『弥生時代』:世界に皇帝が出現した時代
弥生時代というと紀元前10世紀前後から紀元後3世紀中頃に当たるらしいが、この時代に起きたのが古代の大社会変革の原動力となった『稲作』がやっと日本で普及し始めた時代だった。
長かった縄文時代に続くこの時代、中国長江文明の根幹を成した米の水稲栽培が渡来人と共に日本列島に上陸、列島のその後の民族の生活習慣を決定付ける大事件となったのである。
稲作の普及と全土への浸透は、「主食の変化」だけではなく、文化的にも多くの影響を当時の古代日本だけではなく、後世の社会慣習にまで及んでいるような気が個人的にはしている。
中でも、水稲栽培に必要な農業用水の安定的な確保のためにも、それまでの家族主体の作業形態から離れて、『共同作業』による地域社会全体での意思統一による事業に移行していった結果、集団的会話の重要性が増していった時代が弥生時代だったのではないだろうか?
一方、広大なユーラシア大陸の東西の先進地帯では、王を超える巨大な権限を持つ『皇帝』が歴史に登場する時代だった。
『古代ローマ皇帝』と『秦の始皇帝』の出現である。
中国では、『周』の時代の後半、群雄が各地に出現して、『春秋戦国時代』と呼ばれる混乱の時代が続いたが、『戦国の七雄』と呼ばれる他の六国を制して歴史上初めて中国全土を統一したのが、『秦の始皇帝』だった。
紀元前221年のことである。
始皇帝の出現は東アジア史上初めての広大な『中華世界』の統一であり、それまでとは比較にならない程の画期的な覇権確立事件であった。
広大な領域を統一した帝国の統治には、それまでの各国が持っていた王権以上の絶対的権力の行使が必要だった点も、また確かなことだったろう。
即ち、それまでとは異なる巨大な権勢を振るったアジア史上初めての権力者が『秦の始皇帝』だったのである。
秦伝統の『法家思想』を背景にした始皇帝の思考方法は、極端に独善的であり、自己中心と呼んで良いほど民衆の心情とは乖離した強権政策で中国の全人民と対峙したのだった。
司馬遷の『史記』を読んでいると幸運にも自身が掌握できた権力が、同様に自身の子孫に永久に継承出来ると錯覚した始皇帝の如何にも人間らしい錯誤の瞬間が生き生きと描かれている。
加えて、永遠に寿命が続く仙人の姿に憧れた始皇帝だったが、その死は突然、巡幸先で訪れている。
それは、紀元前210年のことだった。
更に秦の不幸は続く。始皇帝が永遠に続くと夢想した彼の子孫の滅亡は、彼の死から十年に満たない紀元前206年だったのである。
上述のように超短命だった秦帝国滅亡の背景には、人民の意思や希望を完全に無視した始皇帝の暴虐で軍事優先の『覇権主義的政治形態』の存在があったことは明らかだった。
暴力によって屈服させられた全中華人民の怨嗟の的となった秦王朝は、滅亡以外の選択肢がないところまで追い込まれていたのである。
この東洋世界に於ける傾向は、二千数百年に渡る歴代中国王朝滅亡の前例となっている印象がある。
勃興期や成熟期は良いとして、帝国の衰退期を迎えると反乱分子による攻撃に対し、身を挺して王朝を支えようとする廷臣が希少な傾向が強く、特に、皇帝独裁の徹底した明朝では、最後の皇帝である崇禎帝に準じたのは、宦官一名にしか過ぎず、無数の朝臣は異民族である満州族の皇帝の元に雲集して奉戴の賛辞を送るのだった。
一方、ユーラシア大陸の西側で生まれたもう一つの帝国の名は、有名な『古代ローマ帝国』である。
時代的には秦の建国に少し遅れて、ガリア戦記で高名なシーザーが、皇帝権を手に入れる直前まで権力の階段を上り詰めている。
しかし、共和制以来の権力を主張する元老院と軋轢を生んだ結果、ブルータス等によって議場で暗殺の憂き目に遭っている。
