【第9話】向けられた怒りに怒りで返すと取り返しのつかないことになるらしい。
あれから八社宮さんと顔を合わせたのは休み明けの月曜日——放課後のバイトだった。
満月と流星群が重なり、客足が伸びる中で八社宮さんは盛大にミスを連発している。
俺はバイトリーダーとして配布期限の過ぎたシフト表を作りながら、バックルームの陰から彼女の姿を覗く。
ホールの隅で山根さんに頭を下げる八社宮さんのポニーテールが上下に何度も揺れ動いている。
番号の打ち間違い、席の通し間違い。
先日のトラブルを除いて、新人の割にミスなく働いていた彼女がここにきてミスを繰り返した。
俺は、彼女の下瞼にできた隈の存在にも気づいているし、ミスをした要因も知っている。
けれど、嫌な客に絡まれた訳でもない彼女を俺は助けることはできない。
ただ、他人事のように見つめることしかできない。他人事……そう、他人には助けられないのだ。
「メモ取らないからよ。メモを取ることは社会人としての常識よ? 前にも何度も言ったでしょ。そんなこともできないようじゃ、社会に出る資格ないわよ?」
ホール責任者の山根さんのよく通る声は鮮明に聞こえる。
ふくよかな体型からにじみ出る圧は、少し離れた場所でさえ喰らわれそうになる。
八社宮さんは言い訳もなく、相変わらず謝り続けていた。
「もういいよ、今日は新メニューでも覚えてて」
頭を下げた八社宮さんが振り向いた時——視線が交差した。
それから八社宮さんは気まずそうにサイドの髪を指で撫でて整える。
気まずいのは俺のほうも同じで、思わず顔を伏せた。
バックルームに入ってきた彼女は、どうすべきか逡巡したあとで「失礼します」と向かいの席に腰をかけた。
新メニューのフライヤーを見つめていたが、傍らに置かれた手のひらサイズのメモ帳には文字の一つも刻まれていない。
沈黙に耐え兼ね先に口を開いたのは八社宮さんだった。
「失敗してしまいました」
自分に責任を感じている彼女に何と声を掛けるのが正解なのだろう。
「間違いなんて俺もごまんとしてきた」
それが精一杯の励ましのつもりだったのに、弱っている彼女は、あっさり弱音を零す。
「ですが……私は努力で越えられません」
ぽつりとつぶやく八社宮さんの横顔には、成す術ない無力感が滲んでいた。
彼女の長い睫毛が微かに湿っている。
「……なんて返せばいいか分かんないんだけど」
どうしてか俺は、そんな彼女の姿に苛立ちを覚えつつあった。
「すみません」
弱々しく何度も謝る彼女に誰かを重ねていた。
「八社宮さん見てると、自分だけが努力してるみたいに感じる。こんなに頑張ってるのに、どうして報われないんだって」
「そんなことは……」
「できないことあんなら、できる人に任せればいいじゃん。できないくせに無理に頑張られる方が邪魔じゃない? 漫画家で食っていけるならそれに専念したらどうですか」
つい口にしていた。ついでは許されない言葉を。
八社宮さんが沸々と唇を嚙みしめていた。
「……雨宮さんに私の何が分かるんですか」
彼女はいつも俺を呼ぶ名前が違っている。
近づいては離れていく俺に向けて、その距離を測るように。
だけど、今、俺を雨宮さんに戻し彼女は俺に怒りを向けている。
「雨宮さんはいいですよね。何でもできて、おうちも裕福そうですし、何不自由なく、ピアノもあんなに弾けて」
やはり、聴かれていた。
聴かれたことよりも……俺とASAHIが結びつけられることの方がよほど怖い。俺の手は小刻みに震えていた。
「どうして教えてくれなかったんですか!
ピアノの話だって前にしたのに、あんなに弾けるなら言ってくれてもいいじゃないですか。
私のコミュニケーションが下手だからですか!?
馬鹿にしてるんですよね、雨宮さんも」
冷静のつもりなのに、冷静でいられているのか自分の感情を知るバロメーターが壊れたように機能しない。
吸いづらくなった酸素を懸命に取り込んだが、耐えきれなくなって吐き出す。
「八社宮さんに難があるなんてこと一度も思ったことない。ピアノのことは言いたくなかったから言わなかった。それだけ」
そこで言い淀んだが、八社宮さんが突っ込まれる前に再び口を開く。
「――文字が読めないぐらい……大したことない。俺だって、指折りしなきゃ足し算もできない。誰だって何かしら抱えて生きてんだよ……俺なんてもっと……」
それから先が言えなくなった。
表面上、冷静であっても放った言葉はどうしようもない熱を帯びていた。
言ってはいけないことを言った。
さっきまで落ち込んでいた八社宮さんの顔にどうしようもない悔しさが刻まれていた。
「そうですよね……太陽くんなら分かってくれるかもと思ったのに!」
八社宮さんは勢いよく椅子から立ち上がり、駆け出すようにバックルームを出ていた。
頭に昇った熱が篭りつづけ、耳の奥でじんじんと鼓動を打ち鳴らしている。
その鼓動が止まぬうちに、八社宮さんは行く当てなくおずおず戻ってきて俺に頭を下げた。
なのに、俺は不貞腐れて彼女と視線を逸らした。
シフト表に書かれた『八社宮』の名前にいくら謝ったところで、許してはもらえない。
もはやここまで彼女を避け続けようとする自分に嫌気がさしてくる。
けれど、八社宮 唯子を拒否する日ももう終わりだろう。
彼女がここを辞めてしまえば、俺との接点は消えてしまうのだから。




