【第1話】コーヒーの香りより甘酸っぱい香りの方が強いらしい。
いつからだろうか。
俺が自分のことを『僕』と呼ばなくなったのは。
曖昧な感覚でいうと、それは多分あの日だ。
俺が仮面を被るようになったあの時。
あの日、あの時と歌えたらそれはかなり幸せな方だ。
あの日の現実を思い返せば、歌えないし、あれがきっかけで俺はピアノを捨てた。
あんなことさえなければ、今頃どうなっていたのだろうと逃避することさえある。
だが、俺の現在は異常なまでに曇りがかっていて、どこまで行ってもお日様など見えやしない。
そう、今日の天気のように。
どんよりとした曇り空をウィンドウ越しに見上げ、テーブルを拭くダスターの手を緩める。
騒がしい。
感傷に浸る俺の背後で男女の揉める声がする。
「――いいじゃん、減るもんじゃないし」
振り返れば、ボックス席で自分と同じアルバイト店員である女子の腕が男性客の一人に掴まれていた。
「離してください」
頭の後ろで一本に束ねた長い髪の毛を揺らしながら抵抗する彼女に、3人組の男性客は笑みを浮かべる。
「水掛けたのはそっちだよね? それとも店長呼ぶ?」
「あまりにしつこいので、手が滑ってしまって……」
「あー、なら店長呼んでクビにしてもらおうかな」
「あの、それは困ります!」
冷静に威勢の良かった彼女が『クビ』という言葉を聞いた瞬間、口を閉ざした。
「なら、触ってもいいよね?」
男性客は彼女の着るそのメイド服のフリルに触れるように見せかけ、彼女の豊満な胸元に手を伸ばす。
それはもう不快な光景だった。
相手の弱みに漬け込んで、彼女のアイデンティティを踏み躙るその行為。
そして俺は、気づくと――男性客の腕を掴んでいた。
「俺が店長ですけど何か」
彼女の胸の寸前で止まった手に男が目を丸くする。
「は? お前が店長な訳ないだろ」
「――いや、ここ俺の店なんで。名札に雨宮って書いてありますよね」
店長の記載はないが、男は俺の名札を見て目を泳がせる。阿呆で良かった。
《雨宮 太陽》
雨なのか晴れなのか分からない。
そして、どちらでもあって、どちらでもない俺の名前だ。
まあ、実際ここは俺の両親が経営するレストラン『あまみや』だから、俺が店長と名乗っても許されるはずだ。
飛躍しすぎだが。
「うちの店員に何かしようとされていましたか? いくらお客様といえ、もし犯罪紛いの行為をされているのであれば即刻警察をお呼びしますが」
こういう時は毅然と対応するのが一番だ。
「い、いや。この女が水掛けてきやがったから腹立って」
「お水の件はそれは、申し訳ありません。クリーニング代をお支払いします」
俺は、常連の婆ちゃんにこっそりもらっていたチップの五千円札をポケットケットから取り出し男に手渡した。
「ありがとうございました。お出口はあちらです」
俺を睨みつけながら客らが渋々立ち上がる。
これはやりすぎたのかもしれない。
反感買った俺はその瞬間、立ち上がった一人の男に突き飛ばされた。
「あ、悪い。この店油がギトギトで足が滑っちまった」
押された勢いで俺は地面に手をついた。
「いてっ……」
左手首に鋭い痛みが走った。
男たちが倒れた俺を横目に笑いながら会計もせず店を出て行く。あとで親に怒られることを覚悟しながら、去って行く男たちの背中に少し安堵する。
「大丈夫ですか」
そう言って、彼女―― 八社宮 唯子は、膝を曲げて俺を見つめた。
長い睫毛が心配そうに俺の顔を覗いている。格好つけたものの最後は突き飛ばされ、ダサすぎる。
羞恥心を感じ、差し出された八社宮さんの手を掴み返すことができない。
「もしかして腕、痛めましたか?」
俺は、無意識に痛む左手首を摩っていた。
「あ、いや、ちょっと捻ったかなって」
「すぐに冷やしましょう」
八社宮さんが慌てるように立ち上がり、バックルームに駆け込んでいく。
彼女の後ろ姿、揺れる長いポニーテールからラズベリーのような甘酸っぱい香りがした。