古代ローマは初め、王政からスタートしているが、後に『共和制』に移行し、『帝政』への最初のチャレンジーであるシーザーが上述のように暗殺される憂き目にあった経緯が、古代ローマ帝政の前段階だった。
養父であるシーザーの身に及んだ元老院を中心とした怨嗟の恐ろしさを身に染みて感じていたオクタヴィアヌスは、自身の暗殺の危機を回避するためにも、元老院との表面上の会話を重視することによって、実質的な皇帝権であるアウグストゥス(尊厳ある者)の呼称を手に入れて初代皇帝となった経緯があった。
古代ローマは、オクタヴィアヌスが初代帝位に就いた時代、既に地中海世界の大半と西ヨーロッパを占有する広大な領域を持つ大帝国だった。
加えて、歴代皇帝の努力によって同帝国の領土は拡大を続け、五賢帝の一人であるトラヤヌス帝(98~117年)の治世には最大の領土を保有することになるのだった。
治政的にもトラヤヌスの次のハドリアヌス帝(117~138年)の時代には最盛期を迎えて、同帝国が歴史から消滅した後のヨーロッパ各地の国王達から羨望のまなざしを浴び続けたのが、この古代ローマ帝国の皇帝達であった。
歴代のローマ皇帝は、世襲を基本としながらも、『執政官経験者』が就任することが原則であり、前任者の指名も重要な要素でもあった点が中華皇帝との大きな違いであろうか?
この様に、東洋の皇帝と異なり、どこか、古代ローマ皇帝には話し合いによる残影が、皇帝選択の要素として残った印象がある。
この様に東西の両巨大帝国の帝位の継承方式は、その後の両大国の歴史的な経過を象徴するように大きく異なるのだった。
中国には古代から『先祖崇拝』の民族思想が濃厚に伝承されており、それを代表する『儒教』が歴代朝廷の政治思想の根幹を形作っていった経緯もあって、帝位も父子相伝の伝統が古代からの伝統として、出来あがっていったと史記を読んでいると濃厚に感じられる。
その民間も含む中国の伝統を朝廷内で、更に強化して、ルール化していったのが『儒教徒』だった。
幸いにも、代々の皇帝は皇帝権力を自分の子々孫々で独占しようとする熱望を胸に秘めていた背景もあって、歴代の儒教家達は宮廷の根幹思想としての儒教の重要性をことある毎に皇帝に吹き込んだ結果、中国朝廷の政権維持機構の中枢に儒学者達は、安住できた印象が史書からは感じられる。
その点、古代ローマ帝国の場合、初代皇帝として有名な『オクタヴィアヌス』にしても、長期間『執政官』を努めた実績が重視されて事実上の皇帝として帝政を開始しているのである。養父のシーザーと異なりオクタヴィアヌスは急がず、名誉よりも実務的権限の掌握に、その生涯の多くの時間使うと同時に、それ以上に有力者との円満な人間関係の構築に努力している。
彼がそこまで慎重に行動した背景には、古代ローマの歴史的背景があった。古くは、『王政』に続いて、『共和制』の時代を経て帝政の時代を迎えたローマは、如何にも地中海世界らしい、伝説の初代国王ロムルスによって設立された『元老院』が各時代を通じて厳然と存在して、有力者の意見発信機関の役割を果たしていた。
貴族や有力者から選ばれた元老院議員は、共和制時代にも法的決定権は無かったが、実務者である政務官は諮問機関である元老院を無視することは出来ず、その意向と存在感は大きかった。
シーザー暗殺の背景を十分理解していた養子のオクタヴィアヌスは表面上元老院を尊重しつつ、次第に実質的権力を奪うことに成功、紀元前27年に初代皇帝に即位したのだが、お目付役である元老院を残し、巧妙に自身の独裁的側面を糊塗することに成功している。
このアウグストゥスが用いたローマ世界らしい妥協システムが、後世まで続く西欧世界特有の長命の皇帝政権を導き出したのかも知れない。
