【第8話】偶然は偶然であって、必然に出会ってしまうことはないらしい。
「お姉さん、晴日の演奏は聴いてくれましたか?」
何故か晴日が八社宮さんをその人懐っこい笑顔で見上げている。
「は、はい」
そして、八社宮さんは年下の晴日に何故か緊張している。
「どうでしたか?」
不安気に尋ねる晴日に八社宮さんがふと我に返ったようだった。それから晴日と目線を合わせると、柔らかい笑みを晴日に向ける。
「とても、明るく元気で……私は勇気をもらいました」
その言葉に晴日の顔が満面の笑みに包まれた。それは、晴れ渡る青空のような。
眼前で広がる不思議な光景に、どうしてか俺は不自然な安らぎを感じていた。だが、同時に焦燥が全身を掠めていく。
「――ほら晴日、何か買うんだろ? 早く選ぼう」
そんな風に、俺は妹を誘導して八社宮さんとの会話を遮断する。
「買うのです!」
店に戻っていく晴日の姿を見つめながら、わざとらしく言葉を紡いだ。
「いやーこんな偶然もあるんだな」
この場をどう切り抜けるか。
それしか考えていなかった。
「兄様、これにします! 買ってください」
遠くで手招く晴日に安堵する。
背後で感じる八社宮さんの視線。
一瞥した八社宮さんの横顔は、一面ガラス張りの壁面から差し込む明るい日差しに照らされていた。
どうしてか八社宮さんの瞳が揺れている。
晴日との繋がりを考える余裕もなく、俺は一刻も早くこの場から立ち去りたかった。
「あー、行かなきゃ。じゃね、八社宮さん」
失礼な程に八社宮さんと視線を合わせないようにする。
「――太陽くん……!」
そんな俺を、八社宮さんは呼び止めた。
「はい?」
振り返ると八社宮さんが戸惑いを浮かべながらこちらを見つめていた。
行き交う人々の華やかさを掻き消してしまいそうなその人。彼女と一定の距離を保とうと対照的に動く点の距離をより遠くへ追い込むようにホテルの出入り口から冬の冷たい風が流れ込んだ。
「すみません……何でもありません。またお店で」
不自然な態度の男に八社宮さんの柔らかな声が落ちる。風と共に全身に注がれては擦り抜けていく。けれど、彼女の音があちこちに小さな欠片を残していく。
――どうしたら、八社宮 唯子との繋がりを断つことができるのか。
「兄様、そんなに握り締めないでください! 苦しんでいます」
俺は、妹が欲しがるマスコットをレジに置き、会計をしながら思考を回し続けた。
レジから一瞥した時、さっきまでそこにあった八社宮さんの姿はもうなかった。
それでも、彼女のいた場所は相変わらず眩しい。
「1870円です」
「――あ、はい。え、そんなすんの!?」
そうして俺は暗がりのレジに視線を落とす。
光の方へ向くことのないように。
*
母さんたちがほろ酔いで二次会に向かう姿を冷ややかに見送り、晴日と二人で家路につく。
その道中で晴日が尋ねてきた。
「お姉さんとまた会えますか?」
昔から誰にでも愛想を振り撒き話しかけに行ってしまう性格だが、さぞかし八社宮さんのことを気に入ったらしい。厄介だ。
「八社宮さんは店のバイトだから、店に来れば会えるよ」
「お姉さんはハサミさんというのですね! またお会いしたいです」
着飾ったワンピースのスカートを揺らしながら晴日は俺の少し前をぴょんぴょんと跳ね歩く。
「お前、八社宮さんに何か話したか?」
少しずつ日が沈んでいく。
夕日の色が晴日の影を伸ばす。
「話しました」
「え?」
純粋無垢無邪気な妹に冷や汗をかいた。
晴日がもしも、俺がピアノをやっていたことを八社宮さんに話していたら、きっと八社宮さんは聞きたがるだろう。何故、あの時ピアノが弾けることを言わなかったのか。それと、店にあるあの古い母のピアノの音を。
「晴日の好きな音の話です」
え?
「好きな音?」
「はい! 世界一好きな音の話です」
「は? よく分かんないんだけど」
一瞬振り返った妹の笑み。首を傾げる俺を置き去りにするように、晴日はまた弾むような足音を鳴らしながら前を行く。
「兄様には、関係のない話です」
「そうかよ」
妹は知らない。
俺にとって自分の存在がどれ程大切なものか。そんなことを言うと飾り気に聞こえるだろうし、決して口にはしない。けれど、それだけは嘘偽りない僕の本心だ。




