宴の後
小さな事務所の狭い駐車場に乗り込んできた真っ赤な車は、見事なハンドルさばきで寸分の狂いもなく収まる。
約束は破られていないようだ。
改造はいけない、絶対にやめろと何度も伝え、なぜかそれを律儀に守ってくれている。
「久し振り、元気か姉さん」
「姉さんは止めてください」
迎え入れたとたんに強めに肩を叩かれ、真理子は苦笑した。
扉の隙間から風が吹いてくる。
五月の爽やかな空は窓の外に広く冴え渡り、濃い草の匂いが鼻をくすぐった。
「夜間学校はどうですか」
「総長やりながらガッコはマジきついわ、そもそも夜走れねえ」
紫色ではない唇で笑うミヤはやはり艶っぽく美しかった。
「……でさ。もう完全に舎弟だあれは。ファミリーって言われてる。この前なんか怪物含め全員で川底をさらってんだぜ?カッパを仕留めるんだと」
「もう、本当、どの部分を聞き直せばいいかわからないですね」
カウンターに座り、原色のニットスーツで長い足を組むミヤにため息を返す。
臨時に雇っていた柔道部員達に、「報酬はいらないので、代わりにあの人の……新婦の叔父の連絡先を教えてほしい」と詰め寄られたのは記憶に新しい。
一瞬で床に沈められたのがよほど衝撃的だったのか、彼らは「もう一度組み合いたい。あの強さの秘密を知りたい」と訴えた。
全員で止めたのだ。ミヤもその他も一緒に、あれはだめだ、あれだけはアンタッチャブルだと必死に止めた。しかし彼らは行ってしまった……。
武に生きる人間の感覚は謎だ。
「まあ、なんやかんやでわいわいやってるらしいよ。怪物も元気そうだ」
髪をかき上げるミヤに肩をすくめる。
「それならいいですけど。あちらはあちらでわいわいやってるみたいですし」
「ああ、あれだろ?マナー教室」
おかしくてたまらないと言う風に吹き出す声に、真理子は眉を下げて乾いた笑いを返した。
何を思ったのか突然、前川夫人が教室を開いたのだ。
マナー教室と銘打ってはいるが、マナーだけでなく声楽や観劇などその活動はやたら幅広い。
さすがの知名度で入学希望のご婦人方がひしめく中、一部毛色の変わった生徒らがいるのだとか。
姐さん先生姐さん先生とやたら懐いてくる若い娘達に前川夫人のやる気と喜びもひとしおだ。「あらあらハルちゃんたら」「ユカちゃんたらまあまあ」と目尻を下げて可愛がっている。
そして人生の後半で充実の糧を見い出し生き生きと過ごす夫人の様子に、夫の前川氏もすこぶるご満悦な様子だと言う。
「何がどう噛み合うかわかんねえな」
「同意です」
真理子がつぶやくとミヤは片眉を上げて笑う。そして、ふと思い出したように背筋を伸ばした。
「そうだそうだ、大事なこと忘れてた」
ぱっと手のひらを向けてくる。
「とあるやつが来年結婚が決まったから、あんたに依頼したいとさ。また仕事の予約だ、嬉しいだろ」
「…ええっ」
悲痛な叫び声を上げると、憎らしい半笑いが返ってくる。
「何で毎回そんな反応なんだ」
「じゃあ聞きますけど、それは誰ですか」
「鬼羅レディースの元総長。マスク女だな。あいつもまともになったよなあ」
「ほらね!そのあたりだと思ったんです!」
楽しげな笑い声が上がる。
「だから言ったろ、あたしの力が必要だろって。卒業したらここに来てやるよ」
「……」
当初の目論見とはかけ離れたコネを手に入れてしまった。
望まない芋づる式のコネにおののく真理子にミヤは力を貸してくれると言った。
夜間学校を卒業して、その他もいろいろ卒業して、そうしたらこの事務所に就職してくれるらしい。
確かに、この恐怖の芋づるが続くならばミヤの力は必要になるかも。
いやいや逆に摩擦が倍増しないか?危険度が増さないとも限らない。
今後この事務所はどうなるのか。
業界を違う道でのし上がっていくのか。
先行きが不透明すぎて心臓が痛い。つらい。
「ちょっと……考えさせてください……」
眉間を押さえる真理子に、掠れた笑いが届く。
楽しそうに耳たぶを指で撫でられて、パンと払い落とす。
女性のみの特殊な世界にいたからか、ミヤの距離感はおかしい。
「非暴力宣言じゃねえのか」
「あなたとその界隈の方々限定で解除されますね」
と、新たなエンジン音が響いた。
「お、来た来た」
まぶしそうに目を細めたミヤが窓の外へ体を向ける。
つられて目を遣ると、独特なピンク色の車体を持つ外国車が駐車場に現れた。
流れるような動きにきゅっとタイヤがきしんで、瞬く間に停車する。
腕は鈍ってないようだ。
迎えようと立ち上がった真理子は、窓越しに透き通った空を見る。
ふと「あの日」を思い出した。
あれはひどかった。
あの惨状を面白おかしく語るには、まだ何十年も必要だ。
というか、もう思い出したくない。
ただ、あれ以来、自分の仕事に対してほんの少しだけ考えが変わった。
結婚式の神様に、自分のことでなく、主役の幸せを心から祈ること。
それだけなのだが。
あの惨劇の二時間の最後、涙を流した時、心の奥の奥ですっきりとした気持ちを覚えていた。まるで今日の青空のように晴れた心地だった。
誰にも言わないけれどもそれは事実だ。
「いらっしゃいませ」
片腕を上げて挨拶するミヤの横で声をかける。
扉を開けて入ってきた小柄な女性は紙袋を下げている。
それでも好きだ、いやますます惚れたと真剣に迫って新妻を泣かせた、優しくてどこかずれている夫からの手土産に違いない。




