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現代小説『じじい、早く帰れ。1400円カット待合室の地獄』

作者: 虫松
掲載日:2026/10/28

「ボタンを押してください」


「ボタンを押してください」


「ボタンを押してください」


……うるせえ。


さっきから券売機がしゃべり続けている。


1400円カットの店内に響き渡る、無機質な女性の声。


「ボタンを押してください」


(じじい! 早くボタンを押せよ!)


俺は待合室の椅子に座りながら、心の中で叫んでいた。


券売機の前には、一人のじいさんが立っている。


推定年齢、八十歳。


背中は曲がり、動作はゆっくり。頭には、たった今カットされたばかりのわずかな白髪。


じいさんは券売機をじっと見つめている。


まるで銀行のATMで、人生の全財産を引き出すかどうか悩んでいるような顔だ。


しかし、ここは銀行ではない。


1400円カットだ。


髪を切った代金を払うだけだ。カット後、掃除機で頭を吸われる。


「ボタンを押してください」


(だから押せって言ってんだろ!)


じいさんは動かない。


機械も諦めない。


「ボタンを押してください」


(お前も大変だな、券売機。俺も同じ気持ちだよ)


俺は人生で初めて、券売機に親近感を覚えた。


しかし、この地獄が始まったのは、今から十分ほど前のことだった。



俺が1000円カットに来たのは、散髪に金も時間もかけたくなかったからだ。


安い。早い。余計な会話がない。


それが1400円カットの魅力である。


美容室のように、


「今日はお休みですか?」


「お仕事は何をされているんですか?」


「最近どこか行かれました?」


などと、どうでもいい個人情報を聞かれることもない。


髪を切る。

金を払う。

帰る。

実に合理的な場所である。


少なくとも、俺はそう信じていた。


その日、俺の前にいた客は一人。


白髪のじいさんだった。


すでに散髪は終わっている。


つまり、俺の番はもうすぐだ。


よし。


そう思った瞬間だった。


「ところで、年末は何時までやってんの?」


じいさんが店員に質問した。


店員は三十代くらいの男性。


非常に真面目そうな人である。


「年末は十二月三十一日までやっていると思います」


「そうかい。じゃあ、一月は何日から?」


「元旦と二日と三日は休みだと思います」


「えっ? 一月はそれだけしか休みないの?」


知らねえよ。


(おい、じじい。お前は労働基準監督署の人間か?)


なぜ他人の正月休暇をそんなに心配する。


お前はもう髪を切り終わっているんだ。


帰れ。


店員は申し訳なさそうに答えた。


「えーと、私、実は別の店舗から応援に来ているので、詳しくはわからないんですけど……」


(ほら! 知らねえって言ってんだろ!)


じいさん、スマホで調べろ!


いや、スマホ持ってないなら家族に聞け!


それも無理なら十二月三十一日に電話しろ!


とにかく帰れ!


しかし、じいさんは新たな情報を手に入れてしまった。


「ほう。あんた、別の店から来てるの?」


「はい」


「あんた、そういえば見かけない顔だねぇ」


(お前、1000円カットの店員の顔を全部覚えてんのかよ!)


「普段は別の駅のほうにある、○○ビルの店舗で働いてまして」


「ああー! あのビル!」


じいさんの声が急に大きくなった。


嫌な予感がした。


「あのビルはねぇ、美味しいトンカツ屋が入っているんだよ」


出た。


トンカツ屋。


(なんでだよ!)


さっきまで年末年始の営業日を確認していたはずなのに、どうしてトンカツの話になるんだ。


「私はねぇ、あそこのトンカツが大好きでねぇ」


「そうなんですね」


「衣がサクサクしてるんだよ」


「へえ、そうなんですか」


「キャベツもたっぷりでねぇ」


(じじい! 俺はお前のグルメ情報を聞きに来たんじゃねえ!)


店員も大変だ。


接客業という仕事は、髪の毛だけでなく、お客様の雑談まで丁寧に処理しなければならないらしい。


俺の順番は、まだ来ない。


じいさんは椅子から立ち上がった。


よし!


帰る!


ついに帰る!


俺は心の中で小さくガッツポーズをした。


しかし、甘かった。


じいさんは鏡の前に立った。


そして自分の頭を眺めながら、しみじみと言った。


「私はねぇ、いま独り者だからねぇ」


(知らねえよ!)


「髪型なんか、誰も気にしないんだけどねぇ」


「はぁ……」


「でも、やっぱり髪の毛を切ると、さっぱりしていいねぇ」


(おい、じじい! 感想は家で言え!)


だいたい、誰も気にしないなら、なぜそんなに長々と鏡を見ているんだ。


お前の頭には、もう確認するほどの毛量が残っていないだろ。


だが店員は優しい。


「そうですね。さっぱりしますよね」


この人、いい人だ。


俺ならとっくに、


「はい、次の方どうぞ!」


と、叫んでいる。


すると、じいさんが突然、何かを思い出したように言った。


「ああ、そうだ」


おっ。


なんだ。


「お金を払わないといけないねぇ」


(忘れてたのかよ!!)


