『隠れ里』への逃亡記録:夜。焚火の前で。
追手との逃走劇は夕方まで続いた。
明確に「終わった」と思ったのは周辺に地龍の痕跡を見かけなくなった時のことだ。
タツ。
ライ。
ゼクス。
ノア。
ミレイ。
全員が生き残った。
ここに至るまでは切羽詰まっていたので道中の記憶はあいまいだ。
森の中をひたすら走ったこと。地龍の姿を見かけるたびに足を止めて息を潜めたこと。敵が通り過ぎてほっと息をついたこと。
そのすべてに命の危険があった。
誰かが見つかれば死ぬ。
けた外れの緊張感。
一言も発さない仲間たち。
彼らの息遣い。
覚えている出来事は数少ないけれど。
「ここまで来ればもう大丈夫。奴らは僕たちを見失った」
もう安全だと分かった途端。
走馬灯のようにそれらの記憶が頭の中を駆け巡った。
「終わった、の?」
「そ、うみたい、ですね」
「ああ、くそったれめ。生き残ったぞ」
「……あたし、もう動けないかも。おなかすいたぁ」
まるで悪夢から覚めたみたいだ。
全員が放心状態。
ひとまず危機は去った。
という実感がいまいち湧かない。
見落としているだけで地龍の痕跡があるのかもしれないし。
どこかで姿を見られているのかもしれないし。
まだ逃走劇は続いているのかもしれない。
(不安だ)
気を抜いてはいけないのだ。
そうはいっても逃避行はまだ続く。
『隠れ里』はまだ遠い。
ライ曰く。
たどり着くまでに五日間はかかるそうだ。
道中で一度でも地龍に見つかったらおしまい。
未だ極限状態であることに変わりはない、が。
ずっと気を張っていては疲れてしまう。
今日から五日間も緊張状態が続いていては、精神的にも疲弊する。道中で些細な痕跡を見落として、地龍に見つかってしまうかも。
そんなことにならないためにも休息は必要だ。
師匠――ヴァネッサ・ロウだってそう言うだろう。
ノアの言う通り腹も減った。
無理やりにでも休まないと。
「さて」
タツは笑顔で言った。
「一旦は危機も去った。今日はここで休もうか」
少し遅れて全員が返事を返す。たいていがうめき声のような感じだった。
みんな疲れている。
タツだって疲れている。
なら休もう。
休めるうちに。
〇
タツが「今日はここで休もうか」と告げたあと、ライはすっと立ち上がった。
「じゃあ、私、食料を探してくるね。少し待ってて」
息も絶え絶えのノアが「えっ、もう動けるの……?」と呟いたが、ライはいつも通りの笑みを浮かべて、森の奥へと足を踏み入れた。
地龍の領域。
普通の人間なら一歩でも足を踏み入れれば命を落とす危険な場所。けれど、ライにとってはここが“日常”だった。
(このあたりなら、たぶん……)
大木の根元にしゃがみ込む。
腐葉土の匂いの中に、ほんのり甘い香りが混じっていた。
地面をそっと掘ると、茶色い殻に覆われた「モクダケの実」が顔を出す。食べるとほんのり苦みがあるが、火を通せば甘みが出て腹持ちもいい。
さらに彼女は足音を殺して茂みに近づく。
獣道の先に、小型の四足獣がいた。丸まった背、ふさふさの尻尾。
〈ヌスビトネズミ〉だ。
ライはそっと背中から弓を外す。
腕の動きに迷いはない。
狙いを定め、一瞬のうちに矢を放った。
矢は音もなくヌスビトネズミの首元に突き刺さり、その場で崩れ落ちた。
「……うん。これなら、三匹はほしいな」
彼女は淡々と狩りを続けた。
この領域の生き物は、どれも凶暴な地龍の影響を受けてか、気性が荒く俊敏なものが多い。それでも彼女の動きは無駄がなく、見事に急所を射抜いていく。
やがて獲物と植物を手に、ライは元の場所へと戻ってきた。
彼女の腕には、先ほどのヌスビトネズミが三匹ぶら下がっている。
「ただいま、いっぱい獲れたよ」
ノアが目を丸くした。
「え、それ……もう捌いたの?」
「うん。焚き火で焼くだけにしておいた。毛と内臓は、あっちに埋めてあるから大丈夫」
