長かった日本の『縄文時代』
近年、日本の縄文時代の研究が進むにつれて、縄文と称される期間が益々長くなっている印象を受ける。
中でも、『三内丸山遺跡』の発見によって、古代史と無関係だった一般人の縄文時代の印象を根底から大きく変換させる強烈なものがあったようだ。
『栗の木』の栽培や大型の定住住居群の出現は、弥生時代の日本列島かと想わせる高度な集団生活の存在を感じさせたし、同地を歩いてみると、まだ、未知の『規律ある集団生活の痕跡』が隠されているような印象を現代人である我々に伝えたがっているようだし、相互に支え合った共同生活の様子が、同遺跡を散策していると実感できる。
時代的にも、縄文時代前期中頃から中期末葉と続いた大規模集落遺跡の出現はユーラシア各地や南方から日本列島に集住した多様な民族の一体化に大きく貢献したと考えられ、列島各地相互との交易の活発化も多くの出土品から検証されて、既に列島内で融和する環境が進行していった印象が強い。
一方、縄文時代の土器の代表である『火炎形土器』等の出土する多彩で自由度の高い造形美を観ていると、その多様な美的感覚が、次に続く弥生時代に失われてしまった印象さえ感じる。
縄文土器出現の時代を考えると、世界的にみても土器出現の初期のグループに属することは明白らしく、人間としての躍動感も続く弥生時代人よりも素朴でダイナミックだったのかも知れない。
この様に、長期の時間を狭い日本列島内の居住者が共有出来た結果、民族としての一体化と島国ならではの『相互理解』が進化していったように感じる。
その一方、漆によって彩色された『櫛』等の生活用品が出土している処にも、既に、日本独特の文化の淵源が“ほの”見えているようで、なんとなく微笑ましく感じる。
その結果、次の『弥生人』の到来時にも、新しい文化に対し、最小限の調整で混乱が吸収出来ただけでなく、自分達の文化として受け取ることが出来たのではたのではないかと勝手に想像している。
その点、『大陸に所属する民族や国家』は、周囲の強大な国家や隣国の異種の民族の影響や強力な圧力を受ける機会が多く、古代ローマ帝国のように、あれほど強大な帝国であっても、時間と共に衰退し、最後は滅亡に追いやられるケースも多い。
日本と同様の多神教徒だったローマ帝国の市民が異教徒の一神教である『キリスト教』に大変身した経緯をみても『列島に居住した民族』ならではの位置的固有性が幸いして、日本民族の古代からの独自性が現代まで連綿として保たれているように感じずにはいられない。
数千年の時代を経過しながらも、多数の自然崇拝を含めた『神』の存在を維持している民族は大洋の中の孤島の人々を除くと極めて少数派に属するのではないかと勝手に想っている。
それでは、『何故』、世界最大の大陸であるユーラシア大陸の東端にある列島が文化的独立性を1万年以上に渡って維持できて来たのか考えてみたい。
その背景には、最小限の大陸の『文化情報』入手の為のか細い海上交通路は常に維持されていたものの、国体を替えるほどの大軍勢の派遣は、巨大国家だった唐や元にしても容易に成し得なかった対馬海峡の存在が大きい。
この近くて遠い対馬海峡の存在によって、日本列島は古代から近世の『江戸時代』まで、延々とその独立性と世界唯一ともいえる独自の文化圏を維持できたのだった。