『隠れ里』への逃亡記録:決断
タツは決めていた。
――次に、本当にどちらかを選ばなければならない時が来たなら。
その時は、迷わずに決断する。
正しいと思う行いを。
それが、どれほど愚かで無謀な選択であっても。
その「一言」を口に出そうとした刹那、脳裏に走馬灯のように浮かんだのは――旅の記憶だった。
絶望から始まった逃避行。
ライが言った。「自分を逃がしてくれた人がいたの」と。
その言葉がなければ、タツは一歩も前に進めなかった。
その人の名も顔も知らない。だけど心から思う――ありがとう。
始まりは二人だった。
それが、五人になった。
手探りのまま、それでも進んで、笑って、傷ついて、助け合って。
初めて皆で協力して倒した、指揮官クラスの地龍。
全員が命を張った共同作業だった。あれは興奮した。誇らしかった。
ライがこの世界の生き方を教えてくれた。
彼女が作ってくれた料理の味――忘れたくても忘れられない。
温かくて、優しくて、命の味がした。
その後の旅路は、目まぐるしく過ぎた。
地龍に追い回され、絶体絶命の崖を越え。
ミレイとゼクスとは、一度はぐれ、二度と会えないかと思った。
再会できたときの、あの安堵と涙は忘れない。
廃都市では、黄土色の地龍と死闘を繰り広げた。
その最中、偶然にも女性陣の裸を見てしまった。
――本当に、すまないと思ってる。謝り倒したい。冗談抜きで。
濃霧の森では、ミレイが裏切者だったと自白した。
驚き、混乱し、絶望した。
先輩たちの死が、間接的に彼女のせいだったと知って――
それでも、殺せなかった。
だって、仲間だったから。ずっと一緒に歩いてきたから。
正しい判断じゃなかったかもしれない。けれど、あのときの自分の全てだった。
それでも――
ゼクスも、ノアも、ミレイも。
みんないいやつだ。こんな自分を、リーダーとして見てくれた。
こんな自分を、信じてくれた。
(……僕は、みんなが好きだ)
この先生きてほしいと、心から思った。
あの光景を、笑顔を、命を、ここで終わらせてはいけない。
だから――
だからタツは、迷わなかった。
自分一人がここに残る。それが最善であるなら、それでいい。
黒い地龍を引きつけ、時間を稼ぎ、皆を逃がす。
命を使い切る。それが自分の役目なのだと、はっきり理解できた。
恐怖はあった。けれど、それ以上に確信があった。
これが、正しい。
自分が命を懸けるべき場所は、まさにここだ。
タツは、剣を構え、前を見据え――決定的な言葉を口にした。
〇
――死ぬ気はない。でも、ここは僕に任せてくれ。後で追いつくから。
そう格好をつけて、タツは立ち塞がった。
仲間を背に、獲物を構える。敵から視線を逸らす余裕はない。たとえ一瞬でも、命取りだ。
ぐがが、と低く嗤ったのは、目の前の“地龍”の兵士。黒い鱗に覆われた巨体。二メートルを超える筋肉の塊。
この五日間、何度も命を狙われた。追い詰められ、疲弊し、ようやくここまで来た。
だがこの因縁も、ここで終わる。
ここで――決着をつける。
周囲は原生林。天を突くような巨木。濃密な空気。濡れたような光。
かつて人類が暮らしていた土地は、今や地龍たちの“世界”だ。
虹色のキノコ、人の腕ほどのミミズ、毒々しく歪んだ生命。
ここは、龍の魔力に汚染された異形の楽園だった。
その奥深くにある一本の巨木――『隠れ里』。
そこにたどり着けば、生き残れる。
タツたちは希望を胸に逃げてきた。
だが、最後の最後で最悪の敵に行く手を塞がれた。
ここで誰かが食い止めなければ、追手に飲み込まれて全滅する。
だから、タツは決断した。
「ふざけないで、そんなの納得できるわけないでしょ!」
「たっくんがいなくなったら……意味ないよ……!」
「バカ言ってんじゃねぇ! 一人で勝てるわけねぇだろ!」
「た、タツさん……いっしょに戦いましょうよ……!」
仲間の声が飛ぶ。タツは、笑った。
あいつらには、何度も助けられた。
奮い立たせてくれた。支えてくれた。
だから今度は、自分の番だ。
「全員で戦えば、勝てるだろうね。けど時間がかかる。増援が来たら終わりだ」
「全滅――それが最悪だ。僕は、最悪だけは避けたいんだ」
「だから、行ってくれ。今すぐ」
迷いはない。
無駄口を叩いている暇もない。
仲間たちはしばし沈黙し――誰かが言った。
「……行くぞ」
一人、二人と走り出す。
龍はそれを見逃した。視線はずっと、タツだけに向いている。
そのときだった。
「――憎い」
敵が、言葉を発した。
タツの目が見開かれる。
(……喋った?)
