殿中、一太刀にて候 浅野内匠頭の執念
浅野内匠頭のリベンジなるか?
額を割った感触。眉間を滑った切っ先。滴る血。
そして、死にきらずに逃げ惑う老人の、無様な背中。
(浅かった――)
その悔恨だけが、浅野内匠頭長矩の魂に焼き付いていた。
切腹の痛みなどどうでもいい。お家断絶も、家臣たちの路頭の苦しみも、極論すればどうでもよかった。
武士として刀を抜きながら、相手を仕留め損なった。その恥辱。その未熟。
だから、二度目の生を得て、再びこの元禄の世に浅野長矩として目覚めた時、彼は誓ったのだ。
お家を救う? 違う。
円満な解決? 違う。
――次は、絶対に殺す。
元禄十四年三月。江戸城、松の廊下での事件まであと数日。
歴史の修正力なのか、それとも運命の悪戯か、吉良上野介義央による陰湿な嫌がらせは、史実通り、いや、それ以上に苛烈を極めていた。
「浅野殿。この進物はなんだ。鰹節だと? 田舎侍はこれだから困る。季節外れの魚など、猫も跨ぐわ」
控室にて、吉良が扇子で進物を突っ返す。周囲の諸大名から、忍び笑いが漏れる。
かつての長矩ならば、顔を真っ赤にして震えていた場面だ。
だが、今の長矩は違った。
「誠に、申し訳ありませぬ」
長矩は、畳に額を擦り付けんばかりに平伏した。
その目は、床を見つめているのではない。上目遣いに、吉良の身体的特徴を貪るように観察しているのだ。
(吉良殿は右膝が悪い。立ち上がる時、左足に重心が乗る。その瞬間、上体は右へわずかに傾く)
(首の肉付きは老人にしては厚い。だが、喉仏の直下。着物の襟との隙間、約二寸。あそこだ)
「おい、聞いているのか。返事ばかり良くて中身がないぞ!」
吉良が苛立ち紛れに、長矩の烏帽子を扇子で叩いた。パパン、と乾いた音が響く。
屈辱的な行為だ。だが、長矩の脳内では冷静な計算式が走るだけだった。
(扇子を振り上げる速度。反応速度の低下。今の間合いなら、私が抜刀し、踏み込み、刃が首に到達するまで〇・八秒。彼が驚愕で目を見開き、悲鳴を上げようと息を吸うのが〇・五秒。……間に合う)
「申し訳ありませぬ。不調法ゆえ、何卒ご指導を」
「ふん、まったく。赤穂の侍は礼儀作法も知らぬと見える」
長矩は深く頭を下げたまま、口元だけで酷薄に笑った。
もっと罵れ。もっと油断しろ。
その油断が、貴様の首を胴から切り離す潤滑油になる。
運命の朝が来た。
長矩は登城前、愛刀の手入れを念入りに行った。
殿中差。本来は儀礼用の短い刀だが、長矩は密かに研ぎ師を呼び、「骨まで断てる」業物に仕上げさせていた。
江戸城内、松の廊下。
春の日差しが差し込む長い廊下を、吉良上野介が留守居役の梶川与惣兵衛と談笑しながら歩いてくる。
「あやつも懲りん男よ。今日もまた、的外れな菓子を持ってきたわ」
「ははは、上野介様も難儀ですな」
二人の笑い声が聞こえる。
長矩は物陰で息を整えた。
心拍数は平常。手の震えなし。殺気は――完全に消した。
(前回は叫んでしまった。「この間の遺恨覚えたるか」と。あれがいけなかった)
(声を出せば筋肉が強張り、相手にも初動を悟られる)
長矩は、能面のような無表情で廊下へ進み出た。
足音を殺し、すべるように背後へ迫る。
長袴は動きにくい。だが、この三ヶ月、夜な夜な長袴を履いて抜刀術だけを繰り返してきた。今の彼にとって、この袴は足枷ではない。バネだ。
距離、二間。
吉良が、ふと気配を感じて振り返ろうとする。
「ん? おお、浅野ど――」
その瞬間、世界がスローモーションになった。
長矩の左手が鯉口を切り、右手が柄を走る。
叫ばない。唸らない。
ただ、風が吹くように。
――ヒュッ。
白刃が一閃。
それは、恨みを晴らすための剣ではなかった。ただ「切断する」という物理現象を完遂させるためだけに放たれた、純粋暴力の軌道。
ドサッ、と重い音がした。
次いで、ゴロリ、と何かが転がる音が続く。
廊下に静寂が満ちた。
梶川与惣兵衛が、口を半開きにして硬直している。
目の前には、首のない吉良上野介の胴体が、立ったまま数瞬揺らぎ――やがて噴水のように血を吹き上げて崩れ落ちた。
転がった首は、驚いた表情のまま、遥か彼方まで滑っていった。
完璧だった。
骨に阻まれる感触すらなく、豆腐を切ったかのような手応え。
長矩はゆっくりと残心を示し、懐紙を取り出して刀の血を拭った。
「殿中でござる! 殿中でござるぞ!!」
遅れて響く絶叫。駆け寄ってくる侍たち。
梶川が背後から組み付いてくる。「浅野殿! ご乱心か!」
長矩は抵抗しなかった。されるがままに取り押さえられながら、ただ満足げに、転がった吉良の首を見つめていた。
「乱心にあらず」
長矩は、澄み渡った声で言った。
「ただの、あだ討ちにござる。……あぁ、二度は要らなんだな」
即日切腹。
田村右京太夫邸の庭先にて、浅野長矩は白装束に身を包んでいた。
赤穂藩は改易、お家取り潰しは免れない。
筆頭家老の大石内蔵助をはじめ、家臣たちは明日から浪人となるだろう。
(すまぬ、内蔵助)
長矩は心の中で詫びた。
だが、同時にこうも思ったのだ。
(しかし、あの欲深き老骨を生き長らえさせ、お主らに一年半も臥薪嘗胆させ、雪の降る寒い夜に討ち入りなどという難事をさせるよりは、私がここで終わらせた方がよかろう)
四十七士の忠義の物語は、この世から消滅した。
彼らはただの「主君が殿中で人を斬って潰れた藩の元家臣」として、困惑しながら生きることになるだろう。
それでも、主君の太刀筋が見事であったという噂だけは、武士としての彼らのプライドを少しばかり慰めるかもしれない。
検死役が名を呼ぶ。
三宝に乗せられた短刀を手に取る。
前世の未練は晴れた。
吉良は死んだ。確実に、我が手で葬った。
これ以上の快楽が、この世にあるだろうか。
長矩は口元に微かな笑みを浮かべ、あの日、吉良の額しか傷つけられなかった未熟な自分に別れを告げた。
「風さそう 花よりもなお 我はまた」
辞世の句を詠みかけ、ふと止める。
名残惜しいものは何もない。
「……いや、もうよい。満足じゃ」
ズブリ。
迷いなく突き立てられた刃と共に、狂気と喜悦に満ちた二度目の生涯が幕を閉じた。
赤穂の春は、血の匂いと共に、けれどどこか晴れやかに暮れていった。
貴重なお時間を頂きありがとうございました。




