現代小説『じじい、早く帰れ。1400円カット待合室の地獄』
「ボタンを押してください」
「ボタンを押してください」
「ボタンを押してください」
……うるせえ。
さっきから券売機がしゃべり続けている。
1400円カットの店内に響き渡る、無機質な女性の声。
「ボタンを押してください」
(じじい! 早くボタンを押せよ!)
俺は待合室の椅子に座りながら、心の中で叫んでいた。
券売機の前には、一人のじいさんが立っている。
推定年齢、八十歳。
背中は曲がり、動作はゆっくり。頭には、たった今カットされたばかりのわずかな白髪。
じいさんは券売機をじっと見つめている。
まるで銀行のATMで、人生の全財産を引き出すかどうか悩んでいるような顔だ。
しかし、ここは銀行ではない。
1400円カットだ。
髪を切った代金を払うだけだ。カット後、掃除機で頭を吸われる。
「ボタンを押してください」
(だから押せって言ってんだろ!)
じいさんは動かない。
機械も諦めない。
「ボタンを押してください」
(お前も大変だな、券売機。俺も同じ気持ちだよ)
俺は人生で初めて、券売機に親近感を覚えた。
しかし、この地獄が始まったのは、今から十分ほど前のことだった。
俺が1000円カットに来たのは、散髪に金も時間もかけたくなかったからだ。
安い。早い。余計な会話がない。
それが1400円カットの魅力である。
美容室のように、
「今日はお休みですか?」
「お仕事は何をされているんですか?」
「最近どこか行かれました?」
などと、どうでもいい個人情報を聞かれることもない。
髪を切る。
金を払う。
帰る。
実に合理的な場所である。
少なくとも、俺はそう信じていた。
その日、俺の前にいた客は一人。
白髪のじいさんだった。
すでに散髪は終わっている。
つまり、俺の番はもうすぐだ。
よし。
そう思った瞬間だった。
「ところで、年末は何時までやってんの?」
じいさんが店員に質問した。
店員は三十代くらいの男性。
非常に真面目そうな人である。
「年末は十二月三十一日までやっていると思います」
「そうかい。じゃあ、一月は何日から?」
「元旦と二日と三日は休みだと思います」
「えっ? 一月はそれだけしか休みないの?」
知らねえよ。
(おい、じじい。お前は労働基準監督署の人間か?)
なぜ他人の正月休暇をそんなに心配する。
お前はもう髪を切り終わっているんだ。
帰れ。
店員は申し訳なさそうに答えた。
「えーと、私、実は別の店舗から応援に来ているので、詳しくはわからないんですけど……」
(ほら! 知らねえって言ってんだろ!)
じいさん、スマホで調べろ!
いや、スマホ持ってないなら家族に聞け!
それも無理なら十二月三十一日に電話しろ!
とにかく帰れ!
しかし、じいさんは新たな情報を手に入れてしまった。
「ほう。あんた、別の店から来てるの?」
「はい」
「あんた、そういえば見かけない顔だねぇ」
(お前、1000円カットの店員の顔を全部覚えてんのかよ!)
「普段は別の駅のほうにある、○○ビルの店舗で働いてまして」
「ああー! あのビル!」
じいさんの声が急に大きくなった。
嫌な予感がした。
「あのビルはねぇ、美味しいトンカツ屋が入っているんだよ」
出た。
トンカツ屋。
(なんでだよ!)
さっきまで年末年始の営業日を確認していたはずなのに、どうしてトンカツの話になるんだ。
「私はねぇ、あそこのトンカツが大好きでねぇ」
「そうなんですね」
「衣がサクサクしてるんだよ」
「へえ、そうなんですか」
「キャベツもたっぷりでねぇ」
(じじい! 俺はお前のグルメ情報を聞きに来たんじゃねえ!)
店員も大変だ。
接客業という仕事は、髪の毛だけでなく、お客様の雑談まで丁寧に処理しなければならないらしい。
俺の順番は、まだ来ない。
じいさんは椅子から立ち上がった。
よし!
帰る!
ついに帰る!
俺は心の中で小さくガッツポーズをした。
しかし、甘かった。
じいさんは鏡の前に立った。
そして自分の頭を眺めながら、しみじみと言った。
「私はねぇ、いま独り者だからねぇ」
(知らねえよ!)
「髪型なんか、誰も気にしないんだけどねぇ」
「はぁ……」
「でも、やっぱり髪の毛を切ると、さっぱりしていいねぇ」
(おい、じじい! 感想は家で言え!)
だいたい、誰も気にしないなら、なぜそんなに長々と鏡を見ているんだ。
お前の頭には、もう確認するほどの毛量が残っていないだろ。
だが店員は優しい。
「そうですね。さっぱりしますよね」
この人、いい人だ。
俺ならとっくに、
「はい、次の方どうぞ!」
と、叫んでいる。
すると、じいさんが突然、何かを思い出したように言った。
「ああ、そうだ」
おっ。
なんだ。
「お金を払わないといけないねぇ」
(忘れてたのかよ!!)