「おまえが……憎い」
「だろうね。僕たちはきみの仲間を、大勢殺してきたから」
表面上は冷静に返す。だが、心の奥はざわついていた。
この龍には、“感情”がある。
「仲間なんてどうでもいい。俺が大切なのは、ごく一部。……それだけでよかった」
「奇遇だね。僕も同じだよ」
「想像しろ。おまえが今守ろうとしてる仲間を、俺が殺したとしたら? おまえは俺に、何を思う?」
「殺意。怒り。憎しみ。……そのすべてだ。存在を否定するほどに。生きてることが許せない。殺したい。……消えてほしい」
「だろう。俺は今、そんな気持ちだ。
――おまえが、俺の“大切”を殺したからだ」
「……ああ。よく分かったよ。君の気持ちが」
「分かってもらえたようで、何よりだ」
ぐがが、と龍が笑う。
タツは、笑わなかった。
ただ一歩、踏み出した。
「俺はおまえに復讐する」
その声には、怨嗟がにじんでいた。
「おまえを殺して、あいつの無念を晴らしてやる」
タツは、何も言わなかった。
ただ剣を握る手に、力を込める。
そして――地龍の兵士は、一歩前に踏み出した。
〇
そうして、龍狩りと復讐者の殺し合いが幕を開けた。
〇
足が、もつれそうだった。
転びそうになるたび、誰かが手を貸してくれる。けれど、ライは振り返らない。ただ前を向いて、ただ走っていた。
でも、頭の中は、あのときの声でいっぱいだった。
――「ここは僕に任せてくれ。後で追いつくから」
(うそつき……!)
心の奥で、叫んだ。
そんな言葉、信じたくなかった。信じたふりをしないと、自分まで崩れてしまいそうだった。
(何が「後で追いつく」よ。置いていかないって、言ったじゃん……!)
いつだってそうだ。タツはいつも、自分のことを後回しにする。誰かのために、勝手に傷ついて、勝手に立ち上がって、勝手に背負って――
(……バカ、バカ、ほんとバカ!)
喉の奥が苦しい。目の奥が熱い。
叫びたいのに、声が出ない。
息を吐くたびに、心が削れていく。
怖かった。
タツがいなくなるのが、怖かった。
戦いの中で死ぬことなんて、これまで何度も覚悟してきた。
でもそれでも、あの人がいるから大丈夫だと思えた。何があっても、自分は一人じゃないと――そう思わせてくれたのが、タツだった。
(……わたし、守られてばっかりだったんだ)
気づけば、手を握ってくれていた。寄りかかることを許してくれた。
温かくて、まっすぐで、時々抜けてて、それでも大事な場面では絶対に折れない人だった。
(あんな人を、置いてきた……)
後悔と罪悪感が、足を止めそうになる。
でも止まってはいけない。彼の決意を、無駄にしてはいけない。
そう思うほどに、胸が痛む。
――もしこの先、タツが追いついてこなかったら。
その可能性を、考えるだけで心が裂けそうになる。
「……タツ、ぜったい、来てよね……」
涙が、頬を伝った。
それでもライは、走った。
信じたかった。約束を、言葉を、あの笑顔を。
だって、自分にとってタツは――
たった一人の、希望だから。
〇
森の中を駆け抜ける足音が、だんだん遠くなる。
けれど――心は、そこに置いてきたままだった。
「……あたし、やっぱり、今から戻る……!」
ノアは足を止め、きびすを返す。
ずっと張り詰めていたものが、限界を超えた。
視界が滲む。喉が詰まる。息がうまく吸えない。
胸の奥が、叫んでいた。
――行っちゃダメだ。あんなの、おかしい。みんなで生き延びるって、言ってたのに……!
