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【第13話】目を瞑ると薄紅ノイズが耳朶をかき乱すらしい。

 冬の夜は、寒さに強い自分でも身を縮めてしまう。

 つい最近まで半袖で過ごしていたというのに、今はダウンまで羽織って厚着をしている。

 そして、夏の頃には存在さえ知らなかった八社宮さんが隣でマフラーに顔を埋めている。


 こんな俺を尊んで見上げた八社宮さん――あの後、彼女はバイトをサボったことや、昨日の言い争いについて謝罪の言葉を口にした。

 

 俺も謝った。


 それでも、しばらく八社宮さんの涙は止まらなかった。


 それが止むのを待って、俺たちは一緒に玄関を出た。

 八社宮さんのお母さんが夕食をすすめてくれたが、状況も状況だし、胸がいっぱいで食べられる気もせず断った。


 エレベーターの中でも、マンションのエントランスを出ても互いに言葉が見つからず、目線を下げ合った。

 

 近くの公園の散策路を行く途中で、八社宮さんがマフラーから顔を出し、ふぅっと息を吐いた。

 彼女の柔く木苺のように血色の良い唇の先で、白い息が舞う。

 それから、ふと隣を歩く俺の顔を見ると、ぽつりと言葉を落とした。


「失敗……しちゃいました」


 その笑みは、深く悲しみを抱えて見えた。

 失敗というのは例の炎上騒ぎの件だろう。


「……自分の言葉で返そうと思ったんです。誰かを挟んだやり取りでなく、一対一で」


 無理に口元を緩ます八社宮さんの顔が、ぎこちなく引き攣った。


「けど、ダメでした。太陽くんに言われた通りです……」


 互いに顔を合わすことなく、同じ方を向いて行く当てもなく歩を進める。ただ、夜風にあたりながら同じ空気を吸う。


 歩を刻むリズムが僅かに落ち、街灯が写す彼女の影が濃くなった。

 

「できないことは、大人しく頼るべきなんですよね。

 できないんだから……」


 小さくなっていく声。今にも止まってしまいそうな彼女の手を引きたくなった。でも、その手をポケットに仕舞い込んでスマホが中で震えた。


「失敗なのかな、それ」


 俺の声に八社宮さんが顔を上げ、こちらを向いた。

 黒目がちの瞳に俺が写っているのが分かる。


 気づけば、耳元まで体内の熱が昇ろうとしている。

 それでも、顔を背けるときではない。

 いま顔を逸らすことは、きっと、大雨でずぶ濡れになった少女に傘を差し出さないことと同じだからだ。

 

「話が噛み合わなかったこと。できないことを馬鹿にされたこと。

 ……それは、悲しくて虚しくて、自分を否定したくなる。

 でも、八社宮さんが努力してきたことはなくならない。やろうとしたことを恥じることなんて、一つもない」


 自分の正しさを測ることは、俺にはできない。

 だけど、彼女にとって俺の発言がどんな力を持っているのか。それくらい、俺をASAHIだと確信した彼女のあの笑顔を目の当たりにすれば、嫌でも理解してしまう。


「今の君を馬鹿にする奴がいれば、それは酷いノイズとか耳鳴りだ。

 その先に、御岳とか八社宮さんを応援してくれてる人がいる。今は、聞こえなくても――」

 

 言いながら俺は八社宮さんにスマホの画面を向けた。

 頼りない街灯より、スマホの方が明るく眩しい。

 SNSは、ハサミ先生を擁護し激励するコメントで溢れている。

 俺は、内心ほっとしていた。御岳が炎上だと騒ぐからどんな状況かと思えば、騒いでいるのは、ほんの一部の人間で誰もハサミ先生の失態やハンデを責めていないのだ。

 不安気に画面を覗く八社宮さんの身体が、なんだか小さく見える。

 