ローマの元老院とは異なるが、中華王朝にも君主の問題点を直諫する役職が多くの王朝に存在していた。その名を諫官という。
あの独裁的な秦の時代から諫官は皇帝に忠告するシステムとして存在しているが、横暴な主君の間違った行いに身命を賭して忠告する諫官は少なかっただけでなく、暴君の行いに阿諛迎合する中国独特の宦官の弊害の方が大きかった。
もちろん、主君に対し歴史に残る直諫を試みた人物が居なかった訳ではない。そんな中でも有名なのが『唐の太宗』時代に太宗に仕え諫議大夫や侍中を歴任した『魏徴』の存在は大きい。
『貞観の治』と呼ばれる太宗政権の盛期を達成できた背景には、魏徴のような主君の欠点を率直に諫言して正道に戻せる忠臣の存在なしでは考えられないし、太宗のように諫言をまじめに聞き入れる皇帝の存在も貴重であった。
残念ながら歴代中華世界では、魏徴のような特筆される忠臣の存在は希少であり、多くの臣下は絶対的権力者である皇帝におもねることを職務とする佞臣も多かったのである。
中国の歴代王朝の君主も、凡庸な君主ほど阿諛迎合を好み、諫言を好む君主の数は希少だったが、一般的に観て、王朝末期の堕落した皇帝ほど、その傾向は顕著で、自身の問題点を指摘して強く諫言する朝臣に笑顔を向ける君主の数は少なく、まじめな忠臣ほど、左遷や死罪の憂き目に遭う諫官が多かったのである。
そして、もう一つ、中華社会には古くから『先祖崇拝』の伝統と共に、王朝を軌道修正させ悪逆な政権を抹殺できる古代思想があったのである。
戦国時代末期に性悪説で有名な孟子等の儒教家によって提唱された『易姓革命』思想である。
易姓革命とは、「天は徳の高い人物に万民を治めさせようとする一方で、その家系から不徳の人物がでた場合、どんなに優れた皇帝に依って創建された王朝であっても、徳を失った後代の皇帝とその王朝は別姓の有徳な有力者によって討伐され追放できる権利を人民(=反政府の有力者)が保持するという思想である。
古代中国の代表的な例として、『夏の桀王、殷の紂王』が古来挙げられる。両王共に暴虐の振る舞いにより悲惨な最期を遂げただけでなく、この易姓革命の思想は、歴代の古代中国の知識人の根底に染みついていて、王朝末期の悪逆な君主の追放や抹殺に歴代の官人達が躊躇しない背景となった理論的経緯が大きい。
この様にユーラシア大陸の東西で二つの巨大な帝国が形成されていた時代、古代日本は歴史以前の民族形成の揺籃の時代だった。
余りにも古い時代のため、比較すること自体無理があるが、個人的には、どこか古代ローマの方が次の古墳時代の日本に似ているような気がしている。
共和制から発生したローマの帝政だったが、宗教形態も古代ローマは古代日本ほどではなかったが、明確な『多神教』世界だったし、どこか異論を抹殺すること無く調和させる機能が組織の片隅に取り入れられていたところも似ている気がしている。
古代ローマの街角には、供え物を捧げられた神を祀る小さな祠が多くあったという。キリスト教信仰が普及する以前のローマでは、信仰を含めて思考方法の自由度が広かったのではないかと勝手に想っている。
列島では、弥生時代人による『水稲栽培』が進行して共同作業を重視する社会が形成されつつあった影響で、共同作業による『和』が重視される傾向が後世まで続いただけでなく、縄文時代以来の自然の災害を恐れ無数の『神々を尊崇する文化』も深く浸透した結果、『天の声を恐れる文化』が日本人の権力構造のどこかに潜み続けるのだった。
そのような背景もあって、東アジア世界に属しながら、どこか中華世界と異なる道を歩み始める倭国の方向性が、『弥生時代』に形造られた印象を受ける。