散髪に来たんだろ!


髪を切ったら金を払う。


それが社会のルールだ。


トンカツの話をしている場合じゃない。


「お支払いは、あちらの自動券売機でお願いします」


店員が入口の機械を指さした。


「ほう。あれかい」


じいさんはゆっくりと歩き始めた。


一歩。


二歩。


三歩。


ようやく券売機の前に立つ。


俺は心の中で拍手を送った。


長かった。


実に長い戦いだった。


しかし、そこから第二ラウンドが始まった。


「ボタンを押してください」


券売機が言った。


じいさんは機械を見つめた。


「ボタンを押してください」


じいさんは顔を近づけた。


「ボタンを押してください」


じいさんはメガネを直した。


(押せよ!!)


何をそんなに確認しているんだ。


機械は別にクイズを出しているわけじゃない。


ボタンを押せと言っている。


ただそれだけだ。


「ボタンを押してください」


(おい、じじい! 券売機が四回も同じこと言ってるぞ!)


じいさんはようやく口を開いた。


「あれ? これはどうすればいいんだい?」


(だからボタンを押すんだよぉぉぉ!!)


券売機の説明は正しかった。


一文字も間違っていない。


こんなにわかりやすい説明が、どうして伝わらないのか。


店員がカット用の椅子から離れて、じいさんのところへ向かった。


「こちらのボタンを押していただいて……」


「ああ、これかい」


ポチッ。


ついに押した!


人類が月面に降り立った瞬間も、きっとこれくらい感動的だったに違いない。


すると機械が言った。


「お金を投入してください」


じいさんが財布を取り出す。


嫌な予感がした。


案の定、じいさんは小銭入れを開き、硬貨を一枚ずつ取り出し始めた。


十円。


五十円。


百円。


十円。


(おいおいおい!)


なぜ千円札を使わない。


じいさんは財布の中を丹念に調べている。


まるで徳川埋蔵金でも探しているようだ。


「えーと……百円玉が……」


(もういい! 俺が払う!)


危うく財布を取り出しかけた。


俺は今、千円で人間の自由時間を買えるなら、喜んで買いたかった。


ようやく支払いが終わった。


じいさんが券売機から離れる。


よし、今度こそ終わりだ。


そう思った。


「いやあ、最近は便利になったねぇ」


(感想はいらねえって!!)


「昔はねぇ、こういう機械なんかなかったんだよ」


(知ってるよ!!)


「全部、人がやってくれたんだよねぇ」


(だから人がやらなくて済むように機械になったんだよ!!)


店員は笑顔でうなずいた。


「そうですねぇ」


じいさんは満足そうだった。


そして出口へ向かい、ドアの前で振り返った。


「じゃあ、よいお年を」


店員が答える。


「ありがとうございます。よいお年を」


(よいお年を! 頼むからもう帰ってくれ!)


じいさんはゆっくりと外へ出ていった。


自動ドアが閉まる。

静寂が訪れた。

俺は深く息を吐いた。


勝った。俺たちはなにかに勝ったのだ。


「お次のお客様、どうぞ」


ようやく俺の番が来た。


俺は散髪用の椅子に座る。


店員が尋ねた。


「今日はどのようにいたしましょうか?」


「短めで刈り上げでお願いします」


「かしこまりました」


バリカンの音が響く。


ウィィィィン。


ああ、素晴らしい。


これだ。


これが1400円カットだ。


無駄な会話など必要ない。

五分もすれば終わる。

俺は目を閉じた。


すると店員が言った。


「先ほどのお客様、いつも来てくださる方なんですよ」


「へえ……」


「お一人暮らしみたいで、よくお話しされるんです」


「そうなんですか」


「奥様を亡くされてから、あまり人と話す機会がないそうで」


俺は黙った。


……そうか。


じいさんは一人暮らしなのか。

奥さんもいない。

家族と話す機会も少ない。


だから、1000円カットに来ると、つい話し込んでしまうのかもしれない。


あの年末年始の質問も、トンカツ屋の話も、髪を切った感想も。


誰かと話をしたかっただけなのだろう。


人間、誰だって年を取る。


いつか俺も、あんなじいさんになるのかもしれない。


そんなことを考えていると、店員が続けた。


「でも、今日はまだ短いほうでしたよ」


「えっ?」


「いつもは三十分くらいお話しされるので」


……。


三十分?


1400円カットで?


「この前なんか、トンカツ屋さんの話だけで十分くらい……」


(じじい!! またトンカツかよ!!)


俺の反省は三秒で終わった。


自動ドアが閉まる直前。


店内から、あの無機質な自動音声の女性の声が聞こえてきた。


「ありがとうございました」

(お前だけは、余計なことを言うんじゃねえよ)



現代小説『じじい、早く帰れ。1400円カット待合室の地獄』


――完――

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― 新着の感想 ―
楽しく拝読させていただきました。 今は何でも電子化、キャッシュレス化が進み、高齢者の方には何かと大変な時代なのかもしれませんね。 そういう話ではないのかもしれませんが、そんな中で千円カットのお店で…
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