指さないの?」
練習の手を休め二人でジュースを啜っていると、トモヒロはそんなことを訊いてきた。
「アレって?」
「プロってやつ! CD送ったり、オーディション受けたりするんだろ?」
プロ、オーディション、プロモ活動。トモヒロの口にした言葉から苦い記憶が蘇り、大きくため息をついて空を見上げた。
「やらないよ、もう。昔はやってたんだけど」
「じゃあ一生アマチュアのまま?」
「いや、こうやって弾き語りやって人を集めればいつかスカウトマンが迎えに……」
そこまで言ってはは、と乾いた笑いがこぼれた。
実力を信じ自らのやり方を貫けばいつかは報われる。そんなのはただの驕りだ。自分を売り込んでいく度胸がなければチャンスさえ訪れない。それがプロを目指すということ。
今までの経験でそのことは痛いほど分かっていたはずなのに、それでもこんなことしか出来ない自分が情けなかった。
「何だよ、それ!」
感傷、哀愁、将来への不安。それらがのし掛かり渦巻いていた気持ちが、トモヒロの怒鳴り声で現実に戻される。
肩を怒らせ、口をへの字に曲げ、実に子供らしい態度で──トモヒロは怒っていた。
「なんで自分ができることがあるのにやらないんだよっ。この臆病者!」
臆病者という単語にかちんときた。
「何よ。子供に何が分かるっていうのよ」
こうしてふくれっ面を浮かべる私の方がよっぽど子供っぽく映っていただろう。私はトモヒロの目を見返すことができなかった。
「分かんないよ。分かんないけど、俺だって──」
トモヒロが更に何か言いつのろうとしたその時。
「トモヒロ、何やってるの!!」
ヒステリックな叫び声と共に、白いブラウスに身を包んだ女性がこちらへ駆け寄ってきた。
「……母さん」
トモヒロが怯えたように肩を竦めたにも関わらず、その人は細い腕を乱暴に取りどこかへ連れて行こうとした。
「やめろっ、離せよ!」
「いいから来なさい! 最近レッスンから帰ってくるのが遅いと思ったらこんな所で……」
そこまで言ってやっと私の存在に気付いたのだろう。その女性はこちらへ冷たい言葉を投げつけてきた。
「トモヒロは今大事な時期なんです。あなたみたいな人と関わっている暇はありませんから」
私とシンセサイザーを一瞥し、一方的に言い切った後、その人はトモヒロの手を引きどんどん離れていく。
「里子っ! おれはそんなコト思ってないから、だから……」
小さくなっていくトモヒロの声を聞きながら、私は缶ジュースを片手に呆然と立ち尽くしていた。
* * *
部屋に着いた私はやたら重く感じるシンセサイザーをケースごと放り出し、その日何度目かになるため息をついた。
トモヒロの言葉。トモヒロの母親の言葉。私の口から出た薄っぺらな言葉。それら全部がのし掛かっているようで、とにかく手足が重かった。
化粧も落とさず、毎日向かっていたはずの五線譜と向かい合うことすらせず、ベッドに横になり目を閉じた。
このまま眠ってしまおうと静寂に耳を委ねていたが、カバンから響いた唐突な電子音に遮られてしまう。
「電話? だれよ、もう……」
ぼやきながら通話ボタンを押すと、聞き覚えのある低い声が私の名前を呼んだ。
「よう、久しぶり」
「ひさしぶり。あんたの声なんて聞きたくなかったけどね、相沢」
皮肉たっぷりに付け加えると相沢は苦笑いをこぼした。
「さては寝こけてたな。ちゃんと化粧落としたのかよ?」
「うっさいわね。で、用件は何?」
意識をはっきりさせるため床にあぐらをかき、テレビを付けながら次の言葉を待つ。
「バンド、戻ってこないか」
寝ぼけていたせいか、その言葉の意味が頭に入ってくるまでに時間が掛かった。
相沢は弱小軽音サークル時代に作ったバンドのベース担当で、私はキーボード担当で、初めて出たオーディションで、私は──
「おかしいだろ! 一回失敗したからって、お前だけあんな逃げ出すみたいな辞め方して! 他の奴らはオレが説得するから……」
「やめてってば!!」
自分で思った以上に大きな声が出て言葉が続かない。重苦しい沈黙の後、なんとか声を絞り出す。
「ごめん。誘ってくれたのは嬉しいけど、ちょっと考えさせて」
「分かった」
相沢はそれ以上何も言わず、私たちは無難な世間話を交わした後通話を終えた。
床に転がるように寝そべり、環境映像が流れるテレビをじっと見つめる。いろんなことが一度に起こり頭がパンクしそうだった。
「あー……、化粧落とさないと」
やるべきこと。捨てるべきもの。それら全てから逃げて漫然と日々を過ごす。トモヒロの言うとおり私は臆病者だ。
『分かんないよ。分かんないけど、俺だって──』
あの時、トモヒロは何が言いたかったんだろう。
そんなことを考えながら眠りについた。
次の日、私が床の上で目を覚ましたのは昼をとうに過ぎた時間だった。完全な寝坊だが幸いにも今日のバイトは休みだ。とりあえず化粧を落とすため、ぎしぎしと鳴る体を起こした。
カーテンを開けたままだった窓からは日が差し込み、付けっぱなしだったテレビからは端整なピアノソナタが流れている。身の回りの全てから置いてけぼりを食らっているみたいなむなしさを感じた。