散髪に来たんだろ!
髪を切ったら金を払う。
それが社会のルールだ。
トンカツの話をしている場合じゃない。
「お支払いは、あちらの自動券売機でお願いします」
店員が入口の機械を指さした。
「ほう。あれかい」
じいさんはゆっくりと歩き始めた。
一歩。
二歩。
三歩。
ようやく券売機の前に立つ。
俺は心の中で拍手を送った。
長かった。
実に長い戦いだった。
しかし、そこから第二ラウンドが始まった。
「ボタンを押してください」
券売機が言った。
じいさんは機械を見つめた。
「ボタンを押してください」
じいさんは顔を近づけた。
「ボタンを押してください」
じいさんはメガネを直した。
(押せよ!!)
何をそんなに確認しているんだ。
機械は別にクイズを出しているわけじゃない。
ボタンを押せと言っている。
ただそれだけだ。
「ボタンを押してください」
(おい、じじい! 券売機が四回も同じこと言ってるぞ!)
じいさんはようやく口を開いた。
「あれ? これはどうすればいいんだい?」
(だからボタンを押すんだよぉぉぉ!!)
券売機の説明は正しかった。
一文字も間違っていない。
こんなにわかりやすい説明が、どうして伝わらないのか。
店員がカット用の椅子から離れて、じいさんのところへ向かった。
「こちらのボタンを押していただいて……」
「ああ、これかい」
ポチッ。
ついに押した!
人類が月面に降り立った瞬間も、きっとこれくらい感動的だったに違いない。
すると機械が言った。
「お金を投入してください」
じいさんが財布を取り出す。
嫌な予感がした。
案の定、じいさんは小銭入れを開き、硬貨を一枚ずつ取り出し始めた。
十円。
五十円。
百円。
十円。
(おいおいおい!)
なぜ千円札を使わない。
じいさんは財布の中を丹念に調べている。
まるで徳川埋蔵金でも探しているようだ。
「えーと……百円玉が……」
(もういい! 俺が払う!)
危うく財布を取り出しかけた。
俺は今、千円で人間の自由時間を買えるなら、喜んで買いたかった。
ようやく支払いが終わった。
じいさんが券売機から離れる。
よし、今度こそ終わりだ。
そう思った。
「いやあ、最近は便利になったねぇ」
(感想はいらねえって!!)
「昔はねぇ、こういう機械なんかなかったんだよ」
(知ってるよ!!)
「全部、人がやってくれたんだよねぇ」
(だから人がやらなくて済むように機械になったんだよ!!)
店員は笑顔でうなずいた。
「そうですねぇ」
じいさんは満足そうだった。
そして出口へ向かい、ドアの前で振り返った。
「じゃあ、よいお年を」
店員が答える。
「ありがとうございます。よいお年を」
(よいお年を! 頼むからもう帰ってくれ!)
じいさんはゆっくりと外へ出ていった。
自動ドアが閉まる。
静寂が訪れた。
俺は深く息を吐いた。
勝った。俺たちはなにかに勝ったのだ。
「お次のお客様、どうぞ」
ようやく俺の番が来た。
俺は散髪用の椅子に座る。
店員が尋ねた。
「今日はどのようにいたしましょうか?」
「短めで刈り上げでお願いします」
「かしこまりました」
バリカンの音が響く。
ウィィィィン。
ああ、素晴らしい。
これだ。
これが1400円カットだ。
無駄な会話など必要ない。
五分もすれば終わる。
俺は目を閉じた。
すると店員が言った。
「先ほどのお客様、いつも来てくださる方なんですよ」
「へえ……」
「お一人暮らしみたいで、よくお話しされるんです」
「そうなんですか」
「奥様を亡くされてから、あまり人と話す機会がないそうで」
俺は黙った。
……そうか。
じいさんは一人暮らしなのか。
奥さんもいない。
家族と話す機会も少ない。
だから、1000円カットに来ると、つい話し込んでしまうのかもしれない。
あの年末年始の質問も、トンカツ屋の話も、髪を切った感想も。
誰かと話をしたかっただけなのだろう。
人間、誰だって年を取る。
いつか俺も、あんなじいさんになるのかもしれない。
そんなことを考えていると、店員が続けた。
「でも、今日はまだ短いほうでしたよ」
「えっ?」
「いつもは三十分くらいお話しされるので」
……。
三十分?
1400円カットで?
「この前なんか、トンカツ屋さんの話だけで十分くらい……」
(じじい!! またトンカツかよ!!)
俺の反省は三秒で終わった。
自動ドアが閉まる直前。
店内から、あの無機質な自動音声の女性の声が聞こえてきた。
「ありがとうございました」
(お前だけは、余計なことを言うんじゃねえよ)
現代小説『じじい、早く帰れ。1400円カット待合室の地獄』
――完――




