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【第12話】それは、諦めというより流されることを選んだらしい。

 八社宮さんの母親は、俺のことを知っているらしかった。

 俺が雨宮 太陽であり、かつてASAHIであったことも。


「いつか会えないかなって思ってたの」エレベーターの中でそう言って控えめに笑った八社宮さんの母親。


 その横顔を見て、突っ走って名乗ったことに不安が募った。エレベーターの数字が刻々と八社宮さんへ近づいていく。

 けど、母親が知っているというのに、八社宮さんは俺のことを知らなかった。

 それでも……自分で名乗った以上、八社宮さんに伝わるのも時間の問題なのだろう。もしくは、自分で明かすという選択肢だけは、俺の手の中にある。


 ここまで来ても俺の迷いは消えない。

 正体以上に過去を知られることへの恐怖が拭えない。


 ごちゃごちゃになった目的や感情を何度も巡らせて、やっと気付いたのは、あれだ。


 俺はずっと、

 嫌われることを恐れていた。


 それから、八社宮 唯子に嫌われたくないと願う自分。


――なのに、運命に導かれるようにエレベーターの扉が開かれる。


 かつての自分を光のように扱ってくれる彼女に、いまは暗闇で膝を抱える俺を、知られたくないのに。


 *


「どうぞ、上がって」


 訪れるのは2回目になる八社宮さんの玄関。

 微かに鼻腔を擽る甘酸っぱいラズベリーの香りが彼女の存在を漂わせた。


「とりあえず、リビングに……」


 玄関からすぐ左手に見える彼女の部屋のドアは閉ざされ、母親はその部屋を見つめると、小声でスリッパを差し出した。


 八社宮さんの部屋を横目に、リビングに通される。

 整頓されたテーブルの上にコーヒーの入ったマグカップが置かれる。マグカップまで娘の漫画のグッズである。


「すみません……」


 湯気の立つコーヒーを見つめながら、告げるべき言葉が見つからない。


 八社宮さんの母親は、テーブルを挟んだ正面の椅子に腰を掛けると、俺の顔を懐かしそうに見つめた。

 目のやり場に戸惑いながら改めて見ると、生き写しのように八社宮 唯子に瓜二つだ。当然、年齢による違いは感じられるが。


「私ね、学芸員で市民ホールの担当だったの」

 朗らかな笑みを浮かべる優しい顔と、柔らかな声音。


 それを聞いて、不自然なまでに逃れられない八社宮さんとの結び付きが腑に落ちた気がした。


 八社宮さんの母親の眼差しは、俺に話がしたくて仕方がないように見える。何か伝えたいことがあるのだろうか。

 だから俺は、八社宮さんの現状を聞くことをぐっと堪えて、その話を待った。


「――雨宮さんのお母様には演奏会でよくお世話になったの。だから、よく雨宮さんのことは存じ上げているんです。前にASAHIくんともお会いしたことがあるんですよ」


 昔は各地のホールで母に連れられて演奏をしていた。数えきれない大人に称賛され持ち上げられもした。

 その中の一人にこの人が混ざっていたことには驚くが、もちろん顔も名前も誰一人覚えていない。

 それに、母がピアノを辞める以前の話だとすると、もう7年以上も前のことだ。


「――実は、唯子をお店のバイトとして雇っていただけないか、こっそりお願いしにも行きました」


 八社宮さんの母親はドアの向こうに視線を送り、口元の前で人差し指を立てた。八社宮さんはそのことを知らないという訳か。

 

「ここら辺では有名なお店だけど、唯子はあまり外に出ない世間知らずだから……たまたま通りがかった時に見えた窓際のあのピアノに強く惹かれたみたいで……バイトがしたいなんて言い出したの」


 俺が生まれるずっと前に母がこだわって置いたアップライトピアノがそんな出会いを導いたのか。


「担当さんとのやり取りにも苦労していた時期で……このままではいけないと自分でも考えていたんじゃないかしら」


 じっと母親の目を見つめていることもできず、ふと逸らした視線の向こうに色褪せたひらがな五十音表が貼られていた。


「そこが雨宮さんのお店だったから、私もつい運命のようなものを感じてしまって……」


 最近になって、運命とか必然とか偶然とか、そんなことばかりを考えるようになったのも八社宮さんに“文字が読めないこと”を打ち明けられたあの日からだ。


「けど、ASAHIくんが元気そうで良かったわ……こんなことご本人に言うのはあまり良くないのかも知れないけど、雨宮さんのご自宅で何かあったことは噂で耳にしていて……」


 溜めもなく落とされたその噂こそ、俺の傷なのだ。

 どこまで知られているのか分からないが、本人を前に触れるのだから、表面的な事柄しか知らないのだろう。


「そうですか……」


 平然を装っても、内心の動揺は嘘なく波のように音を立てる。


「あの、差し出がましいかもしれませんが……最近、唯子が楽しそうだったのはあなたのお陰だと思っていて……それだけはお伝えしたかったんです」


 きっと、何か勘違いしている。人違いかもしれない。

 だって俺は、八社宮さんを煽ることしかしていない。

 

「ほら、文字が読めないから今まで友人もできずに学校にも行けずに色々苦労して……だけど、あなたにお仕事で助けていただいてから? あなたに送るメッセージも楽しそうに文字に間違いがないか何度も確認してきて」


 それは、自分のことかも知れない。

 そうなると相槌に困る。


「いや、俺は何も……」


 それから、母親の顔の角度が少しずつ心配そうに落ちていく。


「何があったのか昨日、家に帰ってからは荒れてて……担当さんとも会いたがらなくて」


 言いかけて、母親はハッと顔を上げた。

 その顔があまりに八社宮さんにそっくりで、隣の部屋にいる彼女の表情をつい想像してしまう。


「やだ、もしかして今日バイトの日だった!?」

「あ……はい」


「ごめんなさい」

「大丈夫です」


 口元に手を当て目を見張った母親に、まあまあと調子良く返すことしかできない。


「親には適当に言っておくので……」


 ここに来た目的が曖昧なまま、

 きっと次は俺が話す番だ。


「唯子に用があるのよね、今様子を見てくるわね」

 

 腰を上げた母親を見て急に手に汗をかいた。


「あ、いや……」


 そして、制止してしまって、喉を詰まらせた。


「あの、次のバイトは来るようにと……伝えに来ただけなので」


 そう言ってそそくさと立ち上がりコートを着る。


「え、でも……」


 今になって、何を焦っているんだと俯瞰する自分が冷静に語りかけてくる。

 その声を無視して突き進み、リビングのドアを開けた。


「あっ……」


――ドアの先には、八社宮さんがいた。

 目元に抱えきれないほどの涙を溜めながら。

 きついことを言われても人前で泣かなかった彼女が、今にも泣きそうな表情で俺を見つめていた。


「太陽くんが……ASAHIだったんですね」


 彼女のことが心配で来たというのに、笑っちゃうほど彼女が嬉しそうに微笑むから、もうあれこれ理由を考えても思考が追いつかないことを悟った。


「うん」


 頷いたことが正解かどうか自分には分からない。

 けど、思いの外、後悔はしていなかった。

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