さらりとした口調だったが、その手際の良さにゼクスもタツも感心していた。
「さすが……って言うべきなのか、何なのか」
「……地元の子は、強ぇな」
ライはちょっとだけ照れたように笑って、手早く串焼きの準備を始めた。
モクダケの実は薄くスライスして、葉に包んで焚き火の隅に置かれる。肉と一緒に焼けば、ほのかな甘みと香ばしさが合わさって、食欲をそそる匂いになる。
「あと、これもあるよ」
彼女は赤紫の実を取り出す。丸くて小ぶりな〈シズリの実〉。独特の酸味があり、火照った体を冷やしてくれる効能もある。
火が起き、肉が焼ける音が響く。
煙とともに、獣と木の実の混じった香りが漂ってきた。
仲間たちの目が、無意識にその匂いに引き寄せられていく。
ライは小さな鼻歌を口ずさみながら、串をくるくると回す。
火の明かりが彼女の横顔を照らし、まるでこの地の一部とでも言うような、不思議な調和を感じさせた。
串に刺さった肉はじゅうじゅうと音を立て、ほんのり焦げ目がついていく。
脂の焼ける香りが空腹を刺激し、誰からともなくゴクリと喉を鳴らした。
最初に手を伸ばしたのはノアだった。
気を遣う様子もなく、串を一本引き抜いて口に運ぶ。
「……んまっ!」
その一言で、残りの面々も遠慮をやめた。
ゼクスは無言で串を手に取ると、ひと口かじってから頷く。
「野生の肉にしては悪くない。いや、普通にうまいな」
「さすがライさん……こんなとこで、こんな美味しいものが食べられるなんて」
ミレイは涙目で肉を口に運びながら言った。
震える指先で串を握りしめ、ぐすっと鼻をすすった。
「はは、泣くほどか?」
ゼクスが呆れたように笑うと、ミレイはむくれ顔で言い返す。
「泣くでしょ、これ……昨日も今日も、地龍に追われて、何も食べられなくて……うぅ……」
ライはちょっと恥ずかしそうに笑った。
「えへへ……よかった。口に合って」
その照れ笑いに、皆の表情が少しずつ和らいでいく。
焚き火の明かりが輪を描き、その中にいる彼らはまるで昔からの仲間のようだった。
しばらくは、肉を噛む音と木々のざわめきだけが夜を満たしていた。
そんな中、ゼクスがふと口を開いた。
「なあ、ライ」
彼の声に、全員の視線が彼女に向く。
「その“隠れ里”に着けば、本当に助かるのか?」
焚き火の火が、パチンと弾けた。
ライは串を回す手を止め、少しの沈黙の後、真っ直ぐゼクスを見返した。
「助かる、よ。きっと」
はっきりとした口調だったが、そこには一抹の不安も混じっていた。
ライは続ける。
「『隠れ里』には、外の人に知られてない道具や、罠、それに……訓練された人たちがいるの。地龍を完全に倒すことは難しいけど、迎え撃つ準備はある」
タツが小さく頷いた。
「地の利があるってことか」
「うん。谷と森に囲まれてて、普通にはたどり着けないし、地龍たちもあまり深入りしてこないの。そういう場所を選んで移り住んだのが、私たち“隠れ人”だから」
「けど、さっき“きっと”って言ったよな」
ゼクスが言葉を刺すように指摘する。
ライは少しだけうつむいて、小さく笑った。
「……うん。“絶対”とは言えない。今まで里に地龍が来たことはなかったけど、私たちが連れてきちゃう可能性もあるから」
「……」
「でも、それでも……みんなが安全に眠れる場所にはなる。そう信じてる」
焚き火の炎がゆらりと揺れた。
言葉が途切れた空白の中、ミレイがそっとライの背をさすった。
「大丈夫。私たち、ちゃんと着くよ」
ノアも小さく拳を握った。
「地龍なんかに負けないし、ライの里も絶対守ってみせる」
タツはそれを見て、口角を少しだけ上げた。
「そのためにも、明日からも動き続けなきゃな。食えるときに食って、休めるときに休む。……それが師匠の教えだ」
その言葉に、皆が一斉に笑った。
焚き火の明かりは、ひとときの安らぎを照らし続ける。
(タツさん。変な人だけど頼りになるな。まるで――リーダーみたい)