「八社宮さんなら、前を向けるよ。俺は、背中を押しに来た訳じゃないけど……頑張れって思ってる」


 スマホと右手をポケットに戻す。

 努力している人が報われる世界であってほしい。


 そんな確約のない祈りのようなものが胸の中で渦を巻く。


――だって、八社宮さんは違う。


 乾いた風がどこからか甘酸っぱい香りを運んでくる。


「太陽くん、私……頑張れます」


 夜だと言うのに、前を向き始めた八社宮さんの笑顔はどのライトより眩しかった。それから彼女は、顔にかかった後れ毛を耳に戻しながら、言葉を付け足す。


「――あなたがいてくれるから、これからも……」

「え?」


 鷲掴みにされた気がした。

 紙みたいに薄っぺらい俺を、八社宮さんは切り刻む訳でもなく、ぐしゃぐしゃに丸め込んでしまう。

 これ以上、どうするつもりなのか。

 

「知っていますか?


 知りませんよね。

 主人公の(かなで)は、とあるピアノの曲をイメージして生まれたキャラクターなんです」


 そう言って、微笑む彼女の顔は、腫れた目元と薄紅に染まった頬を除いて、すっかりいつもの八社宮さんだ。


「『ルミエール』……あなたの音です」


 葉の落ちない落葉樹がこれ見よがしに風で枯れた葉を鳴らし合った。まるで俺の心臓を丸め込み、追い打ちを掛ける音だ。

 

 それから、どこまでも付いてくる自分の過去に笑いが込み上げた。


「ふ……はははは……」


 逃れられない過去が、どこまでも。

 どこまでも。


――そうか。

 過去が俺なのか。


 ここには、過去の延長線にしか立てない。

 当たり前のことなのに、それに気づくと肩の錘が一つ外れた。


 過ぎてしまった出来事が足を引っ張り、

 過ごした時間が知らぬ間に種を植えていた。


「太陽くん……?」


「……ご、ごめん……」


 何が可笑しいのか唖然とする彼女に、息を整えながら一言謝る。片目の目尻に滲んだ涙を指先で拭う。

 

 きっと、俺は伝えてしまう。彼女に。

 誰にも言えない俺の罪を。



「――どうして、黙っていたんですか」


 何気なく尋ねる。だけど、彼女が知りたいであろうその問いが、俺を冷たい現実(いま)に引き戻す。


 

「……どうしても……話しづらいこと……が……あって」


 いざ、言葉にしようとすると、喉が詰まった。

 お伽噺によくある。

 核心に触れようとすると、真実を告げられない魔法。


 ネジが外れたように制御の利かない自分の身体。



 彼女なら――拒絶しないでいてくれるかもしれない。



 そんな淡い期待を抱きながら、ポケットに突っ込んだ手が小刻みに揺れ続けた。


 

 俺の不安定さを察してか、彼女はそれ以上踏み込んでこなかった。

 

 その場にしゃがみ込んで頭を抱えたくなった。


――吐き出してしまいたい自分と、拒絶を強く恐れる自分


 どうしようもない自分の馬鹿馬鹿しさと、惨めさが同時に襲ってくる。


 俺はどこを見つめるでもなく、ただ足を進め、下唇を嚙んだ。



 それから後方で、八社宮さんのブーツの音が止まった。

 気づかないうちに随分と前に来ていた。

 慌てて振り返ると、八社宮さんが自分の胸元を握り締め何か決意したように俺を見つめていた。


 首を傾げた。

 

「あの、太陽くん! 

 私、見ていて欲しいことがあります」


 そう言って彼女はスマホを取り出し、誰かに電話を掛け出した。



「――お願いします」


 相手はどうやら担当編集らしい。

 ベンチに腰掛け首を傾げて待つ俺を横目に、彼女のポニーテールがぴょこんと跳ねる。泣いたり笑ったり、とんでもなく忙しい人だ。


 彼女の話し声に、耳を傾けると聞こえてくる音色の心地よさに、俺は目を閉じた。

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