「待て!」
鋭い声が背後から飛んだ。ゼクスだった。
「戻って、どうするつもりだ。あいつの覚悟を、無駄にする気か!?」
ノアは振り返った。
その目は、赤く腫れていた。涙が、こぼれたまま乾いていない。
「無駄なんかに、しない……! でも、でもたっくんが……!」
言葉が詰まる。
「なんで、たっくんがあんな役やらなきゃいけないの!? ずっと、ずっと我慢してたのに……! あたしたちを、守るばっかりで……!」
涙が溢れる。止まらない。
「あたし、また――何もできなかった……!」
ゼクスの表情が一瞬だけ揺らぐ。だがすぐに、冷静な声で言った。
「だからこそ、生きろ。お前がここで死んでも、あいつは報われねえ」
「でも……!」
「戻ったところで、今のタツに勝てるわけがねえ。今のあいつは、“守る”ことしか見えてない。そこに立ち入るのは、戦いじゃなくて――自殺だ」
ノアは震えた。拳を握る。その手が、細かく揺れている。
「……悔しい……」
「俺もだ」
ゼクスは静かに言った。
「悔しいし、腹が立つ。こんなときに、あいつはまた“正しいこと”を選びやがった。でも、だからこそ……」
その瞳がノアを見る。まっすぐに、ぶつけるように。
「だからこそ、俺たちは生きて、やり遂げるんだ。あいつが繋いだ命を、ちゃんと“未来”にするために」
ノアの涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。
「……うん……」
しばらくの沈黙の後、彼女はゼクスの言葉に、小さく頷いた。
涙を拭い、拳を握り直す。
それでも、胸の痛みは、消えなかった。
〇
指先が、震えている。
握った武器の感触が、もうほとんどない。
痛みすら、どこか遠くへ行った。代わりに残っているのは、重さ。焼けつくような熱。自分のものとは思えない血のにおい。
息を吸うだけで、肺がきしむ。視界はぼやけ、耳鳴りがやまない。
それでも――タツは、剣を握っていた。
(……立て。まだ、終わってない)
目の前にいるのは、黒い鱗に覆われた地龍の兵士。
異様に膨れた筋肉、牙をむき出した顔。さっきの一撃で、右腕の骨はヒビが入った。脇腹も裂け、足がもつれる。
それでも、倒れなかった。倒れられなかった。
(……ここで、負けたら……全部が、無駄になる)
足を引きずり、一歩、踏み出す。
剣を振るたび、身体の奥から悲鳴があがる。筋肉がちぎれ、骨が軋む。
でも――タツの眼だけは、曇っていなかった。
(俺は、“生き延びる”ためじゃない。“繋ぐ”ために、ここにいる)
仲間の顔が浮かぶ。叫んだ声、揺れる瞳、涙。
それを守ると決めたから、今ここに立っている。
「ぐがが……もう立てないだろう。終わりにしてやる」
地龍の兵士が、ゆっくりと間合いを詰める。その手にある武器が、黒い光を帯びてうねった。
(終わらせねぇ……終わらせてたまるか)
タツは、口の端をわずかに吊り上げた。
脚に力を込める。崩れかけた身体を、ただの意地で支え――
「――まだだ」
魂の奥底から絞り出した声とともに、タツは地を蹴った。
全身の悲鳴を振り切って、最後の斬撃を叩き込むために――。