「国際ジュニアコンクールで見事優勝を果たした村田さんは、この秋よりフランスに活動拠点を移し……」
ピアノソナタを奏でる少年の姿にアナウンスが重なる。音楽番組ではなくニュースの一コマのようだ。
「すごいですねぇ、彼。まだ九歳ですよ」
のんきに感心している女子アナの背後に少年の顔と名前が映し出される。
A大学附属小学校・村田智宏くん
「え?」
小さな燕尾服に身を包み堅い表情を浮かべてはいたがそれは間違いなく、私が「ねこふんじゃった」を教えたトモヒロだった。
若干九歳にしてジュニアコンクール優勝を果たした天才少年。ニュースが伝える“村田智宏”と、私の横でころころと笑いながらシンセサイザーを弾いていた“トモヒロ”がどうしても繋がらない。
何よりあのトモヒロが、こんなに苦しそうな表情をして鍵盤に向かっているのが信じられなかった。
もう一度画面が変わり、マイクを向けられたトモヒロの顔が大写しになる。
「フランスへ行ったら一番最初に何をしたいですか?」「ピアノがすきだから、集中できる環境でもっとピアノを弾きたいです」
画面の向こうのトモヒロは、少しだけ引きつった笑みを浮かべすらすらと、用意された原稿を読み上げるようにインタビューに答えている。
嘘でしょ。本当はもっと言いたいことがあるんでしょ。
インタビュアーからマイクを取り上げ、カメラマンも追い払って、楯も花束も捨てて、肩を揺さぶってでもトモヒロの本音を聞きたかった。
けれどそんなことができる訳もなく、私はニュースが終わりを告げるまで自分の中に芽生えた乱暴な感情を押さえるためにじっと右腕を掴んでいた。
村田さんは今月末に渡仏し、というアナウンサーの言葉が脳裏によぎる。もう会うことが出来ないんだ、そう思うとどうしようもなく悔しくて、なぜかコンテストのスポットライトが落ちた瞬間を思い出した。
もう間に合わないかもしれない。だけど、この世で一番聞かせたい人に歌を聞かせるために、にもう一度五線譜に向かってみたい。そう思った。
引き出しから取り出した五線譜を広げる。一番上の余白の部分に、ぱっと浮かんだ言葉をタイトルとして書き殴った。
あの日聞き損ねたトモヒロの言葉を、私は上手く受け取ることができたのだろうか。
三
一週間ぶりに立った歩道橋の下は、車の排気音や雑踏のざわめきで予想以上に賑やかだった。
「どうしたんだよ、心配したんだぞ。一週間も連絡つかないから」
騒音に何度も邪魔されながら携帯の向こうの声に耳を澄ませる。こちらも歩道橋の下で電波が悪いらしく、通話相手の相沢に声を伝えるのも一苦労だ。
「あはは、ごめんごめん。ちょっと立て込んでて」
声を張り上げてそう告げると、お前みたいな暇人でも立て込むことってあるんだな、と返されてしまった。
「で、用件なんだけどね」
相沢が息をのむ気配が伝わってくる。その優しさに気持ちが揺らぎそうになったけれど、私は一息で言い切った。
「バンドには戻らない」
私は私の納得するまで、もう一度音楽をやってみるから。私がそう言うと相沢は豪快に笑った。
「な、何で笑うのよ! こう見えて悩んでたんだから」
「いや、悪い悪い。……なんか吹っ切れたみたいだな、って」
「これからはライバルなんだからね」
本気にしているか分からないちゃらちゃらした態度だったが、相沢は最後に「がんばれよ」と言ってくれた。
「じゃ、元気でな」
「うん。またね」
そんな短い挨拶を交わし、通話を終える。
これで一区切りついた、新しい気持ちで鍵盤に向かうことができる。そう思うと一層気持ちが軽くなった。
相棒に取り付けた譜面代に一組の譜面と一枚のCDを並べる。
イントロを奏でようと指先に力を込めた瞬間、どこからか高い少年の声が聞こえてきた。
「里子、里子ーっ!」
はっと顔を上げ周囲を見回すと、道の向こうで小さな人影がこちらに向かい手を振っていた。トモヒロだ。
もう二度と会えないだろうと思っていた人と会えた驚きと曲のモデルとなった人がいきなり現れた照れくささで、トモヒロが目の前に寄ってきてからも私は口をパクパクさせることしかできなかった。
「あ、あんたフランス行くんじゃなかったの?」
トモヒロは「へへ、ばれてたか」と笑い、思いも寄らない言葉を口にした。
「あれな、やめた」
「え?」
ニュースになる程の大事だったはずなのに大丈夫なのだろうか。そんな私の心配をよそに、トモヒロはあっけらかんと言った。
「もう、自分に嘘吐くの止めようと思ったんだ。里子の曲聞いててそう思ったから、もう一回聞きに来た」
私の横に並んだトモヒロは、譜面代の上に置いてあったCDをめざとく見つけ取り上げる。
「それ、レコード会社に送ろうと思ってたCDだよ」
そう教えるとトモヒロの目がきらりと輝いた。
「へへ、一からやり直しってことだな。おれも里子も」「ばか。せっかくのチャンス棒に振っちゃって」
それは私もだけど、とは悔しいので付け加えずにおく。
「なあ、聞かせてよ。その曲」
「いいよ」
出会った日と同じように三歩離れて向かい合い、私は楽譜の冒頭部分をなぞり始めた。
その曲のタイトルは──
終