【第17話】一歩前進、二歩戻る。前からも後ろから手を引かれているらしい。
沈黙が店内の喧騒に紛れ込み、言葉を失った八社宮さんの戸惑いが視界の片隅で澱んでいた。それでも、喉に何かが詰まって塞がったように、開いた口さえ閉じられないまま俺は、両者も見ることができずに視線を落とした。
耳朶に擦り込まれた誰かが皿を鳴らす音も、常連さんの何気ない笑い声も、赤ん坊の泣き声も――頑丈なガラス窓の向こうにあるように聞こえた。
泥の付いた茶色のローファーがこつりと、俺の視界に踏み込んだ。顔を上げると紙子がソファから立ち上がっていた。
「……まあ、いいや。なんかめんどくさそーだし、あっちでチョコパフェ食って、ささっさと帰ろうっと」
マスコットの付いた水色のリュックをソファから引き摺り出しながら、紙子は何事もなかったように友人たちの席に入っていた。
これには八社宮さんも言葉を失っているのだろう。八社宮さんから感じた戸惑いの音が大きくなっていく。本来なら、俺が八社宮さんに言葉を掛けるべき――なのに。
「八社宮さん……ごめん」
立っていられなかった。俺は、八社宮さんの顔を見れないまま足早にバックヤードに駆け込んだ。丸椅子が傾く勢いで腰を掛けた。座った瞬間にピリピリとした痺れが強く全身を駆け巡った。
そんな自分の身体をどこか別の個体として俯瞰しながらも、頭の中では紙子の言葉がひたすら、リフレインしていた。
――あの人がいなくなったら、俺は解放されるのだろうか。
壁一枚隔てた薄壁の向こうで誰かの気配がした。
でも、それ以上踏み込むことなく、それが誰なのか分からないままだ。
*
「――ここ? 例の幼馴染の店?」
赤煉瓦造りの温かみある外装は、いつ見ても『あまみや』の残酷な過去を覆い隠している。
「そそ、アイツ元気にしてるかな」
友達はいつだってわたしの味方で居てくれる。
電車を乗り継いで駄弁りながら、どこまでも一緒に来てくれる。
「あたしら大人しく待っとるからさ、久々の再会楽しんできー」
「ありがと」
それでも、満たされない。ポカリと空いたままの穴を埋めたくてアイツに近づいてしまう。
――そんであんな顔されたらさ、笑っちゃうよね。
「おお、どうだった?」
「……ビビってた。サプライズすぎて、スプーンぶち撒けるくらい」
「あーね、ガッチャンいってたな」
みんなの声が、右から左に抜けていく。
分かっていたはずなのに。
近づいた分だけ満たされないものが深まっていく。
久しぶりの再会は、甘ったるい匂いがやけに鼻について、ちっぽけな虚像をまた膨らませた。
*
教室の中央で一つのグループがクリスマス会と称し、顔面ケーキを炸裂させた。甘い香りが周囲に充満している。
「なあ、お前バーベキューとか好き?」
御岳にはこの騒がしさを遮断する機能が付いているのだろうか。スマホを片手に前の席に座っている御岳が訊いてきた。
「は? 何、急に」
漫画を読む手を止めて俺は、御岳を見た。
それでも御岳は、こちらに目も向けずスマホをスクロールし続け、俺に色白で整った鼻筋を見せつけたいらしい。
それから御岳の片足が忙しなく揺すられていることに気づいた。机に見切れながら、行ったり来たりする膝小僧もいつにも増して落ち着きがなかった。
「いや、で?」
返答要請だ。
催促してまで、御岳は何としても俺の回答を望むらしい。
「……逆に聞くけど、バーベキューとか好きそうに見える?」
偏屈な返答にやっと顔を俺に向けた御岳。
見つめ合ったところで、トキメキのトの字も感じない。
それでも御岳は俺を見続けた。
「見えねえ」
「ちなみに、お前もな」
この警戒心の欠けたやり取りが俺の片足どころか、胃を揺らすことをつゆ知らず、御岳にふっと鼻から息を吐いて微笑みを向けた自分を殴りたい。
「行こうって、紙子が」
喧騒が、消滅した。
紙子の猫撫で声に、丸ごと呑まれた。
「は!?」
「八社宮さんも一緒にって」
無意識に奥歯を噛んでいた。「まあいいや」が有効だったのは、あの瞬間だけで、紙子はどこまでも俺を逃がさないつもりらしい。紙子が店に現れたあと、八社宮さんとは数回言葉を交わしたものの、互いに紙子の話題には触れなかった。
「なんだよ、俺だけ仲間はずれかよ。いつの間に三人仲良くなったんだよ」
と、口を尖らす御岳に罪はないけれど、俺は冷静な視線を送れているだろうか。
読み掛けの漫画パタリと閉じ、俺は御岳から自分を隠すべく、こめかみを両手で挟み覆った。
「な、なんだよ。顔怖えぞ?」
頭を下げ、薄く開けた瞼の先に漫画の表紙が映った。
四人の登場人物が温かな笑みを交わしている。
星降る夜、記憶を取り戻した奏は、仲間に語った。
過去の自分が犯した罪を。
「……仲良くなんてねえよ」
俺のつぶやきが、御岳に届いたかどうか分からない。だが、これだけは分かる。
紙子が何を企んでいるのか見当もつかないが、それでも紙子が、御岳と八社宮さんを巻き込んだということは、俺の逃げ道は用意されていない。
せめて八社宮さん自身が断ってくれることを心の底から祈りながら、俺は御岳に促されるまま誘いのダイレクトメッセージを送った。
その返信は数時間後、俺の神経が擦り切れる寸前で訪れた。それと程なくして、ハサミ先生のアカウントには、『締め切り、間に合った』という投稿があって、俺は誰に見せるでもなく頭を下げ、それから“いいね”を押した。




