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【第15話】イヤーワームは耳を塞いでも止まないらしい。

 大勢の視線を浴びる彼女は――急にどこか遠くに行ってしまったように思えて、胸焼けみたいに胃の奥がスカスカした。

 スタッフとのやり取りに忙しそうな彼女を横目に、この場から離れようとした。その時、声を掛けてきたのは、やっぱり八社宮さんだった。


「――太陽くん、どう……でしたか」


 人目も憚らず、純粋な瞳を向けてくるこの人は、そういうところが無自覚で、そういうところが、俺をあたためてくれる。


「……今度、漫画読んでみる」


 そう告げると、八社宮さんは嬉しそうに笑みをうかべながら「はい!」と返事をするのだ。


 一人、帰路につき、電車に揺られ、瞼の裏側に焼き付いた彼女の後ろ姿を見つめる。


 ひたすら絵に向かい合い、そのためだけに呼吸をする。  

――創造神。

 きっと、雲の上でしか味わうことの出来ない魂の交流を目の当たりにした。鈍った体内を叩き起こすかのように小さな電流が駆け回っていた。


 数時間前には、抱くことのなかった感情が全身を包み、じわじわと侵食してくる。


 どうしたらいい……どうしたらいい!?

 俺、僕……どっちだったっけ。


 彼女をこんな人生に巻き込みたくないのに、彼女の姿がもう、頭から離れない。あんなに避けたかった八社宮さんとの交流が、楽しみになっている。


 どうしようもない。

 絡み合って、結びついた必然なんだから。


 だって、取り憑いているんだ。

 俺が、彼女に。


 いつの間にか、最寄りに着き、いつの間にか家に着いていた。


 門の傍の車がなく、玄関を開けると案の定、家族全員出払っているようだった。

 晴日のお気に入りの靴が下駄箱にないことを確認すると、靴を脱ぎ捨て、ピアノの蓋を開けた。


 いつもならこれでもかと水で擦り合わせる掌も、気にすることなく、音に触れたかった。


 旋律にぐちゃぐちゃにを乗せると、言い表せない感情が形になるようで気持ちが和らいでいく。


 結局、俺はピアノを捨てることができない。

 中途半端に、逃げることと取り戻すことを繰り返しながら、これからも生きて――


 眩しい光を思い出して、指先が止まった。

 逃げないあの人の背中が、手を引いてくれている。


 止まったままでいいのだろうか。

 俺だけ――……取り残されたままで、いいのか。


「――兄様!」


 その声に、はっとした。

 リビングの戸の前に晴日がいた。

 相変わらず小洒落た装いで、目を丸くして俺を見つめていた。

 俺は鍵盤から重い腕を離すと、立ち上がりそっと蓋を閉めた。


「やめてしまうのですか」


 晴日の声が揺れているのが分かった。

 この瞬間が嫌だ。


「――ニイサマには、勉強があるからな」


 晴日の脇を通り過ぎ、流しで手を洗う。

 弱酸性の泡で何度もすすいでは洗って、植え付けられた洗浄方法に縋ることしかできない。外で人目につく時は抑制しても、家ではやめることができない。


 そんな自分がどこまでも惨めで、情け無い。


――蛇口から溢れ続ける水の音に、晴日は顔を伏せた。


 いつも目を向けられない。

 兄が何度も手を洗わされていた記憶がある。


 兄は、誰よりも現実に囚われている。


 そんな兄の力になりたかった。


 その渦中に自分がいることを察していたから。


 だから、ピアノや八社宮さんの存在が、兄を取り戻す唯一の弦であると信じていた。


 なのに――うまくいかない。


 そんな思いに顔が歪んだ。

 晴日は誰に向けるでもなく、小さくつぶやいた。


「……うそです。兄様は自分でニイサマなんて、言わないのです」


 背後で父と母が車から荷物を下ろす音がした。

 妙に浮いて聞こえた。


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