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【第16話】隣の木苺は毒気に染まらないらしい。

 あの日以来、八社宮さんを取り巻く環境は変わった。

 ネットでは、美人漫画家と話題になり、炎上騒ぎは手のひら返しで時とともに終息した。

 

「知らなかったわ、八社宮さんがそんなすごい先生だったなんてねぇ」

「でもね、ここでは今まで通りやっていくからさ。何かあったら早めに、早めに言ってね」


 バイトに復帰した八社宮さんに、山根さんがそんなことを言っていた。

 

 勇気を持ったカミングアウトが必ずしも実を結ぶとは限らない。

 それでも、彼女の宣言は誰かの心を動かし、彼女自身の道を切り開くものであったと俺は思っている。


「あら、太陽ちゃん。ちょっと痩せたんじゃないの?」


 俺が小さい頃から常連の婆ちゃんたちが、料理を運んだ俺に話しかけてきた。


「ちゃんと食べてる?」

「なんだか、私たちばっか食べてるんじゃ気の毒ね」

「いやいや、折角つくったんで俺のことは気にせず召し上がってください」

 

 こってりしたハンバーグやステーキがテーブルで湯気を立たせる。

「あら、そう。じゃあ、いただきます」

 

 いくつになっても活力みなぎるこの人たちが羨ましく思える。

 俺なんて、ここ数日ろくに食事が喉を通らない。

 

 それからボックス席の手前に座る婆ちゃん軍団のリーダー格、関谷さんが優雅にティーカップをかき混ぜながら俺に顔を向けた。

 

「あ、そうそう太陽ちゃん、演奏、今度のクリスマス会なんてどうかしら?」


 きた、とばかりに俺は、顔に出ないように自然な笑みをつくる。

 

「あー、すみません。まだ……勉強とかもあって」

「そうなの? 早く復帰して。あんまり待たせるとおばさんたちあの世で聞くことになっちゃうわよ?」

 これには、婆ちゃん軍団が一斉に笑い声をあげた。

 冗談がきつくて笑いどころに困る。

 

「——これね、お駄賃」

 齢を重ねたにしては白く皺の少ない指先がテーブルにそっと五千円札を滑らせた。

「受け取れません」

「いいの。演奏会の前賃」

「いやー」

 渋っていると、無理やりエプロンのポケットに押し込まれる。

「お母さんには内緒ね」

「……あ、すみません」

 いつもの通り、頭を下げる。押し問答すると余計に時間を取る羽目になることは俺も学習済みだ。


 もういくらもらったことか、演奏会のギャラにしては多すぎやしないか。

 ていうか、そんな日が本当に来るのか。


 そんなことを考えながら、空いたテーブルを拭いていると背後から声がした。


「……雨宮、席案内してよ」


 聞き覚えのある猫撫で声に、背筋が激しく硬直した。

 恐る恐る顔を向けるとそこには、俺がこの世で一番警戒する女が立っていた。

 

 学区外の高校だというのに、わざわざ足を運んで来たのか。

 その後ろには取り巻きのような男女数人がキョロキョロと店内を見回している。


「なんで……」


 俺が漏らした声に奴——小原おはら 紙子かみこは八重歯を尖らせニッと笑って見せた。


「なんでって、お客さん。ほら案内して」


「空いてる席にどうぞ」


 と言っても、紙子の連れは、隣の空いてる席にすでに腰を掛けていた。


 自分で制御できない身体の拒絶が呼吸を荒くなるのを感じた。


「んじゃ、わたしここ」


 紙子は一人、拭き途中のボックスに足を組んで座った。


「ここはまだ」

「空いてるじゃん」


 俺は、紙子に構わずダスターでざっとテーブルを拭き終え、ワゴンからカトラリーの入ったボックスを手に取った。

 

「何しに来た」

「お金、貸してくんない?」


「は? 先月分はちゃんと――」

「父さん、もうダメそうなんだよね」


 その言葉を聞いた瞬間、足が重力を失ったようにその場に立っていられなくなった。


——ガチャン


 そのままよろけた俺は、スプーンを床にぶちまけた。

 ここにきて寝不足やエネルギー不足がたたると思わなんだ。


「あちゃ~、なにしてんの」

「失礼しました」

 紙子の声に重なるように、遠くで山根さんの声が店内に響いた。


 紙子とは視線を合わせぬよう、床に落ちたスプーンを拾おうと俺は、その場にしゃがんだ。


「なぁに、具合悪い系?」


 顔を見なくても分かる。

 紙子の視線が、俺をこの世の異物として蔑んでいた。

 目の前で、薄汚れた茶色いローファーが行ったり来たり揺れている。


「——太陽、くん?」


 その時、その声が俺を呼んだ。


「大丈夫ですか」


 気づくと、彼女が俺の横にいた。

 八社宮さんは、一瞬の躊躇もなくしゃがみ込むと床に散らばったスプーンを拾い出した。

 一番、見られたくなかったところに彼女が来てしまった。

 それでも、八社宮さんの存在が俺の中で支えになってくれていることを感じた。

 

「——大丈夫」


 八社宮さんは、集めたスプーンを手に、すくりと立ち上がると紙子の前のテーブルに置いた。


「八社宮さん……!?」


「お客様、大変申し訳ございません。

 こちら汚れてしまいましたので、お連れ様と同じテーブルをお使いいただけますか」


 紙子が八社宮さんの顔を顎を上げ睨みつけた。


「なぁに、……って、あんた漫画家のやつじゃないの?」


 八社宮さんが言葉を呑み込むように背筋を伸ばす。

 

「そうですが、何か」

 彼女の毅然とした態度に息を呑んだ。

 

「ふふ、あんた雨宮のこと好きなの? 何、もしかして、彼女?」

「……い、いえ。お、お友達ですけど! あ、あなたこそ、太陽くんに何の御用でしょうか」


 八社宮さんの問いを止めるべく、俺が口を挟んだところで紙子は止まらなかった。

「——は、八社宮さん……!」

 

 紙子の笑い声が小さくこだました。

 

「わたし? ——わたしはねぇ、雨宮の共犯だよ」


 情けなく膝が震えて頭上から冷たい水でも浴びたように血の気が引いた。


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