【第5話】ピアノ線は、ハサミで切れないし、それどころかどこかに繋がっているらしい。
それから八社宮さんの絵を描くところを見学し、俺は互いに下手をこく前にと早めに退散した。
実際、俺自身も八社宮さんがどうやって文字を入れているのか気になったが、どうせ音声入力とかいう文明の力を使っているのだろう。
八社宮さん宅からの帰り道、電車内では終始、興奮気味だった御岳が最寄りに着いて自転車に乗った途端に口数が減った。
夕焼け小焼け、哀愁漂う土手道でふいに御岳がつぶやく。
「いいのかよ、言わないで。『俺こそが君の好きな“ASAHI”さ』って」
下手な芝居だ。
だが、奴なりに考えていたのだろう。
「聞いてたのか」
そう言えば、あの時話題が切り替わったのも御岳のお陰だったな。知らない間に俺もこいつに助けられている訳か。
「はあ、先生の心は既に君に向いているんだね」
変なため息を漏らしながら上り坂に備えギアを変える御岳。立ち漕ぎで坂を登っていく姿に俺も続いた。
見えてくる坂の上の景色。
毎日見るこの景色に真新しさも感じない。
それでも坂道を登る間、俺は胸の中にある気持ちをまとめ続けていた。
坂を登り切り、息を吐きながら立ち止まる奴の後ろ姿に宣言する。
「――言うつもりは、ない」
それは俺自身への宣言でもあった。
俺の答えに御岳は振り返った。
しばらく俺の目を気持ち悪い程じとっとした目で見つめてから、「そか」とだけ漏らし再び自転車を漕ぎ出した。
何事もなかったかのように、後ろに続く。
言いたいことは分かる。
八社宮さんとの出会いが、きっと俺にとっての最初で最後の救いなのだ。
けど、御岳が思う以上に俺の傷は深い。
たかが、一ファンに出会ったところで――俺の重い仮面が剥がれることはない。
御岳も知らない。
親友にも話せないことを、この世の誰が救ってくれるというのだ。俺に救いがあるとしたら、それは“裁き”のみだ。
近所で御岳と別れ、家に着くと玄関から冷んやりとした空気を感じた。背中にぞわりとした寒気が通った。
案の定、リビングでは母さんが怖い顔をしていた。
「怪我してるのに出歩いて」と。
怪我をしたのは一週間も前の話だし、手首の痛みなどとっくに治っている。
無意味に広いリビング。
大理石の床が余計に冷たさを演出する。
それでも冷たいのは家族じゃないことを知っている。
冷え切ったのは俺たち家族にあった過去なのだ。
「来週、いつもの雨宮の集まりがあるのだけど出席できるわよね?」
「あ……」
忘れていた。年に一度行われる親戚一同が会するパーティ。正直、俺は苦痛しか感じない。拷問パーティだ。
それでも、欠席できないのは両親の顔を立てるためである。
階上から、妹の晴日の豪快なバイオリンの音が聞こえてくる。それに比べてリビングの端に置かれた埃一つないグランドピアノは今日も音を立てることはない。
その日の夜、八社宮さんからメッセージが入っていた。
《また、遊びに来てください》
どこまでも誠実で悪気のない彼女の言葉に、どうしてか俺の頬が緩んでいた。




